房総のやべー奴ら

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の9日目の記事です。

とうとう僕の番が回って来てしまいましたね。neitengです。普段はプログラミングをやっていますが、せっかくのAdventCalendarです。普段話さないようなことを書きたい。一回目は、僕の興味の一つである地理(?)について語ろうと思います。うまく魅力を伝えられるかな?


古来より大洪水は文明、ひいては世界を滅ぼすものの象徴として描かれている。

中でも旧約聖書の「ノアの箱舟」はあまりに有名だろう。神が地上に増えた人々の堕落を見て、人類の種を絶やさんとして大洪水を起こし、地上の生命を滅ぼし尽くしたと言う。まあノアは助かったんだけど。

似たような神話として、大洪水から生き残った兄妹が結婚し、地域の始祖となったと言う物語が沖縄県からインドネシア、ポリネシアにかけた各地に残されいる。これには「洪水型兄妹始祖神話」と言う身も蓋もないような名称がつけられている。明朝体で書きたい。

これ以外にも、大洪水が起こって文明が滅ぶと言った類の伝説は世界各地に残されている。もはや神話界の一大コンテンツだ。各地に残った神話を見比べてみると、「神が怒る洪水が起こって全てが滅びる正しい人間だけが生き残る」がテンプレとなっていることに気づく。

なぜなんら関係のない世界各地に、同じような内容の伝説が残されているのか。単なる偶然ではないだろう。これには諸説あるが、一説には、多くの古代文明が、河川に育まれた土地で発達しているからと考えられている。

古代人たちにとって河川は農業用水をもたらす命の源であるとともに、ひとたび氾濫すれば全てを押し流す恐るべき存在である。狭い世界に住む古代人にとって、一つの大河の氾濫はまさに「世界を呑みつくす大洪水」であっただろう。そのような人々が洪水の強烈な記憶に対し、洪水にまつわる神話を生み出して、彼らの人生にとって欠かせない部分を説明し対処しようとするのは珍しいことではない。実際、河川の氾濫や、津波の被害を受けない地域の民族は、大洪水説話を持っていないことが指摘されている。 – Wikipedia「大洪水」より

そう、彼らは、自分たちの力では到底抗えないもの、説明のつかないものである「洪水」が、神(水神)の仕業であるとすることで解決しようとしたのである。

彼らには、洪水を食い止めようにもなす術がなかった。人々は、このようにどうしようもない事象に出くわすと、その事象を司るより高次元の存在––––今回の場合は水神である––––を信じ、それを畏怖する傾向がある。河川の氾濫を鎮めるため、水神に対し生贄を捧げると言った儀式は世界各地で行われてきた。それは日本も例外ではない。洪水は、河川を司る水神が生贄を求めるためとも考えられていたので、生贄と引き換えに洪水を収めてもらおうと考えたことも頷ける。

つまり何を言いたいのかと言うと、人々は概して川を畏れるものだということである。彼らが明日生きるも死ぬも、全て川次第であったからだ。

しかしである。今まで述べてきたことを綺麗に裏切ってくれる地域が日本に存在した。

関西に棲まう我々にとって、房総という地名は聞きなれないかもしれない。安房国・上総国・下総国を合わせた地域の呼称らしいが、大雑把に言えば千葉県南部のことである。

かつてこの地域では、河川短絡工事が盛んに行われてきた。川廻しと呼ばれ、これはこの地域特有の呼称である。彼らは、トンネルや切通しを開削することで山間部を蛇行する河川を短絡し、旧河道を堤防で締め切り、干上がった川底を水田などに転用していたと言う。いかんせん資料が少ないため、広くは知られていない。

一般的に、河川の流路変更のほとんどは、水害対策のために行われてきた。しかし、房総においてはこの常識が通用しない。水田耕作する土地を捻出する、それだけのために、川の流れをやりたい放題にしていた。その数、無数。房総丘陵の地形図を眺めていると面白いほど見つかる。大規模なものは村主導で、小規模なものは集落単位で、それも45人で施工されていたと言うから驚きである。房総地方では、川廻しはごくごく普通の新田開発だったのかもしれない。むやみに川の流れを変えて、氾濫の危険はなかったのだろうか。彼らに、川に対する畏敬の念が少しでもあったのだろうか。

国土地理院地図・千葉県君津市笹付近を参考に作図

緑色が旧河川跡、赤色が新しく掘削された水路を表す。現在は亀山ダムの湖面が迫るため分かりにくいが、本流、支流にそれぞれ1つずつ短絡が存在したことがわかる。

いくら川が蛇行しているからといって、河川の短絡で作り出せる耕作地はたかが知れている。それでもなお、彼らは時に100m以上の長さのトンネルを手掘りで掘削して、川跡を水田に変えた。なぜそこまでして水田を作ろうとしたのか。それには、房総地方特有の地形が関係している。

房総の河川は深い谷を作っていて、川は人々の足元のはるか下を流れている。そのような地形条件のため、房総丘陵で水田耕作をすることは困難であった。水田には安定した灌漑設備(農業用水を供給する設備)が不可欠である。水は高いところから低いところにしか流れないので、深い谷の下を流れる川の水を引くことはできない。

そこで、房総の人々は発想を変えた。川の水を引くことができないのであれば、川それ自体を水田にしてしまえば良いのだ。賢い。こうして、川への冒涜とも言える河川短絡工事は江戸時代に始まり、明治時代の末まで続いた。

なぜ人力でこれほどの工事を行うことができたかというと、房総丘陵は柔らかい砂岩でできているからだ。

面白いほどよく掘れたので、何か不都合があればすぐトンネルを掘る習慣ができていたのだろう。房総には川廻しのトンネル以外にも、素掘り(手掘り)の道路トンネルや用水路トンネルが無数に存在することが知られていて、トンネルマニアの聖地となっているらしい。

この用水路トンネルもなかなか面白くて、200mを超える水路トンネルを村人たちが人力で掘ったというのだから凄い。房総地方の伝承を調べていると、しばしば用水路トンネルの開削のエピソードが見られる。彼らは日常的、とまではいかないにしても、当たり前のことのように山に穴を開けまくっていたのだろうか。

房総丘陵に暮らす人々は、明暮、川を見下ろして生活していた。もしかしたら、彼らにとって、谷深く流れる川はまさに下界だったのかもしれない。彼らは川の流れを司る高次元の存在として、川の流れを変えてきたのかもしれない。彼らにその自覚があったかは定かではないが、少なくとも、僕はそう思わざるを得なかったのである。彼らは、確かに水神であった。

現在、川廻しによって作られた水田では耕作放棄が進んでいる。その多くが山奥にあるため、放棄地の拡大は避けられないのだ。また、宅地造成などによって、川廻しの地形が失われつつある。

このまま風習は忘れ去られてしまうのだろうか。奇抜なアイディアで次々と水田を開いていった彼らの痕跡は失われてしまうのだろうか。その運命に抗うための一つの助力として、この記事を書いた、ということを付け加えて、筆を置かせていただこう。

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の9日目の記事でした。neitengが担当しました。10日目は ほんわか さん担当の予定です。

コメント

  1. nininga より:

    房総族こわい