小説 | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc Chaos is not kaos. Mon, 14 Jun 2021 16:14:33 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.1.1 https://anqou.net/poc/wp-content/uploads/2018/02/9dc10fe231765649c0d3216056190a75-100x100.png 小説 | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc 32 32 夢、六月初旬の https://anqou.net/poc/2021/06/15/post-3461/ https://anqou.net/poc/2021/06/15/post-3461/#respond Mon, 14 Jun 2021 16:14:30 +0000 https://anqou.net/poc/?p=3461  表題通り、十日ほど前に浅い眠りの中で見た夢の内容を、記憶を頼りに随所補完しながら書き起こしてみようと思う。早朝の短い二度寝で見た夢なので、寛大に表現してティザームービーくらいの尺と密度しかなく、当然導入もオチも無い。たまにオチを含んだ映画仕立て、小説仕立ての夢を見ることもあるが、大概は起きて思い返すだに支離滅裂な幕切れで、それに比べれば展開のない映像の断片の方がまだしも書き起こすに相応しいだろう。

 目が覚めても、彼女のことがしばらく僕の心に残留していた。それは、彼女の姿や声や匂いではない。彼女の存在そのものだ。だから、言葉にも信号にも還元することができない。したがって、急速に霧散し、消えていく。しかし、姿や声や匂いに印象を留めることの滑稽さに比べれば、それは素敵な消散だ。

森博嗣『スカイ・クロラ』

 実際、記憶からさっぱりとかき消えてくれるならばそれに越したことはない。不定形なエーテルになって何かに、たとえば新しい小説にでも活かされるのだとすればそれは僥倖だ。しかしこの夢の眺めは網膜にねばねばとこびり付いて離れないし、そう上等な代物にも思えない。なにせ登場するのは一人の女性ではなく、一匹の死んだイグアナだった。

 そのイグアナは、腹を見せた姿勢で数人の輪の中に横たわっている。ずんぐりとした体躯に長く鈍重な尾をぶら下げ、三角形に尖った顎はぐいと反らされていたので、目鼻がどうなっているのかまでは見て取れなかった。

 もっと近くで見ようと一歩踏み込んだ足首に、尾の先が当たった。弱々しい、じゃれつくような一撃で痛みも無かったが、それで危ないと思われたのか、隣に立つ帽子を被った男が身振りで私を下がらせようとした。

 これは生きているのか、と問うたかもしれない。そこは見るからに日本とは離れた異国の地だったので、恐らくは現地の言葉でそう言った。帽子の男は黙って首を横に振った。するとさっき振られた尾は、活け造りが反射で跳ねるのと似た現象だったのかもしれない。

 再びぴくりとも動かなくなった死体を覗き見る。ひっくり返った足裏までは見ていなかったが、爪は生えていただろうか。体長は、尾まで含めて目測一メートル半。顎の形といい体型といい、後から考えてみればイグアナというより中型のワニだ。しかし夢の中の自分というのは無根拠な確信に満ちていることが多く、その時も目の前の生物はイグアナだとしか思えなかった。

 帽子の男とは別の、しかし同じような砂色の服に身を包んだ男が、懐からナイフを取り出してきた。握ると柄がすっかり掌に包み込まれてしまうような短刀で、刃渡りも短いが、よく手入れされているように見える。その証拠を示すかのように、ナイフの男はイグアナの腹めがけて刃先を突き立て、素早く滑らせた。

 イグアナの黒い皮膚はいかにも分厚く硬そうで、表面は不規則な凹凸に覆われ、食べるにはまだ早いアボカドの表皮のような見た目だった。その皮膚が、ナイフの刃によって音もなくなめらかに両断されていく。人間でいうへその辺りから、真っ直ぐ上って喉元まで。内臓を掻き出すつもりかもしれないが、少なくともその時はまだ、外側の皮膚しか切れていなかった。

 着物を脱ぐようにして現れ出たイグアナの肉は、明るい緑色に黒い縞模様が走った奇妙な柄をしていた。表面はてらてらと濡れているが、血の一滴も噴き出してはこない。黒縞は体の正中線に沿って太く縦に伸びたのち、Y字に分かれて足の末端へと続いていた。そうした太い流れからも新たな縞が無数に枝分かれをして、あたかも原始的な血管系のようでもある。皮膚が青いアボカドなら、こちらは歪なスイカだ。もし強いて動物に喩えるならば、鮮やかすぎるウシガエルの体表……。

 そして、私の視野はふいにイグアナの胸元から逸らされた。声を掛けられたのだろう。帽子の男か、あるいはまた別の男なのか。首から上は覚えていないが、手元だけは嫌というほどはっきり覚えている。目玉だ。何かの、生っぽい眼球を二本の指でつまんでいる。何かと言われればそれはイグアナの眼球でしかあり得ない。元の体格にしてはあまりに小さなそれを、男はなぜかこちらに差し出してきていた。視神経は繋がっていないようで、理想的な球形をしている。黒目もまた豆粒のように小さい。

 男の空いた方の手が伸びてきて、あっという間に額を押さえられてしまった。男は無言のまま、片手の眼をさらにこちらへ近付けてくる。小さな潤んだ眼球が視界の右側を覆いつくすと共に、目頭が強く圧迫された。痛みは無い、夢だから。それでああ、イグアナの眼を無理に埋め込まれたのだなと思ったが、右の視界は潰れたまま戻ってこなかった。

 耳元でしきりに声がする。これは日本語で、「右眼に集中して、それから左上に集中」、そんなことを言われたような気がする。帽子の男の声かもしれない。

 言われた通り意識を順繰りに移していくと、確かに元右眼のあった左上の方、ややこしいがつまり鼻梁と右眉に接するぎりぎりの位置から、新しく小ぶりな視界が誕生していた。自由に視線を動かすこともできる。そんな乱暴な、第一こちらは元から盲目だったわけでもなし、とんだありがた迷惑だと目を回して、

 そこで目が覚める。時計は見ていないが、それは朝の十時頃だっただろう。すぐに三度目の眠りに就いたが、再び夢を見ることはなかった。

 

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硝子の島 https://anqou.net/poc/2021/05/07/post-3449/ https://anqou.net/poc/2021/05/07/post-3449/#respond Fri, 07 May 2021 14:24:53 +0000 https://anqou.net/poc/?p=3449

 もう家に帰りましょうよ、あなた。君がそう言った。上着がないと、ここは少し寒いわ。

 僕は辺りを見回して、隣に立つ君へ微笑んだつもりでいた。帰るったって、もう家の場所だって分かりゃしないだろう。あらそうね、と笑う君の桃色の声帯が、くつくつと上下に揺れる。もちろん、僕らにとってそれはひとくだりの冗談にすぎない。帰る必要だって、もうない。

 透ってしまったアスファルトの道路を、氷の川に喩える人がいた。流れる水も泳ぐ魚もないが、眼下数十メートルの際には微かに濃灰色の煙が揺れている。今もなお下がりゆく地殻の限界高度がそこだ。そこから上には何も見えない、こうして歩いていると、君と二人で空を飛んでいるようにも思える。

 また下を見ているのね。君の咎める声が耳朶を揺らすほど近くから聴こえて、僕は思わず背筋を伸ばした。一拍遅れて首から先が持ち上がる。

 見上げるのは痛いんだ。僕には眩しすぎる。舌が上手く回らないから、まともにそう言えた自信はない。眼前には地平の先まで続く透明で巨大な塊。世界が透り始めて以来、ビルや住宅のように大規模な人工造型は他の何よりも早くこうなった。

 ほぼ完全に透ってしまった屋根瓦や外壁は、さながら数十の面でカットされたダイヤモンドのように、あるいは削られてグラスに入った純氷のように、陽の光を透し、あるところでは跳ねかえらせ、曲げ、散らしてしまう。今やどこを見渡そうと、折り重なる極光から逃れる術はない。僕はこの数日ですっかり下を見る癖が付いてしまって、君はそれを度々注意する。そしてこう言うんだ。「ちゃんと顔を上げて。今なら天国がよく見えるわ」。

 その言葉も今度だけは聴こえてこないことに気付いて、僕は君の立つ方へ顔を向けた。緩やかに結合した頬の筋繊維と左の眼球が真っ先に動いて、君から一番遠い右耳はうっかり元の位置に取り残されてしまったようだったが、僕は気にしなかった。

 君の声帯が透り始めていた。花びらのような形の器官はいつしか鮮やかな肉の桃色からピンクパールの淡い色に変じ、とっくに透りきった喉の奥に滞留して動かない。君の見えない唇が、僕のすぐ傍まで近付いてきたのを吐息の熱で感じた。声がうまく出せないの。左の耳元で君が囁き、指先の髄を伸ばして、僕の声帯に触れる。綿に包んだような緩慢な痛みを感じて、僕は眉間に皺を寄せたことだろう。だが君の指はもっと痛んだはずだ。

 やっぱり。透りの進みはわたしの方が早いのね。あなたを一人にさせてしまうわ。ささやきは既にその声色までをも失ってしまっていたから、それが寂しげに聴こえたのは単なる僕の思い込みだ。

 わたしを見て。君が言ったからそうした。純白の光に晒された君のからだは、今や肌のほとんどが透り落ち、内側を覆う血管や脂肪、さらにその奥までもがはっきりと見て取れる。あらわになった胃袋が僕に見られて恥ずかしがるように小さく蠕動した。

 醜いでしょう。外側から一枚、一枚身ぐるみを剥がされて。最後には骨も残らないわ。あまりに小さな君の声は、ろれつが回らないせいだろうか、どこか楽しげに聞こえた。出会ったばかりの頃の君、何かあるたび弾むように笑ってみせた少女の声。

 下顎の関節が緩んだせいで僕は何も言えなくて、代わりに首をゆらゆらと揺すってみせた。醜くない、綺麗だと、本心からそう思った。氷山のように聳え立つ透明たちの中で一際映える動脈の緋色、脊椎の白、筋膜、烟るような毛細血管が何重にも層をなす彩色を見て、僕はかつて君と見たヴェネチアの硝子細工を思い出している。

 モナート島の硝子工たちは、一握りの珪砂と酸化物からこの世のあらゆるものを造る。花瓶やグラス、耳飾りや、壁に飾る大きな皿はもちろん、翼を広げた鳥、透き通る花弁のブーケ、鞍を背負った馬、柱時計、黄金色の尖塔を戴く壮大なムスク、粘菌の模型、荒ぶる海に浮かぶ帆船、モミの木のツリーに吊るした電飾、兎の親と子供、僕らの住む家、きらびやかなドレス、煙を吐く汽車と乗客たち、野原に生え揃う背の低い植物はみな朝露までもが硝子色に凍りついている。葡萄の房が実った蔓の形のペンダントは、旅の土産に二人で選んで買った。今も君の首元を飾ってくれていることだろう。

 あなた、と君の呼ぶ声が脳へ響く。頭蓋を砕いてやわらかなこの脳を満たす。僕はもうしばらくだけ目を開けておこうと思った。それは単なる直感でしかないのかもしれない。僕らはもう、すぐ傍に自分たちの終わりが控えていることを知っている。僕は片腕を回して君の背中を抱き寄せた。指先の管があちこち君のからだに絡みつく。二人分の肋骨が触れ合って音を立てた。深くゆっくりと息を吸い込む。肺と心臓はまだ動きを止めていない。

 君へ口吻けをしようとして、互いの口元がもう透りきっていることに僕は気付いた。次第に眼が霞む。全身が光に清められ、希釈されていくのを感じた。じきに眩い光が世界の何もかもを照らし尽くすだろう。夢を見ているようだった。眠りへ落ちていく赤子になったようでもあった。焦点の定まらない視界の中で君は、どちらのとも知れない胸元の血管を指の骨で切り解いている。

 火の粉の爆ぜるような音がしたように思う。降り注いだ温かな血が僕らの透明なからだへ、溶け込むように鮮やかな色を差していく。君は一雫の緋色をすくって自分の顔へ滑らせた。何もなかった場所に君の唇が浮かびあがって、次の瞬間には微笑んだ。君がまだ見えることが嬉しくて、僕も同じようにした。寒くなんかない。僕らに上着は必要ない。

 硝子の君に口吻けるその瞬間、腕から垂れた血が君の首元まで伝って、赤々と実る葡萄の房に変わっていった。

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https://anqou.net/poc/2021/05/07/post-3449/feed/ 0
壁に向かって喋ってろ(AA略) https://anqou.net/poc/2020/09/12/post-3319/ https://anqou.net/poc/2020/09/12/post-3319/#respond Fri, 11 Sep 2020 15:34:19 +0000 https://anqou.net/poc/?p=3319  最近は、なにかに赦しを請うかのように本を読んでいる。

 修行のように大量の本を濫読しているという意味ではない。8月初旬には専門に関してひとつの峠があったが、そこを越えて以降はむしろ以前よりも読むペースは落ちた。書くのも遅々として進まないので実際スランプなわけだが、これは8月初旬がどうこうではなく、あるいは夏が悪いのでもなく、ただこの4月から続く低空飛行の日々が、ゆっくりと私からなにかフロギストン様の物質を削ぎ落としていった結果だと思っている。まだ結果ではなく、過程であろうが。

 冒頭に記した赦し云々というのは、ただ私の読書に対する姿勢にある。たとえば古典的名作と呼ばれる小説を、たとえば今年刊行されたばかりの話題の新作を、私はどうも卑屈と呼んで差し支えないような心境でもって読破し、積ん読の棚から既読の棚へと運ぶ作業を繰り返している。今年に入って買ったばかりの書棚だ。そこに並んだ積ん読を一冊消化する度、借金の利息を返したような気分になる。なにかを読むにせよ書くにせよ、当然その基盤にはこれまでの積み重ねがある。私はその土台がひどく弱い。故にもっと本を読まなければ。義務感と焦燥が今の私の主な燃料だ。読んでいた小説の奥付に指が触れた時、わたしは少しだけ安心して、また一段と怠惰になる。平均睡眠時間は十時間を超えている気がする。もっと起きて、もっと読まなければいけないのに。

 しかし。「読んでいない」という罪を埋めるための読書になんの楽しさがあろうか。読書は実利ではない、といった論は最近でもそこここで目にする。本は楽しんで読みなさいと。きっとそれは正しい。小説を読むことでなにかを汲み取ろうとしている私は、ただ事を急いているだけだ。あるいはそもそも向いていないのかもしれない。自分に鞭打たなければ本の一冊も読めないなんて。

 小説を読むのが楽しくないわけではない。小説を読むのはとても楽しい。これだけはまだ信じていたいことの一つだ。小説を書きたいという欲望のために、本の表層を啜って感動する自分を演じているだけ、そんな可能性を払拭できないことが憎い。自分の無知から逃げようとして本を読んでいるのか。自分の無知を自覚した気になるために、こんな文章を書き散らして、あまつさえ公開しようとしているのか。お願いだから美しい小説に鳥肌を立てることくらい赦してくれないか。

 面白い作品に出逢ったと感じた時、私は自室で興奮に身悶えする。素っ頓狂な叫び声を上げることで、自分はまだこんなに小説を味わえるんですとなにかに赦しを請うている。「畜生」と呻き声を上げる。あるいは、「殺してくれ」。こんな面白い小説を今まで読んでこなかった俺を殺してくれ。こんな面白い小説を書けない俺を殺してくれ。赤子のように無知であるがために、なにかを知る度安っぽい雷に打たれる俺を殺せ。

 そうして赦しを請う無様な自分を赦さずにいることで、今日も私は内心のバランスを保っている。なにに赦しを請うのかといえば、自分自身を除いて他にはいないのだ。私は私を絶対に赦さない。何遍でも復唱したい、これを座右の銘と呼ぶのだろうか。

 半年ほど前からは、ベランダに安物のキャンプチェアとローテーブルを置きっぱなしにして、時々外で本を読んだり原稿を書いたりしている。ひっきりなしに虫に刺されるのと、椅子が日焼けしてガサガサになっていること以外は快適な作業場兼休憩所だ。今も私はそこに座っている。自分の部屋のにおいには、もうほとほと飽きてしまった。今夜は月こそ見えないものの、雲が天の川のように天頂を走っていて悪くない眺めだ。

 という締めの言葉を少し前から用意していたのだが、改めて見上げてみると空は既にその全面が雲に覆われていたので、ここに再度正直な報告を記しておく。空には今、僅かに火星の光だけが見えている。

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余罪 https://anqou.net/poc/2020/06/10/post-3283/ https://anqou.net/poc/2020/06/10/post-3283/#respond Wed, 10 Jun 2020 00:36:33 +0000 https://anqou.net/poc/?p=3283 気がつくと,僕の目の前には広大な草原が広がっていた.

「ああ!やった,成功だ!きみ,見たまえよ,この景色を!豊潤たる大地を!はははは,やった.大成功だ!」

隣で男がおおはしゃぎしている.私はこの男について何も知らないし,そもそも自分が何処にいるのかすらわかっていない.
「どうしたんだ君.もっと喜びたまえよ」
話しかけられても,いま,この状況を把握するのに精一杯で何も答えられない.
自我が混在して,境界がゆらぎを増していく.大切な何かが欠落しているというよりも,はじめからそこに何もなかったかのように.
「ふふん…….そうか.きみはおそらく記憶をなくしているようだ」
記憶,と言われてはっとする.もしかしたら,ぼくは記憶をなくしているのかもしれない.
「まあ,決して珍しいことではない.超光速の空間では我々の直感に反するような出来事が起こるものだ.いいかい,僕達は脱走したんだ.あの護送宇宙船から」
脱走,という不穏なことばが突き刺さる.
「監視員の目を盗んで,非常用の脱出ポットで抜け出してきたんだ.いいかい,この脱走が成功した理由は三つある.一つは人員の少なさだ.ただでさえ金のかかる宇宙船なのに,囚人のためにそこまでのリソースは割けない.そこに我々の付け入る隙があったというものだ.二つ目には非常用ポッドというその性質に大きく依存する.宇宙空間のような不確定要素の多い場所において,唯一の生命線とも言えるポッドは誰でも簡単に使えるような仕組みになっている.なんの許可もなくともね.そして第三に……」
そういって男は顔をぐっとこちらに寄せ,にたりと顔を歪める.
「……私が,スペースシップのギークであるということだ」
男は得意げにそう言い切った.こちらはまだ何も喋っていないのにべらべらと解説し,相当に興奮しているようだ.
「……すると,僕達はもともと罪人だったということか」
「そんなことは些細な事柄に過ぎない.見給えこの光景を!適した気温に肥沃な大地,草木が生い茂るまるで理想の星じゃないか.私の生まれた星よりもポテンシャルがある.いいかい,私と君はこの星の生態系のトップに立っている,アダムとイブだ.私も君も男というのが少し残念だが……うむ,宇宙船から女の一人でも引っ張ってこればよかったかな」
振り返るとそこには,たしかに非常用ポッドらしきオブジェクトが草原の上に構えていた.

「今日からここで一緒に暮らすのだ.仲良くしよう」
そう言うと彼は非常用ポッドを開けた.中は大人二人が横になれる程度の広さがある.壁には顆粒性の栄養剤とライター,ナイフなどの最低限のサバイバルキットに,外部との連絡用であろう通信機器が備わっていた.
「まずは生態系を知らないといけない.私はその当りを探索してくるが,君もついてくるか」
ここでぼうっと待っていても仕様がないので,男についていくことにする.装備を整えるとまるでトレジャー・ハンターのようであった.
「この機械は非常用ポッドの場所を示す.つまり,我々はもといた場所に確実に戻れるということだ.どうだい,あの無限にも思える草原がどこまで続いているか,確かめたくないか」


僕達は太陽のほうに向かって歩き始めた.草はそこまで高さのあるものではないから特に苦もなく進むことができたのだが,どこまで歩いても,何時間歩いても,ずっと同じ景色のままであった.男がしきりに草と土を念入りに調べても,それらが虫に食われていたり,何らかの動物の足跡を見つけることはできなかった.はじめは意気揚々と歩いていた男も,次第にテンションが下がっていき,ついに何言も発しなくなった.

僕達は無限とも思えるような草むらを歩き続け,太陽は沈み,辺りは暗闇に包まれた.
「うん,野生動物の気配はないし,ここで野宿したって襲われる心配はないだろう」
男はケロリとそう言うと,草むらにごろりと寝転がんだ.
私ももう歩き続けてへとへとで,立っているのすら辛い.男だってその実,相当無理しているに違いない.



僕は覚えていなくとも知っている.この世界がどうしようもなく空虚で,ただ漠然とした情報のみを持つ存在であるということに.これは罪であり,罰であることに.ただ認識という知体そのものによって支配されていることに.
僕は覚えていなくとも知っている.分かっているんだ.


「……君は,この世界のこと,どう思う?」
僕は男に聞いてみた.
「……うーむ,わからない.わからないけど,素敵な世界だと思う」
それ以上何も聞くまい.僕も草むらに寝転がった.寝転がると,空には二つの月が淡い光を放ちながら浮かんでいた.

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https://anqou.net/poc/2020/06/10/post-3283/feed/ 0
テーマ「タクシー」 冒頭部 https://anqou.net/poc/2020/03/29/post-3231/ https://anqou.net/poc/2020/03/29/post-3231/#respond Sun, 29 Mar 2020 14:34:46 +0000 https://anqou.net/poc/?p=3231  先日、サークルの方で「タクシー」をお題に短篇小説を書きました。十数ページほどの短い小説ですが、その全文をここへ載せるのは読みやすさの面等から躊躇われましたので、冒頭部の一節のみを掲載させていただくこととします(坩堝掲載に際し一部推敲)。

————————————

 ターミナルを出た人影が、早足でこちらへ近付いてくる。私は窮屈な運転席に身を収めたまま、ミラー越しに様子を窺っていた。

 背の低い、旅支度の女性。同伴者はおらず一人――ここではあまり見ないタイプの客だった。ファーの付いたねずみ色の防寒着に全身を包んで、両手には古びた重そうな革鞄を提げている。外で荷物を受け取ろうか迷ったが、こちらへ歩いてきているだけでまだ乗客とは限らない。バックミラーの中で揺れる鞄を、ただ見つめて待った。

 後部扉の傍まで来て革鞄は動きを止めた。結露が流れて縞模様を作る窓の、ぼやけた視界の中心に彼女の顔が映る。私が操作盤へ手を伸ばし、自動扉が音を立てて開放されると、客よりも先に外気が乗り込んできて私の首筋を冷やした。

「どうも――区役所までお願いします」

「はい、区役所。裏の駐車場で降りていただく形となりますが」

「大丈夫です」

 女性客の声は寒さに震え、そして若かった。ニット帽を脱ぎ、巻きつけたマフラーの下から長い髪を出したのを見て初めて、私は彼女が二十歳にも満たない少女であるのだと気付いた。

 少女は鞄を空いた座席へと引っ張り上げると、膝に手を置いた姿勢でシートに深く背中を預けた。瞼も閉じていたので、私は彼女がそのまま眠ってしまう気なのだと思った。

「すみませんが」と声を掛けると、彼女はすぐに目を開いて運転席を窺った。

「シートベルトを着用願います。できれば、荷物もお手元に。重いものでしたらこちらで預かってトランクに入れておきますが」

 非難するつもりはなかったが、彼女にはそう聞こえたのか急いで言う通りにすると、俯いて黙り込んでしまった。何か取り繕っておきたかったが、今しばらくはこちらから言葉を発しても萎縮させるだけのように思われて、結局私は何も言わぬままエンジンを点けた。常に大きく駆動音が響く中では、いずれにせよ小声での会話は望めない。私が操作盤の確認を終えるまでの間、少女は一言も喋らなかったと思う。

 外で風が渦を巻いて、窓の結露を四方八方へと吹き散らしていく。左手がレバーを捻るごとにエンジンは回転数を速め、小刻みな振動に背の震えが増していく。後部座席では、少女が左窓から外の様子を興味深げに眺めていた。

 もう良いだろうと思って、私は振り返って彼女に話しかけた。

「こいつに乗るのは初めてですか」

 少女は頷いて、しかし私と顔を合わせることはせずいっそうガラスに顔を近付けた。

「ええ。修学旅行で大型のに乗ったことはあるんですけど、こういう……」

「小さいのは」

「ええ。こういった個人用の乗り物は経験がありません」

「でしたら、よくご覧になるといいでしょう。――じき無くなっていく機体です」

 付け加えるように小声で呟いたから、彼女の耳には届いていないかもしれなかった。私は既に前の操作盤へ目を落としていて、少女も言葉を返してはこなかった。

「もう一度、安全をご確認ください。少し、いや、かなり揺れますので」

「大丈夫です。むしろ、ちょっと楽しみなくらい」

 目を反らしたままではあるものの、少女はそう言って微かに笑顔を浮かべた。運転手として、悪い気はしなかった。

「では、離陸します」

 言うと同時にレバーを手前へ引き込む。底部に嵌め込まれた二つのプロペラが跳躍するように高く唸り、次の瞬間には機体を滑走路から浮かばせていた。後部座席から感嘆のため息が上がったような気がした。

 運転手一名、乗客一名を載せた小型タクシーは少しの間前方へ滑ると、高度を上げて空港上空を飛び去っていった。

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晩雷 https://anqou.net/poc/2019/08/31/post-2991/ https://anqou.net/poc/2019/08/31/post-2991/#respond Sat, 31 Aug 2019 14:58:31 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2991  氷川哲郎の様子がおかしい、という報せが入ったのは、面会時間が終わる間際の夕暮れ時だった。

 看護師と連れ立って病室の引き戸を開ける。中では私を呼び出した張本人、哲郎の息子が待ち構えていた。

「哲郎さんに何かあったとお聞きしましたが」

「ええ、その」見た目に四十は過ぎでいるであろう哲郎の息子は、落ち着かない様子で薄くなり始めた頭を擦った。

「 仕事帰りに会いに来たんですが、私が来た時にはもう。その、病状が悪化したというのではなさそうなのですが」

「それは私が判断いたしますので」

 患者の家族が体調の急変を受け入れられないというのはよくあることだった。そのまま哲郎の容態を診ようとした私を、しかし息子は何故か腕を掴むことで制した。

「違うんです。苦しそうにしているのではなく……ただ、ずっとそこのベッドに座っているんです。何だか気味が悪くて」

「気味が悪い?」

 実の父親を表す語彙としては些かそぐわない。

 息子の指差す先、病室のある一角では淡いピンク色のカーテンが閉じられたままになっている。その二畳もない区画が、哲郎がその一生を終えるために与えられた唯一の空間だった。

 氷川哲郎は患者としてはごく扱いやすい部類と言えた。入院時は八十を前に した老人とは思えないほどに矍鑠とした様子を見せ、よくラウンジに出てきては窓際で経済新聞や将棋雑誌を読み込み、「こんな時にコーヒーが飲めれば」とぼやくという、非常に模範的な老人の振舞いを見せていた。難しい性格ではあるのだろうが、頑固親父、というには哲郎は勤め人の精神を残し過ぎている。退職後も将棋以外に趣味を持たなかったと見え、私の診察を受ける時などは、正に上司の命令を聞く部下といったような生真面目な顔で耳を傾け、取る必要の無い瑣末なことまで一々メモ帳に書き込んでいた。窮屈な仕事人間の抜け殻、というのが私から見た 氷川哲郎という老人であった。

 手術で胃の一部を摘出してからというもの、哲郎は日に日に弱っていった。ベッドに座って黙り込む時間が増え、気付けばベッドの傍らに積まれた雑誌も古いものばかりになっていた。最早近いうちにやってくる醒めぬ眠りを待つのみという様子で、 言うなれば抜け殻の抜け殻だ。哲郎とあまり友好的で無かったらしい息子をはじめとした肉親達が、弱り果てた哲郎を見て今更肝を冷やしたのか、ここに至って頻繁に病室へ訪れるようになったというのは皮肉な話である。

「哲さんな、ずーっと泣いとるんじゃとお」

 ふいに別のカーテンの奥から嗄れた声が飛んできたことで、私の意識は病室へと戻された。声の主は哲郎と同室の嶋岡という患者で、私がここで働き始めた頃から病院に住んでいる老爺だ。内臓がぼろぼろであるにも関わらず今日まで飄々と生きながらえてきており、既に院内では妖怪かアンデッドのような扱いを受けている。

「嶋岡さん、起きてらっしゃったんですか」

「儂はずっと起きとる。哲さんと話ができんで、退屈をしとっただけでな」

 氷川哲郎があんたと話したがったことはないだろうに、と言いそうになったのを喉元で飲み込む。本来この病室は四人部屋だが、つい先日に退院やその他の理由によって二人の患者が病院を離れたため、一時的に二人部屋となっているのだった。静かに過ごすことを望む哲郎のような人間には不幸なことだろう。

「その、嶋岡さんの言う通りです。親父、ずっと泣きっぱなしで」

 私の白衣を掴んだままの息子が言葉を継いだ。やんわりと身振りでその手を解かせる。

「今回は哲郎さんにとっては初めての長期入院ですからね。ストレスに感じたり、不安になったりするのはむしろ当然です。必要だと判断すれば私と看護師でケアをさせていただきますので……」

「いえ、ただ泣いているだけなら良いのですが、その」

「何ですか」

「ああ、いえ……」

 自分の語気に僅かな苛立ちが混じったのが判った。目の前の男の様子はどうも要領を得ない。患者のためならばともかく、あまり長い時間を家族への説明に費やすほどの余裕は無い、というのが本音だ。そもそも既に面会時間は終わっている。

「哲さんなあ」

 何とか息子に口を噤んでもらう算段をしていたところへ、嶋岡が口を挟んだ。

「でも哲さん、泣いとるにしては静かなんじゃ。なんか喋るなり、 叫ぶなりしてもええじゃろうに」

 そう言われて初めて気付く。確かに、哲郎のベッドからは嗚咽どころか一つの物音も聴こえてこない。人がそこに座っているということすら不確かに感じられる。ベッドから起き上がったらしい嶋岡が、細くカーテンを開けて私の顔を覗き込んできた。土色にくすんだ皺だらけの顔。ゆらめく布地の隙間に現れるその容貌は、まさに妖怪と呼ぶに相応しい。

「なあ、お医者さん。哲さん、本当に泣いとるんじゃろうか」

 老爺の丸過ぎる眼球に見つめられた私は、すぐに手で降参の構えを取った。

「分かりました。私が様子を見ますから、嶋岡さんは寝ていてください」

「そうかあ」

 私の答えに満足したのか、それだけ言うと嶋岡はすぐに奥へと引っ込んだ。化け物の登場に怯えた様子の息子を尻目に、私は哲郎のベッドへと近付く。

 カーテンを開けると、そこには確かに哲郎が居た。ベッドから体を起こし、彼の息子の言う通りその頬には涙が伝っていた。伝ってはいるのだが。

「笑っている」

 哲郎は涙をとめどなく流しながら、しかし確かに笑みを浮かべていた。 元気な時からして殆ど見せたことのない、まるで屈託のない笑顔だ。

「変でしょう。こっちが話しかけても生返事ばかりで」

変どころか、異様とすら思えた。思ったままを言えば、正気を失っているようにしか思えない。すぐに哲郎の真横に屈み込んだ。

「氷川さん、どうされましたか。どこか痛みますか」

 きっと無視されるだろうと思っていたその言葉に、しかし哲郎は振り返って視線を合わせることで応えた。

「松本さんか」

「ええ、担当医の松本です。どうかなさいましたか」

 この間も哲郎は涙を流しながら笑っている。

「どうもしておらんよ。ただな。雨が降っとる」 哲郎の言葉に、窓の外へと目を移した。

 そこにあるのは消えかけの夕焼けで、雨雲の気配等微塵も感じられない。私は小刻みに首を横に振った。

「雨なんて降っていませんよ。綺麗な夕焼けです」

「夕焼け? いや、そんなことはない。降っとるんだ。外へ出たのは随分と久し振りなんだよ、松本さん。 嗚呼、気持ちが良い」

 哲郎は窓の外を見ることもなく、私の方を見つめたままでそう返した。それでやっと気付いた。哲郎は私の目を見ていない。確かに眼が合っている筈なのだが、どうやら彼は違うものを見ている。それが何なのかは判らないが、確実にこの世界とは切り離された何かだ。

「雨粒が顔に当たるんだ」哲郎は喉を震わせた。「大雨だよ、春の嵐というやつだな、これは。風が、濡れた草はら が、こんなにも爽やかだったとはなあ。知らんかったよ」

 そう言って、哲郎は声を上げて笑った。私はその様を最も近くで目の当 たりにしていたわけだが、天に誓おう、彼の笑顔の中に狂気や絶望のようなものは一片 たりとも見て取れなかった。ただ氷川哲郎は、久方振りに浴びる雨を楽しんでいるようだった。止まらぬ涙に顎までもを濡らしながら。

「儂はな、松本さん」

 違う世界に居るのだろう私へと、目の前の老人は訥々と話し続ける。

「儂は、もう何にもなれんと思っとった。何にもなれんかったし、何にもなれんと。だが儂はまたこうして歩いとる。有難うな、松本さん」

 哲郎が背を曲げる。彼が仮にも私に礼を言ったのは、これが最初で最後だ。

「氷川さん。これからどこへ行かれるんですか」

 その時の私の問いは、医師としての領分を逸脱したものだっただろう。私が答えを求めた相手は、病床で死を待つ老人だったのか、それとも嵐を歩く幸福な男だったのか。その点については、未だに自分の中で結論が付けられていない。

 少なくとも、氷川哲郎はその問いに答えをくれた。

「会いに行くんだよ、うちの馬鹿息子に。随分と放ったらかしてきた。今なら、詫びの一つでも入れられる気がする」

反対側のベッドから、嶋岡が渇いた手の平で出鱈目に拍手をする音が鳴り響いてきた。部屋を満たすその音に埋もれるように、哲郎の息子が嗚咽交じりに泣く声もまた、私の耳に届いてくるのだった。

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影の男 https://anqou.net/poc/2019/03/23/post-2824/ https://anqou.net/poc/2019/03/23/post-2824/#comments Sat, 23 Mar 2019 13:25:24 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2824

 町内放送の夕焼けこやけが耳に届いたことで、初めて僕は今が夕方であることに気付いた。

一体どれほどの時間、僕はここで呆けていたのか。目の前の世界が赤く変わっていったことにすら意識が向いてなかったのだから相当のものだ。茫然自失、とは今の僕のことを言うのだろう。

 ここへ来た時は砂場で遊んでいた数人の子供たちも、いつの間にか居なくなっていた。彼らが夕焼けこやけよりも前にこの児童公園を去った理由の一つが、ベンチに座ったまま動かない不審な男子高校生の存在だったのだとすると、それは少し申し訳無いなと今更ながらに思う。砂場の上に取り残された簡素な造りの城が、夕陽に照らされて色濃く影を落としていた。赤と黒の二色で染め上げられているそれは、まるで戦火に燃え落ちる最中の城のようにも見える。まさに斜陽だ、と僕は頭の中で呟いた。

遮蔽物の無い公園を、風が容赦なく吹き抜けていく。昼間は暑さに灼かれていたというのに、今は七月とは思えない程に肌寒い。既に夏本番の気分だった僕は、羽織る上着も持たずに半袖のままでじっと座り込んでいる。そろそろ家へ帰らなければ、ここに居続けては体調を崩してしまいそうだ。

 ベンチから立ち上がろうとして、両膝に手を乗せる。自然と体が前に傾き、自分の股ぐらを覗き込むような姿勢になったところで、僕は「それ」の存在を思い出した。

 影だ。傾いた陽の光がほぼ正面から僕に当たって、背中側に細長い影を形作っている。それだけでは無論、何の注目にも値しないだろう。

ただ、この影が動いて喋るというのならば話は別だ。

「どうした。俺の方を見つめて。何か用か」

 声が聴こえる。しかし、周囲に僕以外の人影は無い。この声は間違いなく、地面に伸びる僕の影から聴こえてくるのだ。

影は僕と同じようにベンチに座って、しかし僕とは違って手を膝に置いていない。左手、いや右手だろうか、すぐには判りづらいがどちらか片方の手をひらひらと振って、自分の存在を主張してきている。その軽薄っぽい身振りを見ているのが嫌になったので、僕は視線を前へ戻すことで、影を視界の外に追いやった。

「何でもない。ただ、自分の頭のおかしさを再認識している」

「頭がおかしい? それは、公園のベンチに一時間五十分も座り込んでいることか」

 勿論そのことを言っているんじゃない。こいつは判っていて僕をからかっているんだろう。おかしいというのは、この影のことに他ならない。

 僕は別に霊能力者でも超能力者でもない。人ならざる者との邂逅を日常とするような、非日常を生きる人間ではなかった。それが今日のある時を境に、こうしておかしな影に取り憑かれてしまっている。

もしこいつが本当に、科学で説明の付かない未知なる存在なのであれば良いが、残念ながら僕はそこまで夢見がちでも楽観的でもない。この影はほぼ間違いなく、僕の無意識が生み出した存在しない虚構の怪物だ。目に見える形で現れた、僕の狂気そのものとでも言おうか。

「狂気そのものとは、なかなか言ってくれるじゃないか。少しは物を考えられるようになってきたらしい」

 影は平然と僕の思考を読んだ。こうして声が聴こえること自体僕の「気のせい」なのだから、考えを読まれるくらいでは驚きもしない。影が動くのは幻覚、声が聴こえるのは幻聴。イマジナリーフレンドという言葉を聞いたことがあるが、それとはやや異なるようにも思える。何にせよ、明日にもしかるべき病院へ行くべきだろう。

「明日の予定は決まったか」

「残念ながらね」

「よし、よし。じゃあ落ち着いたところでもう一度、この件を一から考え直してみようじゃないか」

「考え直す?」

 地面から聴こえてくる声は、図々しくも宿主である僕に何か提案をしたいようだ。思わず肩越しに振り返ると、影は足を広げてベンチに腰掛け、両腕を胸元へ潜り込ませていた。どうやら腕を組んでいるらしい。

「今更何を考えるっていうんだ。おかしくなってしまったこの僕が」

「自分で狂ったって思い込んでるのは狂った内に入らないんだよ。考えるのは、勿論今日の昼間の件についてさ。翔華(しょうか)がどうしてあんなことを言ってきたのか……合わせて、これまで翔華と何があったかもよく思い返してみると良い」

「そんなこと……」

 そんなことをわざわざ考える必要は無いし、考えたくもない。喉が一瞬で乾き切ったような感じがして、最後まで言葉が繋げなかった。

本当に、考えたくなかった。既に決まってしまった結末と、判り切ったその理由を反芻することが、一体何になると言うのか。彼女と過ごした日々を懐かしんだところで、虚しくなるだけだろう。質の悪い懐古でしかない。

「そうとは限らない。結末が決まったなんていうのは、お前の思い込みじゃないか。お前は翔華と別れたことを悲しむばかりで、考えることを止めちまっているんだよ。木偶の坊になって公園で黄昏れているのが、どうだ、そんなに楽しいか」

「……楽しい筈が無い。さっきから、当たり前のことばかり訊くなよ」

 弱音と非難が混ざったような僕の返答を聞いて、何が可笑しいのか、影は声を上げて笑った。手を叩く音まで聴こえてくるが、僕自身の両手は膝の上から動いていない。

「楽しくないのなら、別のことをしようじゃないか。なあ、悠人(ゆうと)。諦めるには早い。まだ日は沈んでいないんだ。夜が来るまでの間だけで良い。今までのことを思い出して整理してみてくれ」

 影の口調が、今までに無く柔らかなものへと変わった。僕をなだめすかして、自分の望む方向へ思考を誘い出そうとしていることが容易に推し測られる。詐欺師か悪魔か、でなければゲーテの詩に登場する魔王のような手口だ。

「考えるんだ、悠人。何なら、結論を出す必要すら無い。冷静になってじっくりこれまでのことを考えている内に、俺なんていつの間にか消えちまうかもしれない。悪くないだろ」

 この誘いに乗ってはいけない。そう思っているにも関わらず、僕は自分の口の端が上がるのを感じた。頭の片隅が、影の言うことにも一理あると納得してしまったのだ。

そもそも、このまま家に帰ったところでどうなる? 夕飯を食べて、寝て起きて、明日からまた生きていくだけだ。そしてその明日は、もはや暗闇へと変わってしまった。落ちてしまった太陽が、再び上ることは無い。これから先、長い長い夜が始まるのだ。それこそ、想像したくもない程に絶望的。

 そうだ。先の未来を考えるくらいならば、過去を振り返っていた方がまだましじゃないか。それでもしこの鬱陶しい影が消えるのだとしたら、損は無い話だ。

 そこまで思考が及んだところで、僕は苦笑とも冷笑とも付かぬ笑いを浮かべてしまったのだった。何ということは無い。影の言葉は僕の言葉でもある。自分で自分を丸め込むこと程、楽な説得は無いだろう。

「……日が沈みきったら、家に帰るからな」

 絞り出すような僕の言葉を聞いて、影が満足気に唸り声を上げる。僕は改めて木製のベンチに座り直した。古くなった材木が僅かに軋み声を上げる。

公園を吹く風が弱まってきた。もう少しの間なら、ここに居ても大丈夫そうだ。

日没まで残り幾ばくもない。それでは、情けない話だが考えてやろうじゃないか。翔華が僕を振った、その理由を。

 僕と翔華の出会いの瞬間まで、わざわざ遡る必要は無いだろう。というか、そんな昔のことは憶えていない。翔華の家は産まれた時から向かいにあって、僕らは殆ど必然的に幼馴染になった。

辛うじて記憶が残っているのは、幼稚園に入園してからのことだ。幼い僕が、幼稚園へ向かう道を誰かと手を繋ぎながら歩いている。繋ぐだけに留まらず、僕の手をブランコのように勢い良く振り回しているのは、同じく幼い頃の翔華だ。

「ゆうくん、今日はうちにとまってくの?」

「うん。おかあさんが、おしごとで帰れないから……」

他愛も無い会話が頭の中で再生される。実際、僕らはしょっちゅうお互いの家に遊びに行っていたし、僕の両親が仕事で家を空けた日は、翔華の家に泊めてもらうのがお決まりのパターンだった。だからきっとこんな会話も交わされたのだろうが、生憎声までは思い出せない。差し詰め、字幕付きの無声映画と言ったところだ。

何を悩むことも無く、ただ笑って過ごしていられた日々。ここに、破局の手がかりがあるようには思えない。自分の思い出を汚い足で踏み荒らしているような気分になってきたので、その頃のことを詮索するのは止めておこう。

 僕と翔華の間にはっきりと「ずれ」が生じ始めたのは、小学生になってからだ。学校という一つの社会に放り込まれたことで、僕らにはそれぞれ社会的な立場というものが形成された。

一言で表すと、翔華はクラスの人気者だった。外向的で、人当たりが良く、優しくて頼りがいがある女の子。それが翔華の性格そのものだったのか、何か別の内面を取り繕った結果だったのかは判らないが、どちらにせよ、翔華が選んだのはそういう生き方だった。

 一方の僕はどうか。自分で解説するのも切ないが、僕は存在感の薄い子供だった。休み時間の度に席で本を読んでいたので、クラスメイトと話す機会も、一緒に遊ぶ機会も無い。そもそも他人と交流することが苦手だったので、交友関係を広げようという意思すら持っていなかった。

結局、小学校六年間で友達と言える存在は翔華以外に殆ど出来なかったが、その翔華とは相変わらず仲が良かった。小学校も、ついでに中学校も家から徒歩圏内だったので、毎朝玄関前で待ち合わせて一緒に登校した。そうだ。中学校の頃まで、僕らは確かに親しい仲だった。それが変わってしまったのは、高校に入ってから、つまり去年の……。

 そこまで回想したところで、背中越しに鋭い声が飛んで来た。

「違うぞ悠人。関係が変わったのは高校入試からだろ」

 まるで正解を知っているかのような影の言葉が癇に障り、僕はつい鼻で笑ってしまった。

「何を言っているんだ。高校入試は僕も翔華も同じところを受けて、合格した。受験会場に行く時だって二人一緒だったよ」

「だがお前、志望校のレベルを下げただろ。翔華に合わせて……それを知ってからの翔華の態度を忘れたのか」

「志望校……?」

 確かに、僕は模試の判定を無視して翔華が受ける県立高校を第一志望にした。進学先に対して何の拘りも無かった僕にとって、「翔華と通える」ということが大きな魅力だったからだ。

 言われてみると、受験直前の頃の翔華は、態度が微妙によそよそしかったような気もする。少なくとも、僕の無意識に居座る影の男はその違和感を認識しているようだ。しかし。

「模試の判定について、僕が翔華に話したことは無い筈だ。志望校のレベルを下げたことなんて、翔華には判らないよ」

 僕の疑問を耳に入れた途端、影の男はこちらに聴こえるくらい大きく舌打ちをした。初めからそうだが、こいつは僕の心が生んだと思えない程に気が大きくて柄が悪い。

「自分の影に向かって謙虚ぶってるんじゃねえよ。お前の中学時代の成績は何番だ」

「……上から、十番目くらい」

「翔華は平均ちょい上くらいだった。県立高校は翔華が安定して合格できるくらいの高校だぞ。お前が志望校を下げたことなんざ、改めて口にする必要も無い」

 流石に僕の影、適当な誤魔化しは通用しない。確かに、僕が志望校を翔華に合わせたのは明らかで、翔華の様子がその時期に変になったのだとすると、その原因が僕にある可能性は高い。

「僕が翔華を追いかけて高校を選んだから、翔華に距離を置かれた……そう言いたいのか」

「俺は何も言ってない。ただ、お前の間違いを訂正しただけだ。……考えを邪魔して悪かったな。次は高校入学以降だ。日没は近いぞ」

 影男の言葉につられて西の空へ目を向けると、太陽は端の端、沈む間際の位置で踏ん張っているところだった。空の色が赤から紫へとグラデーションを作っている。日没までしかここに居ないと言った以上、早めに話を切り上げなくてはならない。

 高校に入って何が変わったかというと、まず翔華が以前に増して外向的になった。より明るく、より陽気に。高校に入ったばかりで何かと不安な新入生達にとって、気軽に話しかけてくれる翔華の存在は有難かったことだろう。僕は単に、新しい環境でテンションが上がっているのかな、なんて考えていたが、実際には、翔華の性格の変化は決して一過性のものでは無かった。

瞬く間にクラス内で人望を集めた翔華は、勢いそのままに今度は他クラスへと手を広げた。休み時間毎に他クラスへ遊びに行っていた翔華の背中を、よく憶えている。この頃からだ。学校内で翔華と話す機会が、みるみる減っていったのは。それでもまだ僕は暢気に構えていた。翔華が居なくなる未来なんて、想像したことも無かったからだ。

 高校入学から二ヶ月、翔華はなんと生徒会役員の選挙に立候補した。翔華と登下校を共にしているにも関わらず、僕がそのことを知ったのは立候補の後。寝耳に水とはこういうものかと思い知った。「どうして僕に黙って」と抗議しかけたが、どうして翔華が僕に自分の行動予定を逐一報告しなければいけないのかというと、そんな理由はどこにもなかった。僕は自分の身勝手な不満を喉の奥に仕舞い込んだ、

通常二年生以上が務める役員職を、翔華は一年票を独占することで見事に勝ち取った。多分、翔華は初めから生徒会に入りたかったのだろう。当然、僕は翔華の当選をお祝いした。正確には、当選確実をお祝いした。候補者である翔華は、正式な当選者が発表される前日の時点で、既に開票結果を知らされていたのだ。その日の帰り道、僕は翔華に出来たてほやほやの当選情報を聞かせられた。

「おめでとう。一年で生徒会役員に当選するの、相当珍しいことだって聞いたよ」

「有難う! たくさんの友達が応援してくれたから……結果が出たら、悠君に真っ先に伝えたかったんだ」

 そう言って、翔華は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。そこまでははっきりと憶えている。その後……翔華の笑顔を見て、僕が何を感じたのだったか。そこだけ記憶に靄がかかったようになって、思い出せない。

「ぶはは!」

 影の男が笑った。

 生徒会に通うようになって、翔華は一気に多忙になった。朝は早くから登校して、放課後も遅くまで生徒会室で仕事をするので、僕と翔華が会えるのは休み時間の間だけ。どうせ予定があるわけでもなし、放課後くらい翔華の帰りを待とうかとも考えたのだが、「どうして待ってくれるの?」と訊かれた時の答えが思い浮かばなくて、結局一人で帰るのが習慣になってしまう。

 翔華と会う機会がさらに減ったことについて、寂しいのは間違いなかったが、それを口に出すことはしなかった。ちょっと驚く程多い生徒会の仕事を一手に引き受け毎日忙しそうな翔華の姿が、とても充実したものであるように見えたからだ。

 夏休みになったら、翔華と遊ぶ機会も出来るものと思っていた。一学期の終わる間際に、翔華に夏休みの予定を聞いた時になって、僕は生徒会の激務が夏休みにまで及んでいることを知った。秋の文化祭に向けて、実行委員や各団体の代表と会議の連続らしい。まるで会社勤めのサラリーマンのような話で、「忙しいけど楽しいよ」なんて言ってくる翔華に向かって、「そんなことよりどこかへ遊びに行かない?」とは言えなかった。つくづく僕は押しの弱い人間だと思う。

「結局、一人で寂しく夏休みってわけだ」

 影の男がまた笑った。宿主の不幸がそんなに面白いのだろうか。面白いのだろう、こいつは僕の「影」なのだから。

「実感させられたよ。僕に翔華以外の友達なんか居なかった。中学でも高校でも、僕は友達を作ろうと努力したことが無かったんだ」

 惨めだった。家から出る用事すら見つけられずに、僕は部屋に引き籠もって過ごした。僕がベッドに寝転んでゲームをしている間にも、翔華は生徒会でみんなのために働いている。その事実が常に僕を追い詰め、焦らせる。こんなざまは翔華には見せられない。

 結局僕は二学期になって、友達と呼べる人間を捕まえるべく重い腰を上げた。独りで居る僕の姿を、翔華に見せたくなかったから。この動機はかなり自意識過剰なものだったように思うが、尻に火をつけられたことで、僕は自分からクラスメイトに話しかけるようになった。

 その年が終わる頃には、休み時間に話すくらいの友人は出来た。相変わらず登下校や休日は独りだったが、それで良かったのだ。翔華の見ていないところでまでクラスメイトと会う必要は無いと思っていたし、実のところ会いたくなかった。二学期を通して改めて学んだのは、結局僕は人付き合いというものが致命的なまでに苦手なのだということ。新しく出来た友達と交わすくだらない雑談は、僕にとって苦行同然の行為だったのだ。それが友達と言えるのだろうか? 言えないだろうが、そんなことは些細な問題に過ぎない。

 冬休みに入ったが、僕が翔華を遊びに誘うことは無くなっていた。翔華には、僕が四六時中暇を持て余していると知られたくない。これは僕の見栄であり、意地だ。家にずっと居る僕を、向かいに住む翔華に見られているような気がして、毎日のように意味もなく外出した。まったく馬鹿な話だ、翔華は生徒会の仕事で学校に行っているというのに。

 三学期が過ぎ、二年生になっても、僕と翔華は離れ離れのままだった。周囲と築いた人間関係を保つために、僕は相変わらずクラスメイトとしたくもないお喋りをしている。翔華も翔華で、生徒会選挙の管理がどうこうで忙しそうだった。

 翔華とろくに会えない日々が続く中で、僕は自分の行動の目的を見失いかけていた。何のために友達を作ろうとしていたのだったっけ? それは惨めな自分を翔華に見せないことで、見栄を張るためで……でも、その翔華は僕の方を見向きもしていない。このままでは、翔華が僕の手の届かない遠くへ行ってしまう。嫌だ。独りになりたくない。

 うだうだと悩み続け、かといってそれを解決するために何か行動するでもなく、ただ惰性のように学校へ通っていたある日、職員室前の廊下を歩いていた僕の目に、壁に貼られた一枚のポスターが留まった。可愛らしいイラストが散りばめられたそれには、手書きの文字で「文化祭実行委員募集中!」と書かれてある。

 僕はそのポスターから目が離せなくなった。曰く、毎年六月になると、生徒会役員を含む各委員会の募集が行われる。生徒会役員は選挙で決まるが、文化祭実行委員を含む他の委員は手を挙げれば誰でもなれる職とのことだった。

翔華は一年の夏休み、文化祭準備のために実行委員と会議を重ねていた。ということは、実行委員になれば翔華と頻繁に会えるというわけだ。これぞ天啓。居ても経ってもいられなくなった僕は、そのまま職員室の扉をくぐり、即座に文化祭実行委員に名乗りを上げた。

実行委員になったことは、翔華には内緒にしていた。七月に第一回の会議があるので、そこで会って驚かせたかった、というのはあくまで理由の一つ。最も大きな理由は、この頃になると翔華と二人きりで話す機会が全く無かったということだ。既に僕は翔華の周りに居る友人Dくらいの立場にあったので、個人的な話をしようにも、机に手紙を入れでもしなければ不可能だった。

「だが、実行委員という大義名分があれば、もう一度翔華に近付ける。そう思ったんだろ」

 影の男が口を挟んだ。これも自分の独り言の内だと思うと、一々突っかかる気にもならない。

「勿論そう思ったよ。実際、最初の会議の場に翔華は来たんだ。二十人くらい居る実行委員の中から、すぐに僕を見つけてくれた。目が合った時の驚きようったら無かったな」

 口に出した言葉には、自然と笑いが混じった。思い出を懐かしんだわけではない。あの驚いた翔華の顔から、嬉しさが滲み出ているように見えてしまった自分の都合の良さや勝手さ、そして愚かさへ向けた嘲笑だ。

 会議が終わった後、僕らは久々に帰り道を二人並んで歩いた。僕の隣に翔華が居る、実に一年振りの光景。その日の気温は暑過ぎず寒過ぎず、散歩日和と言って差し支えない快適さで、もう少し時間が早ければ、僕は翔華にどこか寄り道をしていかないか誘っていたところだっただろう。

心地よい外気と隣を歩く翔華に浮かれた僕は、これまでの分を取り返すように何でも無いような雑談を持ちかけた。けれど翔華の返事は「へえ」とか「そうなんだ」といったもので、なかなか会話が続かない。

住宅地に差し掛かり、道が少し狭くなった。つられて歩道も狭くなったので、二人並んで歩くにはやや窮屈だ。自然と、僕は翔華の斜め後ろを歩くような形になった。こうなると、僕からはいよいよ翔華の表情が読めない。

上の空のような様子の翔華を流石に不審に感じ始めたところで、翔華が急に「ねえ」と声をかけてきた。ねえも何も、僕は初めから翔華の傍を歩いているのだけれど、それを今指摘して混ぜっ返す程、僕は空気の読めない人間ではない。

「一つ訊いても良いかな、悠君」

 振り返った翔華の表情が、深刻そのものだったのだ。

 翔華と僕はほぼ同時に足を止めた。二人の脇を、乗用車が排気音を立てて通り過ぎていく。

「何かな……何でも訊いてよ」

 平静を装ってそう言ってはみたものの、次にどんな恐ろしいことを問い質されるのか不安で仕方が無い。僕が、いや、僕らが今、何か重要な岐路に立たされているということは漠然と判った。

 翔華は一度深く呼吸をしてから、僕にこう問い掛けた。

「悠君は、なんで実行委員になろうと思ったの?」

 口調は真剣だが落ち着いていて、僕を責めるような感じはしない。この質問を聞いて、僕は内心で胸を撫で下ろしていた。実行委員になった理由を翔華に訊かれるのは勿論想定の範囲内で、委員になった時点で既に答えを用意していたからだ。翔華に訊かれずとも、いずれ説明しなければならないと思っていた。

「去年からずっと、翔華が頑張っていたのを見ていたから……僕も何か、手伝えないかと思ってさ。文化祭の間までだけでも、色々頼ってくれれば嬉しいかな」

 正直に、翔華とまた仲良くなりたかったからとは言えない。それでも、僕が翔華に言ったことは本心からそう遠いものでもなかっただろう。つまり僕はここでもまた、見栄を張ったことになる。

「そっか。そうなんだ……ふふっ、変わらないんだね、悠君は」

 翔華は……翔華は、笑った。僕の答えを聞いて、まさに華が咲くように。クラスメイトとお喋りする時とも、生徒会役員として皆の前に立つ時とも違う、中学以前の翔華そのままの笑顔だ。やっと僕の存在が翔華に認められたような気がして、思わず頬が緩む。翔華の問いに、正しく答えられたという実感があった。

 そうして、僕らはまた歩き出した。さっきの質問で何かつかえていたものが取れたのか、翔華は雑談に気軽に乗ってくれるようになった。ずっと教室以外では会えていなかったのだ、積もる話の無い筈が無い。家に着くまでに残された十分間、僕らは悩みなんて全て忘れてしまったかのように、ただ笑って過ごした。世界に僕ら二人だけ。かつて、そうであったように。

 別れ際、僕は久しぶりに翔華を遊びに誘った。夏休みに入ってからは、会議の無い日なら僕はいつでも空いている。そう伝えた。翔華の方は予定の有無がまだ決まらないとのことで、この件については決まったらまた話し合おうということになった。

「幸せだったか。あの日、翔華と歩いて」

 ぽつりと、独り言を零すように影の男が僕に問うた。その質問には勿論意味が無い。影の男は僕の心を識っている。僕はあの時確かに幸せ、だったのだ。

 第二回の会議は、一学期の期末試験が終わって何日も経たない内に開かれた。僕ら実行委員が先に教室で集合し、人数確認が終わった頃に、数名の生徒会役員が入室する。前回と同じ流れだ。ただ一点、やってきた生徒会役員の中に、翔華の姿が無かったことを除いては。

 別に、それ自体が大きな問題なわけではない。翔華が何かの事情で来られなくなったのかもしれないし、会議に出席する生徒会役員がそもそも固定でない可能性も十分にある。しかし、「翔華が居ない」という事実を認識した途端、扇風機しか回っていない夏の教室が、急に冷え込んだように感じられた。喉元をせり上がるように、つい先日翔華と交わした会話が思い出される。僕は、翔華の問いに本当に正しく答えられていたのだろうか。

 不安と焦りばかりが積もって、その日の話し合いの内容はよく耳に入ってこなかった。解散後すぐ、下駄箱で翔華の靴を探したが、とっくの昔に下校しているようだった。他の役員に翔華が帰った理由を訊くことも考えたが、翔華との関係性を探られるのは嫌だ。結局その日は何もせずに家に帰った。

 今になって思うと、最後に隣を歩いたあの帰り道、やはりどこかへ寄り道をしておくんだった。あの幸福な時間は、僕と翔華の新たな始まりだと思っていた。まさか、あれで終わりになるだなんて。

「続けてくれ、悠人」

「ああ」

 言われずとも、ここまでくればあと少しだ。何せ、第二回の会議があったのは、つい昨日のことなのだから。

会議の翌日、つまり今日の朝。僕はどうしても翔華に欠席の理由を聞きたくて、クラスの誰よりも早く登校した。昨日の内に書いてきた手紙を、便箋のままで翔華の机の中に押し込む。内容は、「昨日会議に来なかったけど、何かあったの?」というものだ。我ながら、ストーカーっぽい行動だと思う。

 翔華はいつも通り登校して来た。手紙を見たのかどうかは確認出来ていない。手紙を忍ばせたことに何となく後ろめたさを感じてしまい、僕は翔華の方を見ることが出来なかったのだ。

 昼休みになるまで、翔華が僕に話しかけてくることは無かった。もしやと思い一度教室を離れる。暫くして席に戻ると、机の中にノートの切れ端が入れられていた。翔華からの返信だ。

「放課後、第二視聴覚室に来てください。鍵は開けておきます」

 切れ端には、見間違いようのない翔華の文字でそう書かれてあった。手紙では話せない内容なのか、切れ端に収まらない程の長い話なのか。とりあえず、僕に出来ることは言う通りの場所に放課後向かうことだった。第二視聴覚室とは、昨日も実行委員の会議があった教室の名前だ。

 そして放課後。翔華はすぐに教室を出ていってしまったので、僕は少し待ってから席を立った。向かうは第二視聴覚室。

 手紙にあった通り、扉の鍵は閉まっていなかった。引き戸を開ける。中では、翔華が教室の真ん中に立って僕を待っていた。昨日の会議の際は机と椅子が並べられていたが、今は片付けられていて、第二視聴覚室はカーペットだけが敷かれた広い空間となっている。

「来てくれて有難う、悠君……あ、そこの鍵は締めてね」

「了解。……まあ、手紙を貰ったからね。何か用?」

 後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けた。ゆっくりと翔華の前へと歩み寄る。ここへ来てまだ、僕は自分の動揺を押し殺して外へ出さないよう努めていた。

「ちょっと、お話したいことがあって」

 翔華が苦笑いを浮かべる。また少し嫌な予感が高まった。

 暫くの間、翔華は黙ったまま自分の手を見つめたり、右手で左手を握ったりしていた。僕はじっと待つ。どの道、僕に翔華の言葉を待つ以外の選択肢は無い。

 翔華の手が解かれる。開かれたその手のひらから、まるで何かが翔んでいってしまったかのように感じたのは、その時の翔華が悲痛な程に寂しげな顔をしていたからだろう。

「急にごめんね。私、文化祭担当から外れることになったの」

 それは……想像の範囲内だ。いや、折角翔華と一緒に居るために実行委員になったのに、当の翔華が居ないのではお笑いも良いところなのだが、僕はそれくらいの事実ならなんとか飲み込める状態にあった。それくらい、今日この状況と翔華の様子が異常であったということだ。

 ここで問題にするべきは、何故翔華が文化祭担当から外れたか、だ。どうも平和な理由とは考えにくい。

 身構える僕に対し、翔華が放ってきた次の一言はあまりにも真っ直ぐ、避けようもなく僕を突き刺してきた。

「ようやく解ったんだ。私やっぱり、悠君と一緒には居られない。私たち、別々に生きていかなきゃいけないの。だから、文化祭の会議でも、教室でも、通学路でも、悠君と仲良くするのはこれで終わりにしたい」

 翔華が告げたのは、唐突な別れの言葉だった。

 僕もまさか、ここで翔華に別れを切り出されるとは全く予想していなかった。別に自惚れていたわけじゃない。だってそうじゃないか。僕と翔華は付き合ってもいないんだぞ!

「何の……話?」

 だから、僕の口から出てきた言葉は随分と情けないものになってしまった。口許が引き攣っていたりなんかしていたことだろう。

「私、ずっと悠君のこと見てたんだよ。悠君が私と離れてからも……悠君、この前まではあんなに友達と仲良く遊んでいたじゃない。実行委員の会議はともかく、他の日は友達と遊びに行かなくて良いの? どうしてずっと予定が空いているの?」

 ここで僕は初めて自分の失態に気付いた。先日の帰り道、僕はうっかり翔華に「夏休み中、会議の日以外はずっと空いている」と言ってしまったのだ。

この一年で築いた友人関係が本当はからっぽで、休日に遊ぶ相手なんか誰も居ない、それを僕は自分から翔華に教えた。教室での僕の様子を見た時点から、その辺りは薄々勘付いていたのかもしれない。何にせよ、翔華の問いは答えるには痛過ぎる。結局、僕は何も言えぬままにとどめを刺される形となった。

「悠君が実行委員になったのって、私のためなんでしょ」

勝ち負けの話では無いけれど、これは明らかに僕の負けだ。翔華に、完全に見透かされてしまっていた。

僕はあの日、翔華の問いにどう答えたのだったか。実行委員になって、頑張る翔華の助けになりたい? 自分の言葉のおぞましさに反吐が出る。実際の僕は、翔華へ再び近付くチャンスに縋り付いた、まるで蜘蛛の糸を手繰るカンダタだったというのに。僕の欺瞞を知った翔華は、どう思っただろう。

どうもこうもない、その結果が今じゃないか。

「悠人君。これは私の我が儘です。私たち、お別れしましょう」

とどのつまり、絶交宣言だ。

僕は弁解も挽回も出来ぬままに敗走した。正確には、「そうだね、そうしよう、残念だけど」辺りのことを口の中でもごもごと唸った後、半分体を引き摺るようにして第二視聴覚室を後にした。這々の体とは、その時の僕のざまを言う。

お別れしましょう。お別れ。翔華と、お別れ。文化祭の担当を下りてまで僕と会う機会を避けたんだ、きっと教室でも話せなくなるに違いない。僕は出口の無い絶望的な思考を頭の中で巡らせながら、ふらふらと廊下を歩き出した。

視界が滲む。涙だけのせいではないだろう。こんなにも、世界が蕩け出してしまったかのように歪むのだから。壁が曲がる、窓がたわむ。そして僕の影も。

影? おかしいぞ、影だって。

いよいよこれは変なことになってきた。僕の影が、僕とは違うように動いている。僕はそんな風に肩を竦めていないし、歩きながら足を組むなんて真似出来る筈が無い。

僕は突然現れた異物の存在に慄然として、その場に立ち止まってしまった。影も、床と壁に張り付いたまま止まった。そして、そこから聴こえる声。

「よう、悠人。早速で悪いが、勢い余ってここで死ぬんじゃねえぞ。この階の窓はみんな開いてるんだからな」

「よし、これで全部だな。なかなかよく覚えているじゃねえか……後は、信じられないって面しながら学校を逃げ出て、通学路と真逆の公園でノックアウトってわけだ。回想、終了」

 影の男のそんな言葉を聞いて、僕の意識は現実に引き戻される。振り返って影へと目を向けるが、僕の分身がどんな姿勢で僕を嗤っているのか、はっきりとは判らなかった。過去を辿っている内に日が沈み切り、とっくに夜になってしまっていたからだ。辛うじて街灯の光が影を生んでいるが、輪郭がぼやけてしまっていて、もはや人型にも見えない。だが、声は未だ明瞭に聴こえてくる。

「さあ悠人。もう夜になっちまったが、そんなことどうでも良いよな。ここからが本題、もとい問題だ。さっきまでは考えようともしていなかったみたいだが、今ならきっと解る。さあ、答えを出してくれ。『どうして翔華は悠人にお別れを告げたのでしょう?』」

 その問いは概ね、影の男が初めにしたものと同じだった。振られて傷心の人間に掛ける言葉としては最低の類だ。僕はさっき、そんな問題の答えは判り切っていると切り捨てた。

「……それは、僕が翔華に頼り切っていると、翔華にばれてしまったから。人付き合いからは逃げ、翔華だけが居れば良いって高校にまで付いて行って、そのくせ惨めな自分を見せたくなくて見栄を張った。挙句の果てには、翔華と仲良くなりたいなんて不純な理由で実行委員に……そこでも、僕は嘘をついたんだ。ここまでやって、『どうして振られたんだ!』と本気で言う奴が居たとすれば、そいつは本物の馬鹿だよ」

 僕は、自分のしでかしたことをまるで他人事のように語ってみせた。昔から遡って考え直した効果なのか、すらすらと僕がいかに駄目な人間であるか説明出来てしまったのが切ない。

 僕の答えは出した。だというのに、影は黙ったままだ。ひょっとすると、僕が質問に答えたことで、影の男も消えてくれたのだろうか。

「そんなわけ、ねえだろ」

 吐き捨てるような、影の男の声。今の発言は、どちらを指して言ったものだったのだろう。どっちもか。

 また黙り込んでしまった影の男を背に、僕は頭を掻いた。ああ、まただ。また僕は本心に嘘をついて、それで相手の求めた答えを出したつもりになっていた。自分の過ちを自分の影に諌められるというのは、随分きまりが悪い。

「そうだな。そんなわけない。気が動転していたさっきまでならともかく、こうも丁寧に話を組み立て直されたんだ。僕が最初に出した結論が間違いだなんて、すぐに判るさ。他でも無い、僕なら」

「自意識過剰だ」

「かもね。でも、僕が一体何年翔華と一緒に過ごしてきたと思う? 翔華は優しい。でも今回の翔華はちょっと優し過ぎる。僕を気持ち悪いストーカーだと暴いたのなら、もっと感情を昂らせて良い筈じゃないか。罵ったり、泣いたり……。翔華の様子が変だったことに、僕はもっと早く気付くべきだった」

「怒らないのがおかしいのは、誰だろうと同じだろ。そういうところが自意識過剰だっていうんだよ」

 今日会った時、翔華はずっと寂しげな様子だった。僕との別れを惜しんでいるかのように、だ。翔華は、「悠君とは一緒に居られない」「別々に生きていかなきゃいけない」と言った。これは翔華に依存する僕を突き放す言葉に思えるが、一方で翔華が僕と一緒に居たいのを我慢するような表現とも取れる。勿論これだけでは、別れたくない男による都合の良い解釈に過ぎない。これだけなら。

「悠人は、冬休みに翔華を遊びに誘わなかったな。それまでずっと休みの度に予定を訊いていたのに、あの時に限って、見栄を張った。頻繁に外出する振りをしてまで、友人と遊びに行っているように見せかけた」

「でも、翔華は毎日のように生徒会へ行っていた筈だよ。外出する僕を見ることは出来ない」

「ああ、そうだな。もし翔華が本当に――」

 本当に、生徒会に行っていたのならば。

 影の男と思考が噛み合ってきた。こいつが元から全て知っていて僕の思考を誘導したのだとすると、僕自身この推理を頭のどこかで組み立てていたということになる。たださっきまでの僕は、惚けたままでろくに考えようともしていなかったのだ。

 翔華はこう言った。ずっと悠君のこと見てたんだよ、と。考えてみればこれは噴飯ものだ。生徒会の激務に追われていた翔華が僕を見ていられた時間は、せいぜい授業の合間の休み時間程度の筈なのだから。

 だが実際はどうだろう。文化祭実行委員になって判ったことだが、会議というのはそう毎日あるものではない。だからこそ僕は会議の無い日に翔華を遊びに誘ったし、翔華も予定の有無が決まらないとは言ったが、完全に予定が埋まっているとまでは言わなかったのだ。つまり、夏休みの時点で、翔華の話していた「毎日会議で働き詰め」というのは、少々無理のある話となる。

「順調、順調。じゃあ、もし翔華が夏休みや冬休みに、意外と家に居たんだとしたら?」

「……夏休みの僕は家に引き籠もりっぱなし。冬は対照的に、毎日のように外に出かけてた。夏から冬にかけて、急に友達が出来たと思うだろうね」

 まあ、本当はただの散歩だったのだけれど。

 ところで、この推測には非常に危うい点がある。僕の外出を知るためには、翔華が窓から向かいの僕の家を監視し続けなければならないということだ。通常これは有り得ない。だがしかし。

『私、ずっと悠君のことを見てたんだよ』

 翔華の声が頭の中でこだまする。

 本当に、「ずっと見ていた」のだとしたら。

 背筋に寒さを感じ、思わず周囲を見渡した。夜の公園に人の気配は無い。

「居ねえよ。翔華はここに居ない。なにせお別れしたんだからな」

 影の男がそう言うので、一先ず安心しておこう。

 翔華がずっと僕のことを見ていて、さらに僕が翔華に依存している駄目人間だと気付かなかった。なんと都合の良い話だろうか。しかし、この方が自然なのだ。翔華の寂しげな言動も、夏休みの予定を水増ししたことも、あの帰り道に浮かべた笑顔も、翔華が僕に依存していたと考えた方が、ずっとうまく説明出来る。

「悠人はいつも、自分の視点からしか物事を捉えられていなかった。悪い癖だ。高校受験のこと、翔華の目線で考えてみろよ。幼馴染が、志望校を成績の低い自分に合わせたんだぞ。普通そんなことをされたらどう思う。翔華ならどう思うか、考えてみろよ」

 かつての僕を憎むが故にか、影の男の語気が強くなっていく。

 どう思うかだって。そりゃ、「申し訳ない」って思うさ。自分のせいで相手の将来の可能性を狭めたのかもしれないって、僕だったら滅茶苦茶に自分を責めるだろう。翔華だって、きっとそう考えただろう。

「翔華は、自分の存在が僕の足枷になっていると思ったんだろうね。だから受験の時から少しずつ、僕と距離を取った。他クラスにまで友達を作って、生徒会に入って自分から忙しくなって、僕との繋がりを絶とうとした!」

 気付けば、僕も少しばかり声を荒げてしまっている。近隣住民にこんな独り言を聞かれでもしたら様々な意味でまずい。一度深呼吸をして、心を鎮めるように努めた。

「翔華が離れたことで、悠人は面白いくらい孤立した。だが悠人は、二学期になるとみるみる内に多数の友人を作った……それが苦行だったことは、翔華には伝わらなかったようだな」

 翔華が離れたことで、僕に友人が出来た。翔華はこのことで自分の仮説を立証した気になったことだろう。自分が居ない方が、この幼馴染の人生はうまくいくのだと。

「ところが、次の年の夏になって悠人は翔華のもとに戻ってきた。友人と遊びに行く予定を全部潰して、翔華と一緒に居ることを選んだ……ように見えた」

 ように見えた、まったくこれに尽きる。今進めている説において、翔華が見たとしている僕の姿はその殆どが虚構だ。

思えば、やはりあの帰り道での問答は決定的だった。翔華はこう訊いた、「なんで実行委員になろうと思ったの」と。僕はこう答えた、「翔華が頑張っていたのを見ていたから、僕も何か、手伝えないかと思って」と。あまりにも……あまりにも間の悪い、完璧な回答だ。翔華はこれで、僕が翔華を助けるためにやってきたと、完全に信じてしまったのだろう。

ここまで来れば、今日の翔華の言動にも説明が付く。要は僕との決別だ。私のために自分を犠牲にするのはやめて、お互い別々に生きましょうと、そういうお話だった。

そして僕と翔華は、無事に離れ離れとなった。

「もう良いだろう、悠人。十分にことの顛末が理解出来た筈だ。次に考えるべきなのは、明日翔華に何をどう話すかってことだぜ」

「……翔華に?」

 ここまで殆ど一致していた影との思考が、ここへ来て再び食い違い始めるのを感じた。僕は明日翔華に会って話そう等と、考えてもいなかったからだ。

「何を不思議そうにしていやがる。翔華の想像は完全なる勘違いだったんだぞ。訂正してやれよ。自分はそんなに偉い人間じゃなくて、ただ翔華と一緒に居たかったんだって、そう言えば良い。ああ、悠人に考えさせる筈が、俺が言っちまったじゃねえか」

 影の男はまた大きな舌打ちをした。僕は影の言葉に何も答えず、ベンチから腰を上げる。冷えた体を何度か揺さぶってから、ゆっくり公園を歩き始めた。

 これで、影の男が泡を食って慌てたのだから面白い。

「どうした、悠人! まだ話は終わっていないぞ。翔華に今まで嘘ついて見栄張ってたのをばらすのかばらさないのか、実行委員の仕事をどうするのか……問題は山積みだ!」

 僕は影に背を向けて歩きながら、首をゆっくりと横に振った。靴が砂場の砂を踏んで、足に柔らかな感触を伝えてくる。

「僕らが導き出したのは、単なる一つの仮説に過ぎない。僕が単に嫌われたって可能性も、勿論ある」

「そんな馬鹿な! 翔華が笑った理由はどうやって説明付けるんだ! 夏休みの、生徒会の仕事量を偽ったのは!」

「僕の嘘があからさま過ぎて失笑したのかもしれない。生徒会が激務だと嘘をついたのは……ただ単に、僕と会いたくなかったからだ」

「そんなに疑うんなら確かめりゃ良い。かまを掛けるでも何でもして、翔華の本心を引き摺り出せよ!」

 影の男の声から、どんどんと余裕が無くなっていく。影が僕の分身であるのならばある意味不思議なことだが、影が激昂すればするほど僕の頭が冷えていくのを感じる。或いは、自分の内側の焦りや怒りが、全て影の男という形で現れているのだろうか。

 だとすれば、今の僕は結局のところ、狂った「人でなし」なのではないだろうか?

 ……かまうものか。ここまで来たんじゃないか。太陽はとうに沈んだ。これから始まる長い夜に、僕はもう頭の先まで包み込まれてしまっている。

 だから、この優しい人型の暗がりには、そろそろご退場願わなくては。

「やっと解ったよ。今のお前の態度で」

「何がだ!」

「何がも何も……僕がずっと受け入れて、放っておいていると思ったのか。お前という、存在を」

 僕は肩越しに、影が伸びているであろう辺りを指差した。

 影、影の男。超常的な存在にして、僕の心の「ひずみ」。僕の内側から飛び出てきた怪物。こいつが一体何者であるのか、僕はずっと考えていた。「お前は誰だ」という問いに、影の男は答えない。これは、僕が回答を導き出す必要のある問題だ。結局、僕はここでも不安定な仮説を立てることしかできなかったが。

「最初に影が動くのを見た時、それを僕は自分の狂気だと思った。でも微妙に違う。確かに影が動くのは僕がおかしくなってしまったからだろうけれど、影の言葉に狂気は含まれていなかった。むしろ、憔悴しきった僕よりもずっと冷静で、理性的だったとすら言える」

 影の男が急に黙った。その無言の意味を推し量ることは出来ないので、僕はそのまま話し続ける。

「次に僕は、お前を僕の本音そのものだと仮定した。傍若無人な振る舞いで、歯に衣着せぬ物言いで、僕の本心を見抜くからだ。まさに僕の隠された『影』……でも、これもちょっと違った。本音にしては僕に対して挑戦的過ぎる。お前がさっき言ったことは、僕の本心からずれていたしね」

「それは……悠人がそう思い込んでいるだけだ。悠人は本音では翔華と一緒に――」

「『一緒に居たい』!」

 ようやく口を開いた影の男は、割り込んできた僕の言葉によって再びその口を閉ざした。

 もう影の言葉は僕に通じない。影の男という存在は、今やほとんど僕自身から切り離されつつある。

「 一緒に居たい……それなんじゃないか。それこそがお前の本質……つまり、お前は僕の、何かを『したい』という想いそのものなんじゃないか。だから僕に指図するし、僕に無いものをお前は持っている。僕がそうありたいと思っている存在……お前は、僕の理想なんだ。違うか 」

 僕は自意識過剰で、人と話すのが苦手。すぐに見栄を張るけれど、その実翔華に依存している。そこへ来て影の男はどうだ。自意識過剰な僕を諌め、自分から喋りたい放題に喋って、自分を飾らない。おまけに、翔華が僕に依存しているなんて説へ僕を誘導してきた。まさに僕に都合の良い存在にして、僕の理想じゃないか……大いに極端ではあるが。

 僕の推測を聞いて、影は再び口を開く。しかしその声音は弱々しく、掠れ、既に力を失っていた。

「違う。俺は……俺は影だ。何者でもない。悠人、お前にへばりつく幽霊みたいなものじゃないか。俺がお前の理想だって。笑わせるな」

 影は本当に笑っているようだった。温かな潤いをあらん限り絞り尽くした後の、萎れきった笑いだ。

「俺の惨めさがお前に判るか。俺はずっとお前の足元を離れられない。なあ悠人、お前は空を翔びたいとは思わないのか。俺には空を翔ぶどころか、何一つ自由に出来ることなんてない。それがお前の望みか。理想なのか」

 影がここまで自らの想いを吐露するのはこれが初めてだ。やはり、影には影の意識がある。僕の心が生み出した作り物であったとしても、母親の胎内で子が心臓を脈動させるように、影の男は自らの中に血を巡らせているのだ。

 それにしても、と、僕は余計なことを考えてしまう。何故影はここまで自分を貶めるのだろう。ひょっとして、それが自意識過剰な僕の裏返しだということなのだろうか。だとすると、我ながら理想像が極端過ぎる。つい、影の男に背を向けたまま笑みを浮かべてしまった。

「そうだな。僕は翔びたくなんかない。お前はやっぱり僕の理想だ。お前は立派な影だが、なんなら僕だってずっと影だったんだから。翔華の背中に隠れる影……ずっと、翔華にくっついて生きてきたんだ」

 もし僕がどこかの瞬間で、自分の羽で空を翔びたいと思ったとしたら、きっと翔華と別の高校に進学していたのだろう。翔華なんて関係なく友達を作ってみたり、或いは一人を選んだりして、それを自分の当たり前としていったことだろう。

「僕が翔ぶ……自分の力で何かしたいだなんて、思わなかったし、思う必要も無かった。だって、傍にいる翔華が代わりに翔んでくれる。翔華に付いていけば、友達なんて作らなくても、自分の将来を不安に思わなくても良い。だから僕は、影だ。翔ぶ鳥と形は同じでも……全然、翔べやしない」

 影に聞かせるつもりか、それとも独り言か、僕は砂場の上に立ったまま、そんな風に語ってしまっていた。

「本当は翔華も、僕に頼っていた部分があったんだろうね。それは少なくとも正しいと思う。お互いがお互いの影に隠れていたってわけだ。今日まではね」

「……これからは、違うって言いたいのか」

 影の声が、落ち着いたものに変わっていた。僕を誘惑する猫撫で声とも、苦痛と怒りに満ちた囁きとも違う。優しさは無いが、同時に悲嘆も意地の悪さも抜けきったその調子は、どこかため息にも似ている。

「さあ。これからどうなるかは解らない。ただ、これだけははっきりしている。一つに、僕と翔華がもしまた一緒になったら、今度こそ二人で潰れてしまうだろうってこと。翔華の判断は、多分正しいんだ」

 僕は両手を軽く上げると、自分の左手で右手を握った。強く、指先が白く変わる程に。そして離す。俯いた視線の先、足元の砂場の上には、子供たちが作っていった砂の城がまだ残っていた。夕陽に照らされて赤々と燃え上がっていた城壁や屋根は、夕方からの風に吹かれていたるところが崩れてしまっている。青黒い月光に曝され、まるで落城した要塞のようだ。

「そして、もう一つ。僕と翔華はね。もう、お別れしたんだよ」

 形を失いつつあるその城を、僕は力いっぱいに蹴り飛ばした。

 砂が大きく舞い上がったその瞬間、僕の背中から黒々とした何かが、大きく羽ばたいていった、ような気がした。

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ブージャム https://anqou.net/poc/2019/03/23/post-2760/ https://anqou.net/poc/2019/03/23/post-2760/#comments Fri, 22 Mar 2019 16:00:10 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2760 目の前のベンチには一人の女性が座っている。イギリスのストーンヘンジを模したモニュメントが中心にある広い公園で、普段は子供が大勢遊んでいるのだが、今日は天気も不安定であたりに人気はなかった。少し前まで、この女性のボーイフレンドらしき人物がベンチに一緒に座っていたが、今はここにはいない。

私は今、さっき目撃した驚くべき現象をこの女性に伝えたいと思っている。といっても私はもうかなりの回数それを見てきたのだが、何度見てもそれは視界に入った途端に命の危険や、理解しがたいことに対する恐怖を感じさせるものだった。すぐに逃げ出したいという焦燥感に駆られたとしても、その現象に遭遇した時は逃げ出さず、そこに近づいて耳を澄まさなければならない。

昨日の雨でぬかるんでいる地面の部分を避けながら、彼女に近づいてこう言った。

「こんにちは。驚かせてしまってすみません。怪しいものではないのです。どうか話を聞いてもらえませんか。」

彼女は警戒しているようだった。ボーイフレンドがなかなか戻ってこなくて不安に思っているところへ、いきなり知らない人間に話しかけられたのだから当然ではある。もともと私は他人とコミュニケーションを取ることが苦手なので、彼女の警戒心に怯み挫けそうになったが、勇気を出して言った。

「あなたは私の話を馬鹿馬鹿しい戯言、あるいは狂人の妄想として聞き流そうとするかもしれませんが、私はあなたにそれを話す義務があるし、あなたはそれを聞く義務があるのです。先ほどあなたと一緒にいた男性、彼はあなたのボーイフレンドでしょう?そう、彼に関するお話です。」

ベンチから立ち上がり、歩き去ろうとしていた彼女は、私の最後の一言で振り向いた。顔の横に持っていきかけていたスマートフォンを下ろして、私に向き合った。

「私たちを見ていたんですか?あなたが彼に何かしたの?どうして彼は戻ってこないんですか?」

「順番にお答えしましょう。一つ目の質問の答えはイエスです。私はあなたたちを見ていました。なぜならばこの公園は私の散歩コースにあって、この公園で一休みするのが私の習慣であり、ここで遊んでいる子供たちを見てくつろぐのが私の日課だからです。今日は子供たちはいないようですが、日課を変えることはしません。したがって必然的にあなたたちを観察することになります。二つ目の質問の答えはもちろんノーです。私が彼に何かしたわけではありません。傍観していたという意味では間接的にそうかもしれませんが、しかし状況は私が介入できるようなものではなく、また未然に防ぐことができるような性質のものでもありませんでした。三つ目の質問の答えは少し長いお話になるので、ベンチに座っていただけませんか。」

「ここで聞いてもいいですよね?ベンチに座って聞かなければいけませんか?」

彼女はいつでも通報できるように握りしめたスマートフォンを、それとなく強調するような仕草をした。

そんなに私は怪しい風体をしているだろうか?いや、口調が原因で私を怪しいと思っているのかもしれない。こうして知らない人に話しかけるのは私の性質上苦手で、しかも話の内容が内容だけに、緊張して早口で喋ってしまった。安心させるために論理的に話そうとしたのもあだになり、冗長な表現によってかえって言い訳じみた印象を与えたのではないだろうか。

私はストーンヘンジの外周から5メートルほど北に位置する時計台をちらりと見た。私は時間が分かるものを持ち歩かない。雲が太陽にかかり、にわかに暗くなる。暗くなったせいで時計の文字盤がよく見えなかった。

「いえ、すみませんでした。そこで結構ですから、どうぞ話を聞いてください。」

「三つ目の質問の答えは?」

私の言葉を聞き終わるより早く彼女は言った。そうとう不安らしい。この調子だと、私の話を聞いた後、彼女は怒り出すに違いない。

「彼が戻ってこないのは、ブージャムに食べられてしまったからなのです。」

「は?ブージャム?食べられた?」

「そうです。ブージャムに食べられたのです。おそらくブージャムについては何もご存じないでしょうから、初めから説明します。」

「知ってますよ。ルイス・キャロルの詩に出てくる怪物でしょう。スナークの一種でしたっけ。架空の生き物に食べられただなんて冗談はやめてください。」

いまや彼女は敵意さえ私に向けているようだ。敵意を向けるべきなのは私ではなくブージャムの方なのに。彼女の誤解を解くべく、私は笑顔を浮かべジェスチャーを交えて話し始めた。

「よくご存じですね。そう、確かにブージャムはルイス・キャロルの『スナーク狩り』に登場する架空の生物です。しかし私が言ったブージャムは『スナーク狩り』に由来する現実の生物の名称です。私はその生物の名前を知らないので、仮にそう名付けているのです。」

彼女は私に対する不信感をさらに募らせているようだ。ジェスチャーはまずかったか。顔をしかめ露骨に嫌悪感を示す彼女に、私はなおも続けた。

「私はこの町で育ち、この広い公園でよく遊びました。小さいころから、この公園で不可解なことが起こるのを、というより不可解な生物をよく目にしたのです。」

私は、あの生物を初めて見たときの恐怖を思い出していた。忘れようのないあの気味の悪い見た目、そしてなによりあの大きさが私を恐れさせた。移動する音はぶつぶつ呟いているようにも聞こえ、後ろ姿は姿勢の悪い禿頭の酔っぱらいにも見える。

「どこを調べても分からなかったので、その気味の悪い生物を私はスナークと名付けました。『スナーク狩り』の不可解さとその生物の不気味さがよくマッチしていたためです。」

彼女はスマートフォンを操作していた。私の話を聞く気がないのだろうか、と憮然としていると、彼女は言った。

「写真を撮らせてくれます?」

「なぜです?」

「警察に連絡するときに必要になるかもしれないから。」

「お断りします。警察への出頭が必要ならば自分で出向きます。それより私の話を聞いていただけますか。」

彼女は私のことを変質者、良くて害のない狂人と思っているらしい。まあ、こういう反応が返ってくることは分かっていた。今回こそうまく説明できると思ったのだが。

「あなたが私の話を信じられないのは分かりますが、あれを目撃し真相を唯一知る私としては、これをあなたに話さないわけにはいかないのです。」

彼女はなおもスマートフォンを操作し続け、器用にもぬかるみを避けながら1,2歩あとずさり、面倒そうにこう言った。

「もっと手短に話してくれます?あなたの妄想に付き合っている時間はないんです。彼がどこへ行ったか聞いても無駄でしょうから、こう訊きますが、彼はどこでブージャムに食べられたんですか?」

「ストーンヘンジの向かいのあの御手洗いの中です。私は子供がブージャムに食べられないようここへ毎日……ちょっと待ってください。話は最後まで聞いてください。危険なんですよ。通常ブージャムは人間を食べた後スナークになり人間を襲わなくなりますが、彼を食べたブージャムは『まだ』と言っていました。そういうブージャムは危険なんです。まだ人間を欲している可能性がありますから。」

「はいはい分かりました。近づかないでください。警察を呼びますよ。」

彼女はスマートフォンを脅すように掲げて言った。彼女が後ずさり日が少し落ちたことで、彼女の影がストーンヘンジ外縁の北西の石にかかっている。

「妄想じゃありません。私は何度もブージャムが人間を食べるのを目撃しているんです。危険だからあなたに忠告しているんです。ストーンヘンジに近づかないでください。早く離れて。ほらもうそこに…」

私が言い終わる前にブージャムは彼女の後ろに迫っていた。いや、スナークと言うべきか。私の懸念とは裏腹に、その怪物は彼女を捕食しなかった。そして、やはり彼女はその怪物のことをボーイフレンドだと思い込んでいた。そのスナークは捕食したボーイフレンドの顔をしていたのだ。

「…」

「雨降りそうだし早く帰ろう。」

私を睨みながら、彼女はスナークにそう言った。

ブージャムの頭部は目や口のくぼみだけのあるノッペラボウであり、人間を食べるときにのみ顔の中心を収縮させて大きな穴を作り、背後からそっと近づいて人間を音もなくその穴に吸い込む。その直後、ブージャムは顔を元に戻すが、徐々に食べられた人間の顔がそこに浮かび上がってくるのだ。彼女がそのスナークをボーイフレンドと勘違いするのも無理はない。だが、私には分かるのだ。それがスナークであることが!

彼女はスナークとともに歩き去った。私はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。追いかけてさらなる忠告をするか、諦めて無力感に苛まれながら家路につくか逡巡しているまさにその最中に、日が陰り雨が降り出したまさにその最中に、彼女は突然静かに消えうせた。

そう、そのスナークはブージャムだった。

         

読んでくれてありがとう.この小説の舞台はかつて僕が旧融合不定期に投稿した『ブラボー』の最後の場面の広場です. 主人公の気持ち悪さがこの小説のかなめ. 例によって,僕が実際に見た夢に着想を得て書きました.人を食べる生物が登場するのは同じですが,元々の夢は小説とは違って食人生物はペットでした.そこから飼っているのか飼われているのかという話に発展させようとしたのですが,うちで飼っている猫について妹とそういう会話をしたことを思い出したのでやめました.夢ではブージャムはもっと見るも悍ましい外見ですが,うちの猫は非常に可愛いので,関連付けるようなことはしたくなかったのです.ちなみにジャバウォックやバンダースナッチはスナークの固有名詞として出てくる予定でした.

僕は小説が書けません.最初に書こうと頭でイメージしているものが,書いているうちにどうしたことかどんどん方向が逸れていってしまう.セリフはぎこちないし,情景描写はできないし,ストーリーもおよそ筋と言うものがなく行き当たりばったりになってしまうことが多いのです.それでも,見た夢を小説にすれば何とか形にならないこともない.僕のメモ帳に書かれている,小説にできそうな夢は以下の4つでした.

  • 内に広がり続ける虚無(穴)を抱える王国の城 (モデル:ユダヤ、ソロモン王)
  • 思索によってしか他者を見つけられない哲学者(モデル:ウィトゲンシュタイン)
  • 気持ち悪い食人生物のペット 相貌を持つ 飼われているのはどちらか
  • あまりにも速い話 空を飛ぶ車 速度に命を懸けた男の話

このうち3つ目がこの小説になりました.たいして面白くないって?そうですね,本当に面白い夢は起きたとたんに忘れてしまうものですから.さてどうでしょう,だれか残りの3つを小説にしてくれませんか?人に小説を書く労力を押し付けるなんて厚かましい話ですし特に期待はしていませんが,筒井康隆の『天狗の落し文』みたいな感じでアイデアだけここに投げておきます.このアイデアたちを面白くするのはあなたです!

それはさておき,小説とは何なのでしょう?この小説を書いているとき,僕は小説という文学の一形態のもつあまりの自由さに,小説が一体何なのか分からなくなりました.僕がストーリーのある文章を書くとき,初めに全体の構造と大まかなあらすじ,一部の印象付けのためのセリフを用意しますが,書いているうちに必ず体裁が保てなくなって想定していたものと別物になってしまいます.たった3000字あまりのこんな短いものでさえ!頭の中にある映像をそのまま絵にすることはできないように(できる人はできるのでしょうが),頭の中の世界を文章に落とし込むことは到底不可能です.それは私の感覚では何というか,かなりねじ曲がった行為なのです.小説では何でも書けます.どんな方向にねじ曲がってもそれは小説だと言い張ることができます.だから僕も,この文章を小説だと主張できるのですが,実際にできあがったものは偶然の産物以外の何物でもありません.着想からして夢から拝借したものですし.あえて言うならこの小説はダダイズム的な何かなのかもしれませんね.

僕は小説が書けないので,かつてタクシャカと約束した『入れ子』の小説は誰かに託したい,いやリレー形式にしてそういう企画にするのも悪くないかもなと思っています.そう,それはまさに連歌のような.連歌的ジレンマ再び.

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焚べる https://anqou.net/poc/2018/12/20/post-2447/ https://anqou.net/poc/2018/12/20/post-2447/#comments Thu, 20 Dec 2018 14:59:33 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2447  

(2018年12月22日0時改稿)

 

 

焚き火に投げ込まれた枯れ枝は、炎に当てられた途端に呆気なく燃えた。乾き切っていない枝があったのか、火は視界をぼやけさせる程の白煙を吐き続けている。顔を焦がす熱を感じて、わたしは椅子を少しだけ引いた。

「薪、もう無くなっちゃったけど」

「良いんだよ。これ以上燃やしたら、寝る前に消えなくなるから」

軍手を外してテーブルの上に置いた。アルミの小さなテーブルの上には、カップが二つ並んでいる。一つがわたしので、もう一つが香織の。さっき入れたばかりのココアが、十月の夜風に当てられて柔らかに湯気を上げている。

森の奥の方で音がしたような気がして、カップに口を付けながら目だけで辺りを見回す。勿論人間が出した音じゃない。風の音でなければ、きっと狸か狐の足音だ。ここらにはよく獣が下りてくる。

火がますます勢いを増してきた。煙が目に染みる。それだけに、鼻の奥を満たす湯気とココアの香りを心地良く感じた。わたしはもう何センチかだけ椅子を焚き火から遠ざけて、再びカップをテーブルに置く。ふと見ると、反対側のカップのココアが全然減っていない。

「香織も早くココア飲んじゃいなよ。冷める前に」

わたしは顔を右に、わたしと暖を取る妹の方へ向ける。

そこで、目が合った。

 

 

日本に住む人間の約十人に一人が東京に居るというのは、統計上の事実だ。けれど、産まれた時からこの街に居るわたしにとっては、世の中の人間の十人に九人くらいが東京人だった。

都会に住むことを息苦しいと感じたことは無い。東京にだって緑が無いわけじゃないし、たまには家族で旅行にだって行く。都会の人間が冷たいだなんて、誰が言いふらしたことなのか知らないが、少なくともわたしの周りの人は温かかった。わたしの話を聞いてくれる。わたしと一緒に話してくれる。私のことを好きでいてくれている。だから友達と遊ぶのは好きだし、家族のことも好きだ。特に、お姉ちゃんお姉ちゃんとわたしを慕う香織の存在は、わたしの中でとても大きい。みんなと過ごす毎日が好きだ。特に変わり映えは無いけれど、だからこそ変わらない日常の楽しさを私は知っているんだ。

とは言え、それはそれ。高校二年生には、たまに一人になりたい時もある。そんな時私は、一人でキャンプに行く。あまり人気の無いキャンプ場の奥の奥、誰も寄り付かないような場所で一晩を過ごすのだ。焚き火をして、簡単な夕飯を作って、そのまま静かにテントで眠る。友達にはあまり話さないが、わたしの密かな趣味だ。

だから、香織に「わたしもキャンプに連れて行って」とせがまれた時に、咄嗟に嫌な顔をしてしまったのも仕方の無いことだと思う。

確かにわたしの持ってるテントは大きめだから、香織が入っても余裕がある。けれど、寝袋は一つしかない。秋の夜は冷えるからと何度も止めたが、それでも香織はキャンプに付いていきたがった。可愛い妹の頼みを断りきれなかったわたしは結局、寝る時になったら寝袋は香織に譲ることを内心で決めて、香織と一緒にキャンプ場に出かけることにした。

 

いつものキャンプ場までは電車で移動する。原付くらいしか免許の取れない高校二年生にとって、キャンプの最大の障害は移動だ。原付の免許は、危ないからと言ってお母さんが取らせてくれなかった。

急行に揺られること二十分、乗り換えのためにわたし達は一旦駅のホームに下りた。ここからは各駅停車でキャンプ場の最寄り駅へと向かう。

「この辺になると、結構田舎なんだね」

「そういうこと、あんまり言わない方が良いよ」

都会人は冷たい、という話ではないが、都心に住むわたし達が「田舎」と口に出して言うのは、やはり何となく躊躇われた。

初めて下りた駅で興味深げにきょろきょろしている香織につられて、わたしもホームを見渡した。塗装が剥げ錆びた鉄骨の柱、ホームの中頃にぽつんと置かれた売店、エスカレータの無い歩道橋じみた階段なんてのは、確かに都会とは違う空気を形作っている。ただの乗り換え駅でしかない場所の風景についてなんて、考えたこともなかった。

「田舎は駄目なんだ。じゃあ、自然が豊かだね。森とか畑とか」

「畑は自然じゃないでしょ」

「自然だよ。だって植物じゃん」

香織は手を口に当てて笑った。この、喉の奥から鳴るような香織の笑い声がわたしは好きだ。わたしにはどうだって良いようなことでも、香織が笑うと、わたしまで笑えてくるのだから不思議だ。

 

各駅停車に乗る人はいよいよ少なく、わたし達の向かいの座席に至っては、誰も座っていなかった。二人で家に居る時みたいな気分になって、わたし達はまたどうでも良いことを喋った。

「お姉ちゃん、今回の期末どうだった」

「まあまあかな」

「クラスで何番だったの。お姉ちゃんのとこ、順位貼り出されるんだよね」

「そんなでもないよ。四番」

「何人中の」

「四十一人」

「凄いじゃん!」

香織は自分のことのように喜んでくれた。車両の隅の方に座るサラリーマンがちらりとこちらに目線をよこした。少し恥ずかしい。

「お姉ちゃんは凄いなあ。凄いよ。私なんかよりも、ずっと」

「駄目だよ、私なんか、なんて言っちゃ」

香織はいつもわたしを凄いと言ってくれる。でも、時々彼女は同時に自分を卑下するのだ。それには不満だった。

ソファに座るわたし達の裏側、窓の外から日差しが差し込んでいる。温かな光が私の背中を温める。わたしは香織のことを、わたしより下だなんて思ったことは一度も無い。

でもきっと、それを口に出して言ったところで、香織の慰めにはならない。そう思って、私は話題を変えた。キャンプの話をしよう。今日の夕飯のことを。焚き火を起こす楽しさのことを。あの冷たく静かな暗闇のことを。

各駅停車は間もなく目的の駅に到着した。

 

 

 

森の木々の間を縫って、夜の帳が広がっていった。光を奪われた空気は瞬く間に冷え込んでいく。わたし達が外でこうして話していられるのは、焚き火の熱を浴びているからだ。

香織の短めに揃えた髪の毛が、風に吹かれて揺れている。

香織は、いつからわたしを見つめていたのだろう。わたしの振る舞いの、何が妹の気に留まったのだろうか。

違う。そんなことじゃないのは判っている。

香織の表情は、今まで見たことが無いくらい真剣で、切実だった。香織の顔の右半分は焚き火に照らされて橙色に光っている。それだけに、影になった左半分が、無性に怖く思えた。

また風が吹く。剥き出しの頬が刺すように冷たい。でも香織は動かない。わたしをじっと見ている。わたしも動けなかった。

「どうしたの、香織」

わたしは努めて明るくそう言った。香織の目を真っ直ぐ見られなくて、焚き火の方に顔を向けながら。我ながら不誠実な対応だと思う。

「わたしね、お姉ちゃんと、二人きりで話したいと思ってたんだ」

「そんなの、家でもよく二人になってるじゃん。お父さんもお母さんも、帰ってくるの遅いから」

「そうじゃなくって」

香織が焦れたように首を振る。わかってる。香織は「ここ」でわたしと話したかったんだよね。

「まあ、落ち着きなよ。ココア飲んで」

それでも私はまたその場凌ぎに言葉を紡ぐ。視界の端で、香織が素直にココアに口を付けた。

時間を稼いでいる内に、次第に動揺は収まってきた。焚き火が心をリラックスさせると、どこかで聞いたことがある。目の前で爆ぜる赤い炎の存在は、確かにわたしを安心させてくれる。焚き火はまだ燃えている。

香織がカップをテーブルに戻す。私もそこでやっと、彼女の方を向くことができた。

カップに指をかけながら、香織はゆっくりと話し始めた。

「わたしはね。お姉ちゃんが好きなんだ。勉強が出来て、友達が多くて、優しくて。いつもわたしの手を引いてくれて、一緒に歩いてくれる。わたしの悩みを聞いてくれる。……わたしの、自慢のお姉ちゃんだよ」

「……ありがとう」

わたしはどう言って良いか分からなくなって、ただそう返した。香織の言葉は、静かなこの世界で、どこまでも真っ直ぐだ。焚き火の爆ぜる音すら、今は息を潜めているようだった。

「お姉ちゃんが一人でキャンプに行くって言った時は、ちょっと驚いたけど、良いことだって思った。お姉ちゃん、昔から一人で遊ぶってこと、殆ど無かったから」

そうだったかな、なんてとぼけた言葉は、口に出す前に舌の上で擦れて溶けた。

「でもね。キャンプに行く時のお姉ちゃん、全然嬉しそうじゃない。行ってきますってわたしに言う時、笑ってるんだけど、笑ってるように見えないんだよ。ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、なんでここに来るの。何か、理由があるんじゃないの。わたしに教えてよ」

 

わたしは、純粋に驚いていた。キャンプに行く時の顔なんて、意識したことも無い。産まれた時からずっとわたしを見てきた香織だから、わたしの笑顔の中の違和感なんてものに気付けたのだろう。

香織は、さっきと同じ真剣な顔でわたしの答えを待っている。

でも、わたしはそんな問いへの答えを持ってなんかいない。

「わたしは……ただ、たまには一人で遊ぶのも良いかなって、キャンプを始めただけで……。ごめん、でも本当に、それだけ。心配しないで。わたしは大丈夫だから」

本心からのわたしの言葉が、なんでこんなにも空っぽに響くのだろう。無性に香織に対して申し訳なく感じた。

わたしは手持ち無沙汰に感じて、テーブルの上のカップに手を伸ばした。金属の取っ手に触れた瞬間、冷たさが指に伝わった。焚き火からの熱が届いていないのだ。焚き火は先程までに比べ、火の勢いが目に見えて衰えてきている。

「そろそろ焚き火が消えるよ。テントに入らなきゃ」

いたたまれなくなって、わたしは強引に話題を変えようとした。

「お姉ちゃん!」

香織が滅多に出さないような大声を上げる。違う。逃げているんじゃない。わたしには、香織の考えているような隠し事なんて無い。それだけ。

「何か悩みがあるなら、わたしに話してよ。わたし、お姉ちゃんにもらってばっかりで……お姉ちゃんから相談されたことなんて一度も無いよ。ねえお姉ちゃん、」

一体、何を怖がってるの。香織はそう言った。

わたしに悩みなんて無いんだ。本当に何も無いのに。じゃあ、香織の目に映ったのは誰だ。怖がっているのは誰なんだ。そんなのわたしじゃない。

頭痛がする。煙を吸い込みすぎてしまったみたいだ。

わたしはまた香織の顔が見られなくなって、ただずっと焚き火を見ていた。薪は殆ど燃え尽き、火はいよいよ弱まってきている。カップのココアもとっくに冷め切ってしまった。

わたしはなんでキャンプに行きたいと思ったんだっけ。それは、一人で遊ぶため。じゃあ、どうして一人になりたいんだっけ。わからない。香織の方が、よっぽどわたしのことを知っているのかもしれない。

このまま火が消えることが怖いだなんて、思ったのはこの時が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下は改稿前の文章です。一度公開したもののため、一応載せておきます)

 

 

焚き火に投げ込まれた枯れ枝は、炎に当てられた途端に呆気なく燃えた。薪が入ったことで、火はこれまで以上に高く躍り上がる。顔を焦がす熱を感じて、わたしは椅子を少しだけ引いた。

「薪、もう無くなっちゃったけど」

「良いんだよ。これ以上燃やしたら、寝る前に消えなくなるから」

軍手を外してテーブルの上に置いた。アルミの小さなテーブルの上には、カップが二つ並んでいる。一つがわたしので、もう一つが香織の。さっき入れたばかりのココアが、十月の夜風に当てられて柔らかな湯気を出していた。

森の奥の方で音がしたような気がして、カップに口を付けながら目だけで辺りを見回す。勿論人間が出した音じゃない。風の音でなければ、きっと狸か狐の足音だ。ここらにはよく獣が下りてくる。

火がますます勢いを増してきた。わたしはもう何センチかだけ椅子を焚き火から遠ざけて、再びカップをテーブルに置いた。ふと見ると、反対側のカップのココアが全然減っていない。

「香織も早くココア飲んじゃいなよ。冷める前に」

わたしは顔を右に向ける。

そこで、香織と目が合った。

 

 

日本に住む人間の約十人に一人が東京に居るというのは、統計上の事実だ。しかし、生まれた時からこの街に居るわたしにとっては、世の中の人間の十人に九人くらいが東京人だった。

都会に住むことを息苦しいと感じたことは無い。都会の人間が冷たいだなんて、誰が言いふらしたことなのか知らないが、少なくともわたしの周りの人は温かかった。わたしの話を聞いてくれる。わたしと一緒に話してくれる。私のことを好きでいてくれている。だから友達と遊ぶのは好きだ。何でもない日常というのを、わたしはきっと、人並み以上には楽しめている。

でも、それはそれ。高校二年生には、たまに一人になりたい時もある。そんな時私は、一人でキャンプに行く。あまり人気の無いキャンプ場の奥の奥、誰も寄り付かないような場所で一晩を過ごすのは、私の密かな趣味だった。

だから、妹の香織に「わたしもキャンプに連れて行って」とせがまれた時に、咄嗟に嫌な顔をしてしまったのも仕方の無いことだと思う。

確かにわたしの持ってるテントは大きめだから、香織が入っても余裕がある。けれど、寝袋は一つしかないのだ。秋の夜は冷えるからと止めたが、それでも香織はキャンプに付いていきたがった。可愛い妹の頼みを断りきれなかったわたしは結局、寝る時になったら寝袋は香織に譲ることをひそかに決めて、香織と一緒にキャンプ場に出かけることにした。

いつものキャンプ場までは電車で移動する。原付くらいしか免許の取れない高校二年生にとって、キャンプの最大の障害は移動だ。原付の免許は、危ないからと言ってお母さんが取らせてくれなかった。

急行に揺られること二十分、乗り換えのためにわたし達は一旦駅のホームに下りた。ここからは各駅停車で最寄り駅へ向かう。

「この辺になると、結構田舎なんだね」

「そういうこと、あんまり言わない方が良いよ」

都会人は冷たい、という話ではないが、都心に住むわたし達が「田舎」と口に出して言うのは、やはり何となく躊躇われた。

とはいえ、塗装が剥げ錆びた鉄骨の柱、ホームの中頃にぽつんと置かれた売店、エスカレータの無い歩道橋じみた階段などは、確かに都会とは違う空気を形作っている。

「田舎は駄目なの。じゃあ、自然が豊かだね。森とか畑とか」

「畑は自然じゃないでしょ」

「自然だよ。だって植物じゃん」

香織は手を口に当てて笑った。この、喉の奥から鳴るような香織の笑い声がわたしは好きだ。わたしにはどうだって良いようなことでも、香織が笑うと、わたしまで笑えてくるのだから不思議だ。

 

各駅停車に乗る人はいよいよ少なく、わたし達の向かいの座席に至っては、誰も座っていなかった。二人で家に居る時みたいな気分になって、わたし達はまたどうでも良いことを喋って、笑った。

「お姉ちゃん、今回の期末どうだった」

「まあまあかな」

「クラスで何番だったの。お姉ちゃんのとこ、順位貼り出されるんだよね」

「そんなでもないよ。四番」

「何人中の」

「四十一人」

「凄いじゃん!」

香織は自分のことのように喜んでくれた。香織の成績だって、平均よりずっと良いだろうに。香織はいつもわたしを凄いと言う。わたしを自慢の姉だと言う。わたしを憧れてくれるんだ。それがいつもくすぐったくて、いつも嬉しい。

 

 

秋の森の奥へ、夜は突然に訪れる。光を失った空気は瞬く間に冷え込み、風が木々の間を抜けて吹く。わたし達が外でこうして話していられるのは、焚き火が燃えているからだ。

香織は、いつからわたしを見つめていたのだろう。わたしの動きに、何か面白いところでもあったのか。

いや、違う。そういうことじゃないのは判っている。香織の表情は、今まで見たことが無いくらい真剣で、切実だった。香織の顔の右半分は焚き火に照らされて橙色に光っている。それだけに、影になった左半分が、無性に怖く思えた。

「どうしたの、香織」

わたしは努めて明るくそう言う。香織の目を真っ直ぐ見られなくて、焚き火の方に顔を向けながら。我ながら不誠実な対応だと思った。

「わたしね、お姉ちゃんと、二人きりで話したいと思ってたんだ」

「そんなの、家でもよく二人になってるじゃん。お父さんもお母さんも、帰ってくるの遅いから」

「そうじゃなくって」

香織が焦れたように首を振る。わかってる。香織は「ここ」でわたしと話したかったのだ。

「まあ、落ち着きなよ。ココア飲んで」

それでも私はまたその場凌ぎに言葉を紡ぐ。香織は素直にココアに口を付けた。

時間を稼いでいる内に、次第にわたしは落ち着きを取り戻していた。香織が強引にキャンプに付いて行きたがった意味も、今なら何となく判る。

香織がカップを置く。ここにきて私も彼女の方を向いた。

香織はカップに指をかけながら、ゆっくりと話し始める。

「わたしはね。お姉ちゃんが好きなんだ。勉強が出来て、友達が多くて、優しくて。いつもわたしの手を引いてくれて、一緒に歩いてくれる。わたしの悩みを聞いてくれる。……わたしの、自慢のお姉ちゃんだよ」

「……ありがとう」

わたしはどう言って良いか分からなくなって、ただそう返した。香織の言葉は、静かなこの世界で、どこまでも真っ直ぐだ。焚き火の爆ぜる音すら、今は息を潜めているようだった。

「お姉ちゃんが一人でキャンプに行くって言った時は、ちょっと驚いたけど、良いことだって思った。お姉ちゃん、昔から一人で遊ぶってこと、殆ど無かったから」

そうだったかな、なんて誤魔化しの言葉は、口に出す前に舌の上で擦れて溶けた。

「でもね。キャンプに行く時のお姉ちゃん、全然嬉しそうじゃない。行ってきますってわたしに言う時、笑ってるんだけど、笑ってなくて、何か、怖がってるみたいな……そんな顔してる。ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、なんでここに来るの。何か、理由があるんじゃないの」

 

わたしは、純粋に驚いていた。キャンプに行く時の顔なんて、意識したことも無い。香織は、産まれてからずっとわたしのことを見てきたんだろう。そんな香織だから、わたしの笑顔の中の違和感なんてものに気付けたに違いない。

香織は、さっきと同じ真剣な顔でわたしの答えを待っている。

でも、わたしはそんな問いへの答えを持ってなんかいない。

「わたしは……ただ、たまには一人で遊ぶのも良いかなって、キャンプを始めただけで……。ごめん、でも本当に、それだけ。心配しないで。わたしは大丈夫だから」

本心からのわたしの言葉は、なんでこんなにも空っぽに響くのだろう。無性に香織に対して申し訳なく感じた。

わたしは手持ちぶさたになって、テーブルの上のカップに手を伸ばした。金属の取っ手に触れた瞬間、冷たさが指に伝わった。焚き火を見ると、先程に比べ、火の勢いが目に見えて衰えている。

「そろそろ焚き火が消えるよ。テントに入らなきゃ」

「お姉ちゃん!」

香織が滅多に出さないような大声を上げた。違う。逃げているんじゃない。わたしには、香織の考えているような隠し事なんて無い。それだけ。

「何か悩みがあるなら、わたしに話してよ。わたし、お姉ちゃんから相談されたことないよ。わたしは……」

わたしに悩みなんて無い。本当に何も無いのに。香織の目に映ったのは誰なんだ。誰が怖がっている。そんなのわたしじゃない。

わたしはまた香織の顔が見られなくなって、ただずっと焚き火を見ていた。薪は殆ど燃え尽き、火はいよいよ弱まってきている。

きっとわたしは、香織が変なことを言ったせいで気が動転してしまったのだろう。そうに違いない。

だって、このまま火が消えるのが怖いだなんて、今まで思ったことが無いのだから。

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https://anqou.net/poc/2018/12/14/post-2405/ https://anqou.net/poc/2018/12/14/post-2405/#comments Fri, 14 Dec 2018 14:59:06 +0000 https://anqou.net/poc/?p=2405 名無しのNemoです。いまカリフォルニアは12月14日12:38ですね。
本編とは全く関係ありません。
 
 
 
 穴に落ちていた。

12月1日 天気:穴
 ぼくは見上げてからようやくそのことに気がついた。随分と高くから音がするとは思っていたが。穴の中ではそれもうまく聞き取れない。いま思うとここは真っ暗闇だ。自らの手の輪郭さえも掴みきれないほどに。いつ落ちたのかは定かではない。このじめじめとした穴蔵でずっと生きてきたのだろうか。手を伸ばせば両手が壁につく狭っ苦しい穴。
落ちた覚えはない。痛みはなかった。

12月8日 天気:穴
 気づけば毎日のように上を見上げていた。穴は深いようにも浅いようにも思える。穴を埋めようと試みた。地上が遠くなったように感じられた。壁を掘ってみた。爪に土が詰まった。音が近づいては遠のいていく。人が落ちてきたりしないだろうか?
怖いような嬉しいような。

12月10日 天気:穴
 壁の向こうからかすかに声が聞こえることに気がついた。いま無我夢中で掘っている。爪が剥がれたが構うものか。痛みはないようだし。
それほど穴の外に出たいわけじゃない。孤独なわけでもない。それでも仲間はいたほうがいいというものだ。

12月11日 天気:穴
 そこには大きな空間が広がっていた。大勢の人が住んでいるようだ。凸凹とした地形にそれぞれの見た目をした人。仲間はいるのだろうか。天井である岩盤には無数の穴。だれも気にも留めやしないようだった。

12月14日 天気:雨
 あれ以来向こうへは行っていない。気づいたら見上げることもやめてしまっていた。
ほんの少しの痛みがある。

X月X日 天気:晴
 比較的深い穴の中で手稿を拾った。泥や血で汚れているが読み書きはできそうだ。ぱらぱらとページをめくると後半になるにつれ文章が短くなっているのがわかる。私はこれに今日の日付を書きなぐった。
そしてそれを胸ポケットにしまい穴から出た。

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