私に彼女ができない理由を理系っぽく考察してみた

 この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の5日目の記事です。

やあ。あまみるきーと申します。投稿が遅くなってしまい本当に反省しています。つれづれと文を書くのは昨年のadvent calendar以来です。よってあまりクオリティの高いものは用意できませんでした。これが理系の限界なんです。まあ、細かいところは目を瞑って、愚痴を聞くぐらいの感覚で読んでもらえれば幸いです。

いきなり下世話な質問をします。皆さんは人付き合いが得意ですか?…すみません、やはり愚問でした。私の周り、ことadvent calendar著者諸君が私の期待を裏切るはずがないですよね。ええ?そうでしょ?ねえ?

まあそれはそうとして。人付き合いをこなす上でいちばん大事なことと言えば、信頼です。相手を信頼することで、自分の人柄を知ってもらう構えができるし、相手のことをもっと知ろうとする意欲が芽生えます。信頼する相手にはどんなことだって厭わずできるようになれます。金だって貸せるでしょう。恋愛相談にだって本気で乗ってあげられるでしょう。試験の不正行為だって…いやそれはNGだわ。逆に、信頼できない相手からは距離を置こうとします。例えば山の中でクマに出会ったら間違いなく逃げたくなります(いきなり逃げるのはかえって危険らしいですが)。これは相手が獣だからというわけではなく、相手が全裸のおっさんでも同様の対応をしたくなるはずですし、相手が小動物ならそれほど怖れることもありませんよね。

ならばこの”信頼”なる概念を動かすのは何でしょう。信頼できる相手に金を貸せるのはなぜか。全裸のおっさんに声ひとつかけることさえ出来ないのはなぜか。

これは経済学と直接関わってくる議論であります。すなわち、人が以上のような行動を取る原動力になるものは結局のところ損得勘定(感情)なのです。先ほどの話を再び持ってくると、信頼を置く人に金を貸せるのは、必ずそれが返済されるだろうという前提のもと、金を貸すことで相手の自分に対する恩という利益を見積れるからです。

このケースで大事なのは、返済されるという前提ではなく、勝手に見積もった利益の方です。金の貸し借りを行う関係は銀行とでも作ることができます。このときも当然信頼が重要になりますが、だからといってそこに恩なる概念が生まれるはずもなく、せいぜい利息を余分に払えば終わりです。

じゃあ対銀行と対人との差がどこで発生するかというと、答えは簡単。”関係性の終点”の有無、これに他ならないのです。銀行から金を借りた場合、返済を終えればたちまちその銀行とは一定の関係性を失い、お互いが赤の他人として認識され始めます。これが関係性の終点です。終点を過ぎれば信頼の構造が問われなくなるということです。一方で、人と金の貸し借りを行なった場合はこの限りではありません。そもそも人間の感情というものを考えてみれば、金の貸し借りをできる相手との関係が、返済を終えた時点で一切無視されだすはずがありません。さらに長い間関係を保持したいと思う相手でないと安易に金など貸せません。多少人によりその裁量にばらつきがあるでしょうが、少なくとも私はそう考えます。

信頼をベースとしたアクションが終了しても関係性の終点に到達しない信頼、これを連続信頼(continuous trust)とします。対銀行のように、ある時にプツリと消滅する信頼を時間有界信頼(time-bounded trust)とします。この2つは相対する概念です。

さあ、ここで本題に入りましょう。配偶者はおろかその候補者さえいないというのは生物学的に敗者であり、敗者が勝つには分析がどうしても必要なんです。いくら悲しい気持ちになろうとも現実に向き合わねばなりません。はぁー。

まず、恋愛というものを私はこう定義します。恋愛とは、相手との信頼が任意の時点で連続的信頼であると証明する行為である。小難しい言い回しをしていますが、つまりは「永遠の愛を誓いますか?」ってことです。結婚式でよく聞くやつね。また、異性とか生殖とかいう単語を使っていないため「本能を無視している!」と批判する方もいるでしょうが、恋愛のかたちは多様なのです。同性だろうが子がいなかろうが構わないじゃないですか。視野と器の広い人間になりましょう。

話を戻します。私は基本的に人付き合いは好んでする方であります。私は大学で体育会の某部に所属していますが、他大学との交流にも積極的に参加してる方だと思います。日常でも、人間関係が薄くて困っているわけでもありません。

しかし、私はどうも相手に信頼を置くのを躊躇う人間なのです。相手を信頼したいと願って努力はするのですが、どうしてもそこには壁があって、本当に信頼できる人間なのか審査が始まってしまうのです。しかも大体の人にはより信頼を置くことを拒んでしまいます。一定量もない信頼に対して、それが連続的信頼かなどという判別は無駄です。連続的信頼であろうが、それは(広い範囲で考えれば)ゼロに近似されるのです。

また、一度相手に強い信頼を置けたとしても、それが本当に連続的信頼かどうかは別問題です。私の場合、「この人となら信頼を持ち合えるな」と思える人間は確かに周りにいるのですが、十分長い時間それを維持するのがきわめて困難なのです。何気ない言動の繰り返しが契機となって、一気にゼロに近づくまではいかなくても、信頼はじわじわと単調減少し、やがてゼロに近似されるまでになり得るということです。このような信頼を範囲有界信頼(extent- bounded trust)とします。気をつけねばならないのは、範囲有界信頼は連続的信頼のあくまで一部であり、時間有界信頼とは別物であるどころか逆概念だということです。

ここまでを整理すると、私はそもそも人を信頼しにくい人間であり、かつ一度信頼した人でもだんだん信頼が薄れてしまうのです。決して友人関係を否定しているのではなく、他者に頼ること、自分の(精神的、時によっては肉体的)一部を預けるのを躊躇ってしまうということです。金の貸し借りはできるけれどもそれは対銀行の事務的なアクションになり得るのです。正直、このことを明かすのも悩みましたが、自分に向き合うにはこれくらいせねばなりません。これを読んでいる私の友は、どうか私を疑わないでください。信頼そのものを揺るがす話ではありません。あくまで恋愛を考えた上での信頼の議論ですから。それに、疑われると余計な疑いを向けかねないので。

さて、最後に、問題の解決策を考えましょう。一度作り上げた信頼を崩さないためには、信頼を下げなければいいのです。すなわち、おおよそ2つの策が提案されます。

1つは、時間的有界信頼に無理やり変えてしまうこと。は?と思うでしょうが実は簡単です。私は中学生のころ好きだった人がいるのですが、その人は小学生のときの知り合いで、中学生になって以来一度も会っていないのです。小学生時代に出来上がった信頼が、卒業という”関係性の終点”を迎えたことで無理やり時間有界信頼となったと言えます。ただし、対銀行のように信頼がいきなりゼロになったわけではありません。私もその人も生きている限り、再会、すなわち関係が再び生まれる可能性があるわけです。よって、関係性の終点における高い信頼がそのまま残り続けたのです。ちなみに、今となってはさすがにその人のことはほとんど忘れてしまい、かつてその人に好意を寄せていたという事実だけが頭の片隅に残っています。

もう1つの方法は、信頼を高めるタイミングをきちんと作ることです。バレーボールはうまくパスを回していかないとボールが地面に落ちてしまいます。要はこれと同じです。放っておくと下がってしまう信頼を適宜上げればいいのです。難しいことのようですが、これは先程よりずっと簡単です。

「愛してる」

この言葉ひとつで解決する問題ではないでしょうか。私はこれ以上に信頼を再確認させてくれる言葉を知りません。私の世界もきっと、この言葉で救われることでしょう。

私の心理は、まあこういったところでしょう。しかし私は大事なことを忘れていました。

私は強い信頼を置かれるにふさわしい人間になれるのでしょうか?

to be continued…

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の5日目の記事でした。あまみるきー が担当しました。6日目はfeeleさん担当の予定です。

コメント

  1. START より:

    私は俗物なので、俗物的な言い換えをさせていただくのだが、その「信頼」というのは、つまるところ「恋心」というのではないのかな。結局恋心は自らの内部にあるものなので、保存も美化もされるし、如何様にも変質するものだろうからね。君は『人形(入ヶ岳愁)』を読むといいかもしれない(ダイレクトマーケティング)

    • あまみるきー より:

      恋心と言うよりは一緒にいたいって気持ちかな、恋愛だけにとどまらない話だから。けど、言わむとしてることはものすごく真実だと思う。おすすめしてくれた本、最近は読書に飢えてるからぜひ読んでみようと思う。

    • START より:

      (入ヶ岳愁とは私のことですが……)
      某高校の某文芸誌52号に載っているよ

  2. nininga より:

    出て来る外来語を全部英語(乃至現地語)で書いたら余計理系っぽくなりそう