ブージャム

目の前のベンチには一人の女性が座っている。イギリスのストーンヘンジを模したモニュメントが中心にある広い公園で、普段は子供が大勢遊んでいるのだが、今日は天気も不安定であたりに人気はなかった。少し前まで、この女性のボーイフレンドらしき人物がベンチに一緒に座っていたが、今はここにはいない。

私は今、さっき目撃した驚くべき現象をこの女性に伝えたいと思っている。といっても私はもうかなりの回数それを見てきたのだが、何度見てもそれは視界に入った途端に命の危険や、理解しがたいことに対する恐怖を感じさせるものだった。すぐに逃げ出したいという焦燥感に駆られたとしても、その現象に遭遇した時は逃げ出さず、そこに近づいて耳を澄まさなければならない。

昨日の雨でぬかるんでいる地面の部分を避けながら、彼女に近づいてこう言った。

「こんにちは。驚かせてしまってすみません。怪しいものではないのです。どうか話を聞いてもらえませんか。」

彼女は警戒しているようだった。ボーイフレンドがなかなか戻ってこなくて不安に思っているところへ、いきなり知らない人間に話しかけられたのだから当然ではある。もともと私は他人とコミュニケーションを取ることが苦手なので、彼女の警戒心に怯み挫けそうになったが、勇気を出して言った。

「あなたは私の話を馬鹿馬鹿しい戯言、あるいは狂人の妄想として聞き流そうとするかもしれませんが、私はあなたにそれを話す義務があるし、あなたはそれを聞く義務があるのです。先ほどあなたと一緒にいた男性、彼はあなたのボーイフレンドでしょう?そう、彼に関するお話です。」

ベンチから立ち上がり、歩き去ろうとしていた彼女は、私の最後の一言で振り向いた。顔の横に持っていきかけていたスマートフォンを下ろして、私に向き合った。

「私たちを見ていたんですか?あなたが彼に何かしたの?どうして彼は戻ってこないんですか?」

「順番にお答えしましょう。一つ目の質問の答えはイエスです。私はあなたたちを見ていました。なぜならばこの公園は私の散歩コースにあって、この公園で一休みするのが私の習慣であり、ここで遊んでいる子供たちを見てくつろぐのが私の日課だからです。今日は子供たちはいないようですが、日課を変えることはしません。したがって必然的にあなたたちを観察することになります。二つ目の質問の答えはもちろんノーです。私が彼に何かしたわけではありません。傍観していたという意味では間接的にそうかもしれませんが、しかし状況は私が介入できるようなものではなく、また未然に防ぐことができるような性質のものでもありませんでした。三つ目の質問の答えは少し長いお話になるので、ベンチに座っていただけませんか。」

「ここで聞いてもいいですよね?ベンチに座って聞かなければいけませんか?」

彼女はいつでも通報できるように握りしめたスマートフォンを、それとなく強調するような仕草をした。

そんなに私は怪しい風体をしているだろうか?いや、口調が原因で私を怪しいと思っているのかもしれない。こうして知らない人に話しかけるのは私の性質上苦手で、しかも話の内容が内容だけに、緊張して早口で喋ってしまった。安心させるために論理的に話そうとしたのもあだになり、冗長な表現によってかえって言い訳じみた印象を与えたのではないだろうか。

私はストーンヘンジの外周から5メートルほど北に位置する時計台をちらりと見た。私は時間が分かるものを持ち歩かない。雲が太陽にかかり、にわかに暗くなる。暗くなったせいで時計の文字盤がよく見えなかった。

「いえ、すみませんでした。そこで結構ですから、どうぞ話を聞いてください。」

「三つ目の質問の答えは?」

私の言葉を聞き終わるより早く彼女は言った。そうとう不安らしい。この調子だと、私の話を聞いた後、彼女は怒り出すに違いない。

「彼が戻ってこないのは、ブージャムに食べられてしまったからなのです。」

「は?ブージャム?食べられた?」

「そうです。ブージャムに食べられたのです。おそらくブージャムについては何もご存じないでしょうから、初めから説明します。」

「知ってますよ。ルイス・キャロルの詩に出てくる怪物でしょう。スナークの一種でしたっけ。架空の生き物に食べられただなんて冗談はやめてください。」

いまや彼女は敵意さえ私に向けているようだ。敵意を向けるべきなのは私ではなくブージャムの方なのに。彼女の誤解を解くべく、私は笑顔を浮かべジェスチャーを交えて話し始めた。

「よくご存じですね。そう、確かにブージャムはルイス・キャロルの『スナーク狩り』に登場する架空の生物です。しかし私が言ったブージャムは『スナーク狩り』に由来する現実の生物の名称です。私はその生物の名前を知らないので、仮にそう名付けているのです。」

彼女は私に対する不信感をさらに募らせているようだ。ジェスチャーはまずかったか。顔をしかめ露骨に嫌悪感を示す彼女に、私はなおも続けた。

「私はこの町で育ち、この広い公園でよく遊びました。小さいころから、この公園で不可解なことが起こるのを、というより不可解な生物をよく目にしたのです。」

私は、あの生物を初めて見たときの恐怖を思い出していた。忘れようのないあの気味の悪い見た目、そしてなによりあの大きさが私を恐れさせた。移動する音はぶつぶつ呟いているようにも聞こえ、後ろ姿は姿勢の悪い禿頭の酔っぱらいにも見える。

「どこを調べても分からなかったので、その気味の悪い生物を私はスナークと名付けました。『スナーク狩り』の不可解さとその生物の不気味さがよくマッチしていたためです。」

彼女はスマートフォンを操作していた。私の話を聞く気がないのだろうか、と憮然としていると、彼女は言った。

「写真を撮らせてくれます?」

「なぜです?」

「警察に連絡するときに必要になるかもしれないから。」

「お断りします。警察への出頭が必要ならば自分で出向きます。それより私の話を聞いていただけますか。」

彼女は私のことを変質者、良くて害のない狂人と思っているらしい。まあ、こういう反応が返ってくることは分かっていた。今回こそうまく説明できると思ったのだが。

「あなたが私の話を信じられないのは分かりますが、あれを目撃し真相を唯一知る私としては、これをあなたに話さないわけにはいかないのです。」

彼女はなおもスマートフォンを操作し続け、器用にもぬかるみを避けながら1,2歩あとずさり、面倒そうにこう言った。

「もっと手短に話してくれます?あなたの妄想に付き合っている時間はないんです。彼がどこへ行ったか聞いても無駄でしょうから、こう訊きますが、彼はどこでブージャムに食べられたんですか?」

「ストーンヘンジの向かいのあの御手洗いの中です。私は子供がブージャムに食べられないようここへ毎日……ちょっと待ってください。話は最後まで聞いてください。危険なんですよ。通常ブージャムは人間を食べた後スナークになり人間を襲わなくなりますが、彼を食べたブージャムは『まだ』と言っていました。そういうブージャムは危険なんです。まだ人間を欲している可能性がありますから。」

「はいはい分かりました。近づかないでください。警察を呼びますよ。」

彼女はスマートフォンを脅すように掲げて言った。彼女が後ずさり日が少し落ちたことで、彼女の影がストーンヘンジ外縁の北西の石にかかっている。

「妄想じゃありません。私は何度もブージャムが人間を食べるのを目撃しているんです。危険だからあなたに忠告しているんです。ストーンヘンジに近づかないでください。早く離れて。ほらもうそこに…」

私が言い終わる前にブージャムは彼女の後ろに迫っていた。いや、スナークと言うべきか。私の懸念とは裏腹に、その怪物は彼女を捕食しなかった。そして、やはり彼女はその怪物のことをボーイフレンドだと思い込んでいた。そのスナークは捕食したボーイフレンドの顔をしていたのだ。

「…」

「雨降りそうだし早く帰ろう。」

私を睨みながら、彼女はスナークにそう言った。

ブージャムの頭部は目や口のくぼみだけのあるノッペラボウであり、人間を食べるときにのみ顔の中心を収縮させて大きな穴を作り、背後からそっと近づいて人間を音もなくその穴に吸い込む。その直後、ブージャムは顔を元に戻すが、徐々に食べられた人間の顔がそこに浮かび上がってくるのだ。彼女がそのスナークをボーイフレンドと勘違いするのも無理はない。だが、私には分かるのだ。それがスナークであることが!

彼女はスナークとともに歩き去った。私はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。追いかけてさらなる忠告をするか、諦めて無力感に苛まれながら家路につくか逡巡しているまさにその最中に、日が陰り雨が降り出したまさにその最中に、彼女は突然静かに消えうせた。

そう、そのスナークはブージャムだった。

         

読んでくれてありがとう.この小説の舞台はかつて僕が旧融合不定期に投稿した『ブラボー』の最後の場面の広場です. 主人公の気持ち悪さがこの小説のかなめ. 例によって,僕が実際に見た夢に着想を得て書きました.人を食べる生物が登場するのは同じですが,元々の夢は小説とは違って食人生物はペットでした.そこから飼っているのか飼われているのかという話に発展させようとしたのですが,うちで飼っている猫について妹とそういう会話をしたことを思い出したのでやめました.夢ではブージャムはもっと見るも悍ましい外見ですが,うちの猫は非常に可愛いので,関連付けるようなことはしたくなかったのです.ちなみにジャバウォックやバンダースナッチはスナークの固有名詞として出てくる予定でした.

僕は小説が書けません.最初に書こうと頭でイメージしているものが,書いているうちにどうしたことかどんどん方向が逸れていってしまう.セリフはぎこちないし,情景描写はできないし,ストーリーもおよそ筋と言うものがなく行き当たりばったりになってしまうことが多いのです.それでも,見た夢を小説にすれば何とか形にならないこともない.僕のメモ帳に書かれている,小説にできそうな夢は以下の4つでした.

  • 内に広がり続ける虚無(穴)を抱える王国の城 (モデル:ユダヤ、ソロモン王)
  • 思索によってしか他者を見つけられない哲学者(モデル:ウィトゲンシュタイン)
  • 気持ち悪い食人生物のペット 相貌を持つ 飼われているのはどちらか
  • あまりにも速い話 空を飛ぶ車 速度に命を懸けた男の話

このうち3つ目がこの小説になりました.たいして面白くないって?そうですね,本当に面白い夢は起きたとたんに忘れてしまうものですから.さてどうでしょう,だれか残りの3つを小説にしてくれませんか?人に小説を書く労力を押し付けるなんて厚かましい話ですし特に期待はしていませんが,筒井康隆の『天狗の落し文』みたいな感じでアイデアだけここに投げておきます.このアイデアたちを面白くするのはあなたです!

それはさておき,小説とは何なのでしょう?この小説を書いているとき,僕は小説という文学の一形態のもつあまりの自由さに,小説が一体何なのか分からなくなりました.僕がストーリーのある文章を書くとき,初めに全体の構造と大まかなあらすじ,一部の印象付けのためのセリフを用意しますが,書いているうちに必ず体裁が保てなくなって想定していたものと別物になってしまいます.たった3000字あまりのこんな短いものでさえ!頭の中にある映像をそのまま絵にすることはできないように(できる人はできるのでしょうが),頭の中の世界を文章に落とし込むことは到底不可能です.それは私の感覚では何というか,かなりねじ曲がった行為なのです.小説では何でも書けます.どんな方向にねじ曲がってもそれは小説だと言い張ることができます.だから僕も,この文章を小説だと主張できるのですが,実際にできあがったものは偶然の産物以外の何物でもありません.着想からして夢から拝借したものですし.あえて言うならこの小説はダダイズム的な何かなのかもしれませんね.

僕は小説が書けないので,かつてタクシャカと約束した『入れ子』の小説は誰かに託したい,いやリレー形式にしてそういう企画にするのも悪くないかもなと思っています.そう,それはまさに連歌のような.連歌的ジレンマ再び.

コメント

  1. nininga より:

    僕は長い話が読めないので
    これくらいの方が助かります(もっと短くてもいい)