憧憬

暫くすると、ロードバイクは上り坂へと差し掛かった。車二台がようやくすれ違えるかというような幅の、舗装も不完全な道を走るその先、東南東の空には先程上ったばかりの満月が輝いていた。

「嗚呼、帰ってきたのだな」

僕は小声でそう呟いた。産まれてから中学卒業までの十数年間を過ごした故郷、実に七年ぶりの里帰りになる。がたがたになった坂道も、その横に建つ瓦屋根の家並みも、あの頃と何一つと言っていいほどに変わっていない。ただ僕だけが成長しているという事実を実感する。一つ大きく息をついた。

中学までの僕は、一言で説明するならば目立たない子供だった。部活には入らず、休み時間になれば本を読み、普段から口数は少なく、成績は平均を少し上回る程度。運動は苦手で、マラソン大会は常に最下位だったのだが、ひょっとするとあの瞬間こそ、僕が一年で最も目立つ瞬間だったのかもしれない。勿論不本意だったが。

今にして思うと、そうやって自分の時間を過ごし続けた時代も悪くなかったと感じるのだが、当時の僕はそんな自分を変えたいと望んだ。高校は、同級生の居ない東京の私立校を選んだ。髪を短くして、ダークブラウンに染めた。運動が出来ないこと、無口で友達が少ないことが特に嫌だったので、東京では毎朝家の周りを走って、道行く人には積極的に話しかけるようにした。要は典型的な高校デビューというやつだが、結果的にそれはまずまず成功したので、僕としては満足だった。

前に車や人が居ないことを確認して、自転車を走らせながら周りを見渡してみる。僕が住んでいた家はまだ先で、ここらはたまに何かの用事で通り過ぎるくらいだったこともあり、特別目に留まる建物や場所は無い。唯一印象に残っていた山の手の空き家、僕がかつて勝手にお化け屋敷と呼んでいた洋館は、どうやら既に取り壊された後らしく、家のあった辺りは何も見えなくなっていた。とりあえず僕は上り坂の終わりを目指して、少しだけ自転車の速度を上げた。

ふと、何か音楽のようなものが聴こえた。それが洋館跡の方から流れてくるので、一瞬何やら嫌な想像をしてしまったが、何ということはなく、それは盆踊りのお囃子だった。

「そういえば、ここのお寺は毎年盆踊りをやるんだったな。出店なんか出して」

坂の向こうから聴こえる楽しげな音色に心が躍った。東京では大きな花火大会には行きこそすれ、小さな縁日や盆踊りは随分と久しぶりに感じる。峠を越える少し前の所に、お寺へ続く道が分かれているのが見えた。並んだ提灯が砂利道を明るく照らしている。

行ってみようと、そう思った。

思ったのに、ハンドルがそちらへ傾くことは無かった。分かれ道をそのまま真っ直ぐ通り過ぎる。お囃子と誰かの笑い声が横に流れていった。

「盆踊り、か」

僕は思い出していた。小学生時代、毎年盆踊りの日になると、僕はこのお寺にやって来ていた。誘ってくれる友達が居たわけでも、家族で訪れたわけでもない。ただ一人でふらりとやって来て、盆踊りの輪の外から、楽しそうな人達を、頭上に並んで光る提灯を眺めていたのだ。それが小学生時代の、寂しく生きる僕の姿であった。

今、あの灯りの中に入っていけば、きっと楽しいのだと思う。知らない人と混ざって、ひょっとすると同級生とも久々に会ったりなんかして、良い思い出となるのだろう。ただ、それは今の僕、変わってしまった僕の思い出だ。

僕は自分を変えたことを後悔しているのだろうか。そうでは無いと思うが、今あの盆踊りの思い出を塗り替えることは、どうにも耐えられないことのように感じられた。あの場所は、昔の僕のものだ。

今の僕は、このまま先に進もう。

坂を上り切ると、今度は長い下り坂になる。上り坂の周りとは打って変わり、鉄道駅の近いこの区域は、ここ数年で新興住宅地として大きくその姿を変えていた。綺麗に舗装された道をロードバイクは下り続ける。東南東に光る満月は、高度が下がると共に山の奥へと隠れていった。

先程通り過ぎた砂利道の先、盆踊りの行われている寺の駐車場は、以前は何も無い空き地だった。かつてそこで、煌々と照る提灯の光や踊る人々を目にし、笑い声や楽しげな音楽を耳にした一人の子供が、どのような表情を浮かべていたのか、それを憶えている人間は、しかし誰も居ないのである。

コメント

  1. nininga より:

    ロードバイクのことを今まで自動二輪の一種だと思っていた人がいる