オイラー | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc Chaos is not kaos. Wed, 12 Dec 2018 14:44:42 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.1.1 https://anqou.net/poc/wp-content/uploads/2018/02/9dc10fe231765649c0d3216056190a75-100x100.png オイラー | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc 32 32 Give for Take https://anqou.net/poc/2018/12/12/give-for-take/ https://anqou.net/poc/2018/12/12/give-for-take/#comments Wed, 12 Dec 2018 14:44:42 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2384 Twitterはめんどい     作詞:オイラー

 

Twitterはめんどい

気に入らないものに直接攻撃をする者だけではない、不満や煽りの間接的な攻撃に自覚的でない者が無垢な顔をする(が、実際には彼ら彼女らも同じである)

Twitterはめんどい

主張をする場だろうと日常を垂れ流す場だろうと誰かが断罪する(が、実際には彼ら彼女らも同じである)

Twitterはめんどい

認めてもらうことは自然だと言いながら這い上がる者を批判する(が、実際には彼ら彼女らも同じである)

Twitterはめんどい

鏡に映った自分を見ない浅知恵が他人を「もっともらしく」批判する(が、実際には彼ら彼女らも同じである)

Twitterはめんどい

論じ得ぬことを論じているかのように振る舞う(が、実際には彼ら彼女らも同じである)

Twitterはめんどい

皆が自分を認めてもらいたい

その叶え方を知らない

どこまで適用してよいかも判断がつかない

そうして蒙昧なうち

嗚呼 今腹を空かせた2匹のロバが

腹を満たすほか方途がない

ロバは目の前の果実が欲しい

1匹は周りの動物たちを脚で蹴る 知らぬ顔して後脚で蹴る 周りの音は聞こえぬ 自らの姿も知覚できぬ

もう1匹は蹴らぬ 蹴らずして自らの脚で大地を駆ける 雑音は言葉に変わり毛は退き知が宿る

ロバは果実を手に入れたのではない 果実を与えたのだ

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病理的相対主義への警句的詩 https://anqou.net/poc/2018/12/10/post-2341/ https://anqou.net/poc/2018/12/10/post-2341/#comments Mon, 10 Dec 2018 00:31:51 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2341 障害ってなんだ

能力ってなんだ

何ができて何ができない

すべてを等価な特性に還元することを叫ぶ人よ

傍ら特別でありたい人よ

その答えはどこにある

権威の診断か?社会的認知か?

求めるものはどこにある

 

皆ワタシはワタシ、アナタはアナタと願っている

傍らワタシはアナタガタとは違うという

病も文化もすべてが普遍主義としての多様性の中に葬られ

その先に何がある

認めるとはどういうことか

エゴの映った虚像の言葉でない

やさしさの中のワタシだけが知っている

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TwitterはCommunicationか https://anqou.net/poc/2018/05/29/post-1593/ https://anqou.net/poc/2018/05/29/post-1593/#comments Tue, 29 May 2018 10:43:00 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1593 Ⅰ はじめに

 こんにちは、オイラーです。3回目の投稿にして初めて本人の登場する文章ですね。今回は小説でも普段のよくわからない(笑)ツイートでもなく、僕が思っていることをみなさんにも伝えたいと思い、できるだけわかりやすく書くつもりでいます。ただし、最低限の体裁は整えたいと思います。

   本記事はまず初めにⅡで、本記事を執筆するきっかけや込めた思いについて軽く触れ、次にⅢで、本題となった問いに対し、個人的なアカウント運営の観点ではノーの回答を提示します。つまり、Twitterはコミュニケーションとは異なると解釈し、Twitterとコミュニケーションの特記すべき相違を示します。次いでⅣでは、Ⅲでの議論を踏まえて僕のオイラー(@sh2017_5)のアカウントについて興味のある方へ、ツイートを見るにあたって、厚かましくも少し聞いてほしいことを説明します。最後にⅤで軽くまとめをしたのち、みなさんへの挨拶を添えて締めくくろうと思います。

Ⅱ 本記事執筆の契機と注意

 さて、今回の記事の焦点となったのは「Twitterはコミュニケーションか」です。もちろんこれは規範ではなく記述の話です。Prescriptiveではなくdescriptiveな話です。少なくとも僕にとってどうかということを、僕のフォロワーかつツイートを見てくださっている方には知っておいて欲しいと思ったのです。過去にエンカした人から「Twitterのイメージと違う」という声が多かったことや、「オイラーはいつも真面目なツイートや考えたツイートが多い」という趣旨のことを言われたこと、兄か弟か一人っ子かのイメージを問うアンケートで「一人っ子っぽい」がかなりの差をつけて最多数を獲得したこと、オイラーのアカウントでのツイートを好きでない、あるいは不快と感じる人が顕在的にも潜在的にもいるであろうことや個人的推察など、いくつか背景はありますが、この記事を書く直接の端緒となったのは、ある人物との会話でした。仮にその人物をAさんとしましょう。Aさんは長い間僕とFFでしたが、僕のツイートを見ていてあまり好きではないタイプの人間だと思っていたようです。いわゆる、自分の話ばかりで相手の話を聞かない、まず否定から入る、変なこだわりが強く、どうしても自己主張を通したい、というようなタイプでしょう。確かに、ツイートだけを見てそう判断する人もいるのではないかと思い当たりました。しかし、それはあくまでTwitterのツイートに過ぎません。実際、僕をリアルでちゃんと知ってくれている人や、会って印象変わった人などは理解してもらえると思います(だからといって、昔そういう自己主張の傾向が強い人間であった僕が、今も完全にコミュニケーションがしっかりしている人間だとは自信をもって思えませんが)。Aさんも会って話すようになってからは、仲良くなれないと思っていた印象がいい方向に変わったと言います。要するに、僕がそういうTwitterの使い方をしているというだけで、僕とは別の使い方をしている人に、自分の使い方に照らしてこういう人間だと判断してほしくはないのです。「イメージを固定化しないことは大事だよね」とか、「自分の理解に当てはめないように」とかいったツイートは過去に何度かしましたが、つまりどういうことなんだということを、次の章でお話しします。

Ⅲ ツイートと会話の使い分け

 では、使い方の違いとは何でしょうか。ここでは簡略化のため、2つの大きな違いにのみ着目したいと思います。1つ目は、Twitterにおけるツイート、リプライなどすべてをリアルの人間関係と同様に、相手を想定して行うスタンス(以下、双方向的スタンスと呼ぶ)です。おそらく多くの人はこちらに属すると思います。対してもう1つは、Twitterにおけるツイートで自分の考えなどを中心に、他の人間を想定せずに自由にツイートするスタンス(以下、一方向的スタンスと呼ぶ)です。僕はこちらの向きが強いですね。この2つのスタンスの違いにより、認識の差が生まれるのだと思います。具体例を考えてみましょう。以下は完全にフィクションで、あくまで説明のための一例ということを念頭においてください。

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想定TL

a「知り合い同士でヤるやつの気が知れんわw」

b「不穏になるしオフパコとかする人は関係ないところでやって欲しい…」

c「するのはいいけどわざわざ報告すんなよな、アホかよ」

d「実際会ってヤるとか理解できんしキモい」

解答ⅰ「まあ周りの人間関係とかに迷惑かけたりする場合もあるしね…」

解答ⅱ「別にお互い良ければいいと思うけどなあ。そういうのって当事者同士の問題なんだし、そこに第三者が文句言うのは筋違いでしょ。合意がないとかは論外だけど、自分の受け入れられないことにもっともらしいこと反論するのって価値観の押し付けだと思うけどな」

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ここでは、解答ⅰが双方向的スタンス、解答ⅱが一方向的スタンスに当たります。双方向的スタンスでは、流れや相手を考えてツイートしているのに対し、一方向的スタンスでは、完全ではないものの自分の意見をはっきりと述べていることがわかります。結論を言えば、僕にとって、Twitterは一方向的スタンス、リアルは双方向的スタンスなのです。しかしこれには様々な条件が付くことになります。①一方向的なのはTwitterにおけるツイートのみで、リプライなど直接のやりとりは含まないこと、②一方向的/双方向的というのは割合や傾向であって、完全に分けられるものではないということ、③時と場合によるということ、などがあります。ツイートでは比較的言いたいことを自由に言いますね。しかし相手と対話するときは、相手がいるのですからそうはいきません。思っていることと言うことの間、ホンネとタテマエの間、そこにこの問題の鍵があると思います。ツイートは完全ではないが制限なく出すところ、会話は制限があり、出す出さないを決めるところという認識が、一方向的スタンスを作るのでしょうね。

Ⅳ お願い

 ここまで、Twitterにおけるツイートとリアルでの会話との認識の違いを示しました。僕はツイートにそういう役割を与えているといってもいいかもしれません。もちろん、会話で自分の意見を言うことも必要ならしますし、ツイートでも、誹謗中傷など本当になんでも言うわけにはいきません。こういう、「自分とは違う」が世の中にはたくさんあることを言葉の上では理解していても、実際にパターン化したり、偏見を持ったり、拒絶したりすることは自分が思っているより多いです。ですからみなさんも、僕だけでなく他の人と接するときも、他人のイメージやコミュニケーションについてその都度考慮してみてはと思ったわけです。僕はTwitterにおけるツイートは一方向的発信と認識してますし、Twitterの創設者もそんなようなことを言っていたと思います。注意して欲しいのは、そんなのみんな一方向的でしょ、という安直な捉え方では伝わらないということです。双方向的な人は、フォロワーという相手が自分の意識の中にある限り、必ずどこかで双方向的です。文字を打ってツイートするという形式だけを見て一方向的というのはナンセンスです。そのうえで、一方向的な傾向の強い人を絶対化してリアルの人間の会話と同一視しないで欲しい、ということです。僕は人との会話は、当たり前ですが発信と受信の双方向で行い、Twitterのツイートでは一方向的発信をするツールとして使用しています。ただそれだけのことなのです。

Ⅴ おわりに

 Co(共に、相互に)はTwitterに当てはまるか、ということでした。僕はそういう風に考えていません。それが平生の一部のツイートや、基本的に自発フォローせずフォローされたらフォロバするという姿勢にも表れているのかなあと思います。そういう意味ではこの記事もまた、一方向的なのかもしれませんね。しかし僕は、あくまでも相手と向き合うのがコミュニケーションと思っていますし、それが好きでもあります。大事なのは専らリアルでのコミュニケーションの仕方なのですが、それについてはまた何かしらの形で意見したいと思っています。最後まで読んでくださってありがとうございました。オイラーってどんな人なんだろう、あるいはこんな人かなと興味を持ってくれる人たちのおかげで楽しくTwitterさせてもらっています。また、記事作成のきっかけを与えてくれたAさんにも感謝です。そんなこんなで仲良くしてくれる人たち、引き続きオイラーをよろしくお願いします。また、良ければ第1稿「システマチック・ラブ・メソドロジー」、第2稿「ライアーゲーム」もご覧ください。それでは。

]]> https://anqou.net/poc/2018/05/29/post-1593/feed/ 1 ライアーゲーム https://anqou.net/poc/2018/04/26/post-1549/ https://anqou.net/poc/2018/04/26/post-1549/#comments Thu, 26 Apr 2018 14:36:32 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1549 そのとき僕は愕然とした。僕は彼女が、あるいは別の彼女が、僕を複数のうちの1人としていることに言い知れぬもどかしさを感じていた。だというのに、僕の中でもまた彼女はそういう対象であった。

嘘はそこに多少なりとも疑義が呈されれば嘘の色が見えてくる。それは何者も、光も通さぬ黒々としたインクが薄い紙の上に滴り落ちるのに似て、不可逆的なものだ。正しい嘘は、(少なくとも僕の中では、)相手にとって真実でなければならないという逆説に、僕は囚われていた。

この混乱をもって、僕は自らが論理という名の槍で堅牢に築き上げてきたバリケード-首尾一貫性に関するバリケード-が、実際には砂の上に建っているのではないかと思い始めた。

お互いに割り切っているはずということを理解はしていても、言葉と、それから仕草や態度なんかが邪魔をする。人間は、自分がone of themだと割り切った上で相手を信頼できるのだろうか?信頼して、夢中になって、後になって「そんなつもりはなかった」と言われたら、その寂しさに耐えられるだろうか?

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https://anqou.net/poc/2018/04/26/post-1549/feed/ 1
システマチック・ラブ・メソドロジー https://anqou.net/poc/2018/03/25/post-1303/ https://anqou.net/poc/2018/03/25/post-1303/#comments Sun, 25 Mar 2018 06:10:26 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1303 「あのね、アドバイスが欲しいんじゃないの」
「ちょっと…頼り甲斐がないかな」
「私あの人の前では泣けたの。だからユウト君よりあの人の方が、甘えられるのかなって」
「あはは…大学の授業にも出なくって、単位も落として、そんなんで大丈夫なの?」
「今日はしないって言ったらしない。なんでわかってくれないの」
「…あんた、思ったよりおもんないな。ちょっと優しすぎるんとちゃうか」
「なーんかね、最近おうちばっかじゃん?たまにはさ、遊び行こうよ。ほら、今度クリスマスだし」
「もういいから!今はそんな話聞きたくない!」

「もう、好きじゃなくなっちゃった。さよなら」

「どうしたの?ぼーっとして」
目の前の彼女を見る。少し緩めの真っ白なニットに、桜を思わせるようなパステルピンクのスカート、首元にはシルバーのネックレスが輝いていた。彼女の華奢な体躯が春らしい色味を纏って、ひょっとすると名前のせいもあるのかもしれない、来る暖かさに花が香り咲くようだった。
カフェには他の客もちらほらいた。各々の話の断続的な交響が僕の耳に喧騒となって届いた。会話が途切れた拍子に、図らずも今この状況に似通った過去に思いを馳せて、意識が遠のいてしまっていた。ふと壁にかかった時計に視線を向けると、ちょうど午後3時を過ぎた頃合いだった。

 

今日は葉那との3回目のデートということになっていた。祇園四条で待ち合わせて(といっても僕は30分前に待ち合わせ場所に着いていた)、彼女が来たら「ううん、今来たとこ」だ。それからランチに割と手頃なフレンチの肉料理を食べた。当然営業時間や日時、混み具合は調べてあった。他にも2つほど店の候補はあったが、「お肉が食べたい」(葉那, 2028/3/28 a.m.11:28)とのことでそこに来た。ドアを開けて店内に入ると店員がすぐに案内してくれた。次は「席そっちで良い?」「荷物こっちに置こうか?」だ。2人でメニューを見ながらあれこれ話すのは楽しい。優しくはっきりとした口調で丁寧にオーダーし、またとりとめのない会話をして料理を待った。料理を運んできた店員は大きな皿を一気にいくつも持つものだから仕出ししにくそうだった。大丈夫ですよ、と言って代わりに受け取った。ほんと、大丈夫だ、抜かりはない。そう言い聞かせ、もう一度彼女を見た。
「んーでも、このままでいいのかなあって思っちゃったりして。周りの子で私よりもっと将来に向けてがんばってる子とかいるし。みんなすごいなあ…」
「そんなことないよ。葉那だって英語の勉強コツコツやったり、インターンだってがんばってるし、いい経験だよ」
実際そんなのがいいと僕は思わなかった。けれどそれは僕が思わないというだけのことであって、彼女には彼女なりの努力の仕方と、それによって多少なりとも肯定できる自己があるのだ。であるならば僕はこう言おう。
「葉那は今のままでも十分がんばってると思うし、無理しすぎることないよ」
すると表情にわずかに安堵と喜びが見え、
「うん。ありがと。そっか…なんかそう言ってもらえるとまたがんばれそう。ほんと、ありがとね」
と続いた。当たりだ。
「でもさ、ユウトは勉強できるじゃん、すごいや」
「ありがと。でも僕だって言うほどじゃないよ。それに世の中勉強だけじゃない、って言ったらまあ陳腐に聞こえるかもしれないけど…勉強ができるっていうのは、少なくとも僕にとっては、価値のうちの1つでしかないんだ。最近は学歴重視の世界になってきたけれど、測り方は『勉強ができるかどうか』じゃなくて『何ができるか』だと思うんだ。僕は勉強ができるとしても、葉那みたいにダンスやお菓子作りだってできやしないよ。他の人にとって興味を持ったり、努力したりしていることが、僕にとってはたまたま勉強だったというだけのことだよ。世の中いろんな人がいて成り立ってるんだから」
「そうやって考えられるのもすごいなあ」
料理は美味しかったし残さず食べた。「いただきます」「ごちそうさでした」。
店を出てからは八坂神社にお参りをしにいった。縁結びだとか何とかで、恋みくじを一緒に引いた。もちろん僕はそんなものは当てにしていないが。
「えぇ~私小吉だった…。しかもここ見て、『良縁 未だ遠し』だって」
「いいんじゃない、気長に待てば。焦って掴もうとしても逃げられちゃったりするし。葉那はいい子だからいい友達ができるよ」
「ユウトっていつもポジティブだよね。すごいなあ」
「その方が色々と生きやすいと思うからね。すーぱーぽじてぃぶしんきんぐ」
「ふふっ。でも確かにちょっと楽かも」
もちろんこれだって大事な「項目」の1つだ。僕と彼女は神社をぐるっと1周回ってから街でウィンドウショッピングをした。ペースは合わせるし、途中、「大丈夫?歩き疲れてない?」と聞くし、危なかったら手で引き寄せた。そういう「求め」があるからだ。いよいよゲームじみてきたな、と思う人もいるかもしれない。でもそれでもいいのだ。僕はただ、欲しいものとそれに相当する努力を秤にかけているだけだ。
僕は以前、次のようなことを友人に話したことがある。「打算」とか「駆け引き」とか、はたまた「建前」とかいった言葉で表されるような事態は、ややもすれば意図的に人を悪い方向へと欺くことになるということで、無批判に非難する人々がいる。確かに、ある行為をするに際しても、行為者が相手の心理や状況を狡猾に利用しようという性悪的な意図からその行為に至った場合は、他の諸条件を考えに含めないならば、それ単体としては糾弾されるべきものもあるだろう。しかし無批判な非難をする人々は文字通り、あるいは定義的に、そういった思考過程は経ていないことがほとんどだ。彼らは単に全開なのが美徳だと信じて疑わないのである。考えてもみて欲しい。例えば君が友人と何を食べるかを決めるとき、友人は3人とも近くの洋食屋にいきたいという。そこで君は思うわけだ。いやいや、今日は断然和食の気分だ、洋食なら昨日も一昨日も食べたのだ、と。君は和を乱して(洋を乱して?)、3人の友人と颯爽と離別し、1人で和食を食べに行くだろうか。ほとんどの人の回答はノーだ。「あーいいじゃん洋食、行こうよ」とでも言うだろうか。今君は、本当は和食が食べたいのに、洋食屋にみんなと行きたいという嘘をついた。あれれ? そう、気遣いだって嘘でできてるんだ。でも決して悪いことじゃないだろう。
あるいは見返りを求めることを非難する人々もいる。なるほど確かに僕よりもはるかに成熟し達観した人間ならば、意識から無意識への移行を、すでにその理論と実践によって済ませているのかもしれない。だが現実にそんなふるまいを見せる人間は果たしてどれくらいいるだろうか。それに彼らだって最初からすべてを完璧にこなしたわけではあるまい。まずは意識して声を発していたはずだ。そうして贈与と贈与の繰り返しの中で、無意識に声を発するようになり、見返りを求めることもあっても良いのだと感じたはずだ。誤解を招かぬよう補足しておけば、僕は物事のすべてを見返りで考えてよいというのではない。世の中聖人ばかりではないのだから、うまくいかない部分は機械に頼ろうというのである。

神社を後にした僕らは、祇園の街並みを眺め、高台寺を拝観し、河原町通りを歩いてカフェで休憩することになり今に至る。僕は温かいストレートの紅茶を、彼女はカプチーノを、それぞれ注文した。注文の際の手順は先と同様である。
「どうしたの?ぼーっとして」
「うん?ああ、なんでもないよ、結構歩いたなあと思って」
それからは彼女の大学のサークルや勉強の話をうんうん聞いていた。相槌は単調にならず、褒めて、受け入れて、肯定した。時には知らないような話も、ショーのような価値観も提示した。僕が今まさに傾倒している文学の話だって、学問の話だって、置いてけぼりにせず話した。そのたびに彼女は世界中のどこか見知らぬ土地に心を送ったように、感心した素振りを見せた。1日中猛暑と闘っている地域の人々がアイルランドで空から舞い落ちる結晶を見たらきっとこんな顔をするだろう。
「そういえばさ、今日の服結構好みなんだよね」
「ほんと?この間買ったばかりなの」
「うん。とてもよく似合ってるし、髪型も変わって少し大人っぽく見える」
「そうなの、前髪少しだけ。よくわかったね」
「こうして対面してたら、気づかないわけにはいかないよ」
「ありがとう。ユウトってさりげなく嬉しいこと言ってくれるよね」
「そう?特に意識したことはないけど」
カフェを出て、彼女の行きたがっていた雑貨屋と本屋に行った。途中、僕がピアノの楽譜を片手に、幼い頃にピアノを習っておきたかったという話をすると、それでピアノも出来たら完璧だね、と今日一番の褒め言葉をいただいた。安牌だ。
夜はあらかじめ予約しておいた韓国料理系の雰囲気の良い店でディナーにした。店の料理や今日1日のこともあり、思ったよりも会話が弾んだ。楽しい空気のまま、僕は彼女をお気に入りのバーに連れて行った。彼女曰く、こういうところに来るのは初めてだそうだ。僕はお酒の知識なんて完璧でないけれど、それがむしろいいのだ。知ってることよりも知ってることを上手く使うことに価値があるのだ。お酒に酔って、場に酔って。帰り際には「気をつけて」。帰った後には「ありがとね」。

思えば今日も僕にとっては1つの舞台だった。舞台の上では演じることが求められるし、僕もそれで観客が喜び、また観にきたいと思ってくれるならそれをするまでだ。あるいは数学や英語の勉強かもしれない。まず問題を解く。初めて解く場合は完璧にできることはほとんどない。次に何ができて、何ができていないのかという至極当たり前のことを確認する。そしてできていないことをできるようにするにはどうしたらよいかを考える。公式や単語・文法の知識が足りていないなら覚えるし、解答を作る能力が不足しているなら何度だって練習しよう。それからは訓練だ。わかっていることを実際にできることに変えていくための訓練だ。するとそのうちできるようになっていく。問題は、自分がそれをできるようになりたいという気持ちと、そのために必要な負担や労力といったものと、どちらが優位に来るかということに尽きる。それでも欲しいなら努力しよう。そうまでして欲しくないなら頑張る必要なんてない。そんなふうに学んできたから、過去に思いを馳せてしまったし、脳裏に浮かぶ失敗も糧にしていくくらいじゃないと生きていけない。もしも僕がフィッツジェラルドならこんな書き出しで小説を書いたかもしれない。

彼女の心を動かせるなら、「向上心があって努力できて」、「尊敬する部分があって」、「話を聞いてくれて」、「肯定してくれて」、「えらい、がんばってるって褒めてくれて」、「ちょっとした変化に気づいてくれて」、「甘えられて、頼り甲斐がある」、そんな人になればいい。
「愛情表現はしてくれて、でも特別扱いしてくれて」、「話していて楽しくて」、「悩みや相談にも乗ってくれて」、「寛容でちょっとしたわがままも聞いてくれて」、「気遣いができて」、「未知の世界を教えてくれもする」、「一緒にいてポジティブになれる」、そんな人になれるのなら、彼女のためになればいい。
「そういう人でないとだめ」と、彼女に叫ばせるまで。

不器用ながらも生きていこう。今日も頭に機械を乗せて。

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