学ぶのではなく考えるわけでもなく

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の8日目の記事です。

こんにちは、他の方が力がこもった記事を次々と書かれるのですっかり戦々恐々になっています、torikori です。他の方が書かれる記事を読む度に怖気ついて、私なんかが書いてもひたすらに叩かれて終わるに違いない、と感じる日々です。しかしながら、そうこういってても仕方ないので、ちょっとだけ書くことにします。

少しばかり筆者の過去、小学生のころの記憶、あるいはそれにまつわる話を、あえて今掘り返して自分の心を多少なりとも整理することにします。筆者にはさして整理する際に発生するこの文章を公開する意味を感じないのですが、どうもこのようなものに関心を抱く方がおられるようですので、この場を借りておいて公衆の面前に置いておきます。

注意: この記事にはやや激しい表現、発言、行動などが含まれています。また、これらの考えは基本的に小学生の頃の考えに過ぎず、今とは関係ありません。また、当時筆者と関わった方を傷つけよう、不快に感じさせようといったものでもありません。

教員の主張からの影響

(この部分は下の部分をある程度書き上げたのちに書いています。) 当時は気づきませんでしたが、今から考えると、教員からの道徳的観念の正しさを主張する「ふり」をして、それが整合していない部分を主張するために、あえてこのような行為を行ない、自らを犠牲にした上で、教員の私に対する奇怪な目を抱かせることにより意味合いをもたらすつもりであったのか、と思いました。つまりは教員の主張に過剰に従うことにより、それを皮肉るつもりだったのかもしれません。

控えめにいって無駄な時間、というのか無意味な反抗期だったな、という思いが今となっては湧きあがります。単なる馬鹿では…、などと

反省という言葉の概念

まず、反省という言葉の概念をいかに捉えるのか、というのは難しい問題だと思います。一般には過去を振りかえった上で、未来への課題を洗い出し、それを実践していき、また失敗したら、などと繰り返すものかもしれません。しかしながら、当時の筆者はそこで「実践」する能力が低かったのかな、と思います。また、そこで「実践」する能力を高めようともせず、ただ地を這うのみでした。それは、ただ自分の罪の意識を高めることにより問題は解決する、という或る種のシングルイシュー型思考に染まっていたのかもしれません。

ともかく、筆者は自らの行いの、一挙一動に反省、あるいは後悔の感情が芽生えていました。そこで、それらを生かすべくそれらを一覧にし「反省リスト」なるものをノート上に記述していました。ここまでは皆が一般的に行なうものであると考えます。しかし、筆者はそれを「解決する」ことに注意を払わなかったため、気が付けばどんどん自らの反省あるいは問題点で一覧が埋まり、全く閲覧しても多すぎてどこから手をつければよいのか分からない、更には見るだけでつらみの感情のもとで何も身動きがとれない、そんな状況でした。

生活習慣の癖を治す

悪い生活習慣が、自己にとっても社会にとっても長期的に不利益になるものであることは当たり前です。また、小学校での教育においても、日々忘れものをしないようにするために、教員は児童の生活習慣に気をつけ、かつ児童「に」そのような意識を持たせるべきであろう、と考えられます。これらを防ぐためには、実際によく忘れるものを自宅から出発する前に確認する、あるいは翌日に所持すべきものを手帳等に記録するなど、「習慣」を作成することが大切であろう、と考えていたような気がします。この辺りは多くの方が納得され、また実践しておられるかな、と思います。

しかしながら、当時 (現在も?) 筆者には、それを実行する能力もありませんでしたし、それを身につける意欲も能力も、またそれをどのようにしてすべきかの知見もありませんでした。従って、現在のそれは罰として不十分ではないか、ということで体を叩くことにより、今後の生活習慣を改善する、恐らくその頃考えていたのは忘れ物を減らすことであっただろうか、ことを期待していたのだと思います。つまり、「こわい」ということから、それらから離れる、つまり忘れることのないよう気を遣うようになるのを期待しているのであるのでしょうが、実際にはそれは痛みへの不安、あるいは自らの体にできたあざとして具現化していました。現状では忘れ物が減少していないが、それがこのことによるのか、いずれの要因によるものかは定かではありません。

私語を防ぐ考え方

私語をしないようにする最も明瞭な方法は、自らの口を覆ってしまうことであるのは自明でしょう。
しかしながら、補足ですが、ときたま意見調達としての「発言」が「私語」ではなく奨励されることがあるが、それらを行うには「発言」することにより生まれる結果が「私語」よりも大きなことが要請されます。筆者自身にそのような発言ができるかと問われると、無論それは否定的な結果を招くので、「発言」することを禁止してしまっても大した害にならないであろう、と考えていました。
さて、どのように行うのか、詳細を述べることにすると軽快に付け外しができ、またその場手元で「あまり」怪しくないようにするため、筆者が当時見いだした解答は、「セロハンテープ」でした。セロハンテープを自らの唇の概ね2倍となる分量で切り、それを2枚重ね、「×」方にして、口に貼付します。それにより、はがしずらく (唇のちょっとした移動により剥れずらく) なります。それにより、そう簡単には口から相手方に届く声をだすことができなくなった。また、衛生上、および粘着力の観点により、ほぼ一日数回取り換えていたように思います。
これを行うと、いざ食事の際など、やむを得ず剥さざるを得ない際に痛みを感ずることになるが、それ自身がある種の自らへの快さ、あるいはかすかながら快感であろう、と考えていました。また、やりすぎにより傷がつくこともあったが、それを含めてよさ、と思っていました。

このような行いによる、小学生としての弊害としては、周りに見た目で驚かれてしまうことがあります。ただし、それ自身により私が怪しい人を犯しやすい、とみなされるわけではなく、かつもし説明が必要になった際にはセロハンテープをはがしたうえで、口頭で説明できるので、大した問題はないと考えていました。最後に、学校にて行うものであるから、教職員との関係はいかがであったか、というのであるが、教員と話す必要がある際にはきちんとセロハンテープを剥がしており、まだ教員は「著しく」多忙であったようなので、さして気にしていなかったと思います。
ただ、今ではそれにより失ったものに思いを馳せることも多いです。残念ながら詳しくは述べまれませんが….

知人不要の考え方

私語禁止の考えから明らかなように、本来友人などというのは不要なものであり、自己の判断基準を荒らしかつ私語をなすなど有害であるから、そのような行いは禁止すべきでしょう。また、場合によってはいじめを例にして、いじめを避けるために一切の交友を断つ、という考え方もありかもしれません。

ちなみに、時折ただ一人孤独に存在することよりも他者から意見を受けてそれらを組み入れて消化し昇華するうちに、自らの思い上がった意見よりもよいものができるであろう、という話があります。しかし、その当時は意見の昇華は読書によりなされるべきであり、汚れた (とあえて表記することにします) 同級生から得るものではない、と考えていたので、問題はない、と思っていました。

などなど、このようにして、筆者は周囲に「友人などという概念は存在しない」と繰り返し主張するなどして、関わりを構築しようという動きを断り続けていました。

しかしながら、この考えにはいくつか課題がありました。容易に思いつくものとして、学校を体調不良等にて休んだ後に、授業の内容についていくことが難しくなる。これは当時自己責任であると考えることで解決したつもりになっていました。ちかみに、そのせいか小学校での内容のうち、今でも身についていないのが割かし多く、日々の生活にて苦労しており、また試験にて低い成績を残す一因かもしれない、感じています。
更には、それにより一切授業中の発言を除く会話の必要性を消滅させることができ、更なる孤独を構築することができるのかもしれません。

現在では、人と話すようになっていますが、この時の影響か、うまく話せないことがとてもたまにあります。

借金の考え方

人はこの世に生を得る時点において、社会から借金、ないし負債を抱えており、働き社会に貢献することによりそれが解消される、という考え。無論そこで差される借金というのには学費や食費、等々、結局自らが生まれここに生存していることに必要な費用手間それらすべてです。

しかしながら、当時の筆者にはここまで述べてきたように、問題山積でありかつそれらが修復される見込みなどないと考えていたので、自らの命を断つというのが明らかに正当な行為となります。この考えはおそらく自明なものであろうから、これ以上の説明は不要だろうとも思いますが、それはさておき。自らの存在意義などなく、それなのに教科書代、あるいは日々の食事代を払い存在することが許せないという思いで日々一杯でした。今から改めて鑑みると、その暇あるなら勉強しないのか馬鹿野郎、などと罵倒の感情があふれ出しますが、時折多くの人が抱くであろう「勉強したくない」、そうその感情を抱く身ならば改善される見込がないのならここで存在すべきではなかったのです。

そこで思考停止して存在しても構わないだろう、という考えも当時ほんの少しはありました。しかしながら、それによりただ思考停止している間に生成された借金は、どんどん加速度的に筆者の生存を困難にする、無理が大きい。したがって、これ自身も筆者が存在すべきでない理由の一つとして追加されたのです。

学ぶのでもなく考えるのでもなく

少しばかり過去の闇をたどってきました。とりあえず今思うのは、筆者はただの厨二病患者であり、何の高尚なこともなかったということです。そのようなことに時間を使うぐらいならば、実際に自己を改善すべきだったのです。何と愚かなことだったのでしょうか。

この文章を書くことで、自分の心を整理できるかな、と思って書きはじめましたが、思いの他まとまらず、また多くの矛盾を抱えたままになってしまいました。従って、ただの痛い何を主張しているのか分からない文章ですが、時間がないので、これまでにしておきます。またいつか、心の整理がもう少しつけば書くかもしれません。

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の8日目の記事でした。torikoriが担当しました。9日目はnèiténgさん担当の予定です。

コメント

  1. nininga より:

    自分の考えに対して忠実に行動を起こせるのはすごい(語彙力)