評論 | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc Chaos is not kaos. Sat, 21 Jul 2018 13:45:10 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.1.1 https://anqou.net/poc/wp-content/uploads/2018/02/9dc10fe231765649c0d3216056190a75-100x100.png 評論 | カオスの坩堝 https://anqou.net/poc 32 32 「逆さ井の中の蛙」あるいは手を繋ぎ一緒にゴール https://anqou.net/poc/2018/07/21/post-1674/ https://anqou.net/poc/2018/07/21/post-1674/#comments Sat, 21 Jul 2018 13:45:10 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1674 torikori です。 試験前で忙しいはずなのに、こんなときに限って文章を書いてしまう愚か者です。

さて、ついつい覗いてしまう、奇妙な仮想空間Twitter。そこで、「逆井の中の蛙」という言葉を見かけました。井の中の蛙という慣用句を逆手にとり、「自分は、皆ができることさえできない」などいう状況になっていること、あるいはそう自分で知覚していること、など、さまざまに意図しているようです。
ここでは、「実態以上に過小評価して自分ができないなどと考えること」を以下で「逆さ井の中の蛙」などと呼ぶことにします。あくまで仮ですが。

少なくとも、もちろん、謙遜は必須のものであり、自分を過大評価してしまうのは、事故の元だと考えています。危ない行為をなすほどならなにもせず失敗するほうがまだ結果安全であろう、とさえ思えます。しかしながら、それが、他人の実際にできる能力、努力を妨げていることも散見されます。
例えば、試験前、勉強したらきちんと内容を身につけられるはずなのに、「まわりの強者たちがいるから無理」などとなり、勉強できずになる。ひたすら心の内で罪悪感と苦しむ。そして何も残らない。そのようになっている人々を見ていると、悲しみを抱かずにはいられません。

なぜそうなるのか、その人の性格の問題、そう割り切ってしまう手もあるかもしれません。ただ、もう一つの見方があるかもしれません。そう、強者が存在するからではないのか、怯えさせるような振る舞いをしているからではないか、そう疑問を抱くわけです。
この見方は、教育の現場において実行に移されたのではないでしょうか。そう、「ゆとり教育」です。

ゆとり教育をある種揶揄する字句として、表題にある「かけっこの際、みなで競って一番を目指すものではなく、皆で手をつないでゴールする」という状況がありますが、これこそが求めていたもの、ある意味、そうではないでしょうか。
つまりは、他の人が努力していることをなるべく見せない、見えないようにし、みながそれぞれの目標に向かって努力できる、そういうことです。
他人におびえることもない。強者への質問におびえることもない。「彼すごーい」って褒められて、それで嫉妬することもない。

ほんとうに?「ゆとり教育」の結果待っていたものは、学力低下ではなかったのか、無気力、無関心ではなかったのか。
そもそも、いわゆる「できる人」が周囲を引っ張るからこそ、あるいは助けるからこそ、うまく回っているのではないか。「逆井の中の蛙」とは関係ないのではないか。

ここまで議論を、あるいは主張を書いてしまったうえで恐縮なのですが、実際にどうすべきなのか、筆者にはよくわかりません。そういう見方があった、それなりにそのような考えが普遍なものだった、そういう時代を記憶の片隅に置いていただける、それだけで十分ではないでしょうか。とりもいそぎやるべきこともありますし。

最後に、筆者のちょっとした思い入れを記しておくことにします。
私の知人の大半は、少なくとも私から見ると、そのような他人と競うことに慣れているように見えます。勉強の際、そして試験の際にも、良い成績を取るべく、私とは違い勉学に励んでいるようです。
向上心なんて欠片もない私からすると、彼らの姿勢がうらやましい。私なんかと違い、そのように努力してこられたからこそ、この大学に合格したのかもしれませんけどね。
また、少なくとも私とは違い、少なくとも私ほどには、「逆さ井の中の蛙」自身がなさすぎる状況には陥らず、むしろ他人と高めあうよい点のみを引っ張って、日々を生きておられるように感じます。

私なんかの卑屈な人間とは大違いです。
うらやましい、うらやましいのだけれど、ある種のちょっとした怖さ、あるいは不安。今後、持続するものなのか。皆が心をグダグダに折れてしまうのではないか。狭い了見にて、価値観に染められるのでは、ほんとうに?

それでは、あのかけっこは良いのか、ほんとうに?20年後の子どもたちに向かって、何の自信も持てない私です。

PS. 取り急ぎ、思うところを記してみましたが、まだまだ課題が潜んでいることに気づき、結局何も中身のない記事になってしまいました。試験終了後に追記したり、あるいは別記事を立てられるとよいかもしれない、と感じています。

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勝手に注意喚起: ツイキャスにおける他人の個人情報流出へ留意 https://anqou.net/poc/2018/06/17/post-1624/ https://anqou.net/poc/2018/06/17/post-1624/#comments Sat, 16 Jun 2018 16:19:30 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1624 ツイキャスなる個々人がライブ配信を行えるサービスがある. ここ1週間ほどであろうか、筆者の周辺にて流行りとなっているようである.
しかしながら、筆者はこの傾向に対し、いくらかの懸念を抱いている. その中で、今回は個人情報の保護の観点から少し注意を促したい.

確かに、インターネットやSNS の普及などにより、個人情報の保護に関して、自らの情報を「どこまでを」明らかにすべきか、という問はもはや無意味ではないか、という主張も説得力をもっている.
しかしながら、個々人の選択の自由だとしても、他者に迷惑が生ずるのは問題ではないだろうか. そして、このサービスは、安易に他者に迷惑を生じさせねない構造を抱いているのでなかろうか.

まず、インターネットに投稿すると、不特定多数が閲覧できることを意識すべきでないだろうか. 従って、それぞれの配信にコメントしているのは知人であったとしても、実際に閲覧しているのは見ずしらずの者かもしれない. 更には一週間の間配信された内容は保存され、第三者が閲覧できる点にも留意が必要であろう.
次に、配信という形態そのものの問題として、更に事前の確認がしづらい、という点がある. 動画投稿サービスやマイクロブログサービスなどであれば、投稿前に一旦見返して、問題がある部分を削るなどできるであろうが、瞬時性の強い配信では、そのような行いはできない.
更に、ツイキャスの宿命として、日常に近い形態にて配信が行われやすいという点がある. 日常の会話の際、どこまでが他人の責任で、どこまでが自分の責任か、さほど意識していない人々も多いのではないだろうか. それは会話ではさほど問題にならないとしても、不特定多数の前ではなすべきでない.

さて、いかなる解決策や留意点があるのであろうか.
抜本的な解決策としては、グループキャス機能を用い、いわゆる「内輪」のみで閉じた配信を行なう、というものがあろう.
しかしながら、このような行為がしずらいのであれば、また、自他共に個人情報を流すかどうか、注意して見守るしかないのではないか.
「他人のあだ名、本名」など、会話の最中、不特定多数の閲覧があり得る環境のもとにあって、普段の調子で流さないように気をつけざるをえないではないだろうか. たとえ、気をつけるというのが実行しずらいものであろうとも.

確かにこのようなサービスは楽しいのかもしれない. しかしながら、その前に立ち止まって、自らの振舞いを振りかえることが必要ではないのだろうか. 以上、取り急ぎ失礼.

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30年後のTwitter https://anqou.net/poc/2018/03/25/post-1421/ https://anqou.net/poc/2018/03/25/post-1421/#comments Sun, 25 Mar 2018 13:56:04 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1421 本当は「作曲のススメ」でも書きたかったのだけれど、どうやら他の人とネタが被ってしまいそうなので断念した。知りたい人は吉音の新歓にでも来てね。たぶん僕は殆ど居られないだろうけど。

僕が今日書く内容というのはとてもシンプルで、たぶん皆が思っていることだろう。我々デジタル・ネイティヴ世代が大人になったらいったいどんな世界になるのだろう。

今や若者の大多数がSNSを利用している。これが何を意味するかというと、Twitter社やFacebook社といった企業が倒産しない限り、我々はたとえ30年後でも友人たちと気軽に連絡が取りあえるということだ。

僕たちはそれまでにSNSをやめているのだろうか。就職をきっかけに? 結婚をきっかけに? どうにもそんな気がしない。それどころか、これから先もずっとやり続ける可能性だってある。朝起きたら「ぽきた」、昼休み中にソシャゲのガチャ爆死報告、帰ったらひたすら意味のないことを呟き、寝るときには「ぽやしみ」、そんな生活がずっと、これから先何十年と続くかもしれない。たとえTwitterでなくなったとしても、喋る相手が変わったとしても。

僕はこの「SNS」こそが、インターネットが人類にもたらした最大の変化であると考える。

人はコミュニティを欲するものだ。簡単に言うと、自分の居心地のいいグループに属そうとする。それこそ大学のサークルや、会社帰りの飲み会のようなものである。しかしSNSの登場により、これらコミュニティの存在価値は薄まりつつある。別に大学でサークルに入らなくたって、同じ趣味の人はインターネット上にごまんと居るわけだし、承認欲求も簡単に満たされる。わざわざ同じ会社の人といかなくても、SNSで簡単に連絡を取り合い気の合う友人たちと飲みに行けばいい。

SNSはコミュニティを作る。それも、自分の居心地の良いコミュニティを見つけるのが極めて簡単だ。僕たちはこの快適でクローズドな空間で一生を過ごすかもしれない。そしてそれは、もちろん良いこととは限らない。

最近電車内で、父親と母親がひたすら無言でスマホを触っている親子連れをよく見かける。子供はどう思っているのだろうか。SNSは快適なコミュニティを提供するけれど、それと同時に、旧来のつながり、家族、同僚、隣人といったものまで破壊する。新しい時代のあり方と言われればそれまでなのだが、僕にはそれが良いのかどうか分からない。

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コンピュータを使うのか、コンピュータに使われるのか https://anqou.net/poc/2018/02/21/post-1134/ https://anqou.net/poc/2018/02/21/post-1134/#comments Wed, 21 Feb 2018 13:20:18 +0000 https://anqou.net/poc/?p=1134 人工知能をもてはやすようになって、随分と時間が経ちました。「コンピュータがいつか人間を支配する」だの「人間を滅ぼす」だのという文言を見たことがある人も多いことでしょう。

ところで、「コンピュータがいつか人間を……」という言葉が流行るということは、少なくとも現時点では、我々はコンピュータに支配されていないことになります ――本当にそうでしょうか。本当に我々はコンピュータに支配されていないと言い切れるでしょうか?

何も私は「ヘッドフォンアクター」の世界をなぞろうとしているわけではありません。もっと具体的で身近な話です。皆さんのパソコンの中にもきっと入っているようなソフトウェア――ワードの話なのです。

ワード――正しくはMicrosoft Office Word――は、おそらく世界で一番使用されている文書作成ソフトです。現代の、特に比較的若い世代において、ワードを使ったことがない人というのは少数でしょう。そのワードに、我々は支配されていると言えないでしょうか。

言い換えましょう。コンピュータで何か文書を書かねばならなくなったとき、あなたはどうしますか。

おそらく大多数の人が「ワードを使う」と答えるでしょう。そして、このことを私は問題視したいのです。何かを行いたい時に、たった一つの道具しか持ち合わせていない。果たしてこれで「コンピュータを使えている」と言えるでしょうか。むしろ「コンピュータに使われている」のでは無いでしょうか。

例えば、ワードの互換性は貧弱です。自分のパソコンで作った文書が別のパソコンではレイアウトが崩れて表示されたり、同じパソコンでもワードのバージョンを上げるとおかしくなったりすることもあります。

コンピュータを使っている中で、このような不便な事情はよくあることでしょう。その多くは、代替案が無いために生じることではないでしょうか。

これを解決する方法は唯一つ、代替案を探せばよいのです。例えばワードの代替としては、「一太郎」や「Libre Office」、「LaTeX」などがあります。後ろ二つは無料です。もちろんワードとは別のソフトウェアですから少々勝手は違いますが、あなたがやろうとしていた作業をより能率よく行うことができるかもしれません。

実際、互換性を高めるためにワードから「Libre Office」へと移行した JA福岡市会津若松市のような例もあります。

コンピュータに使われるのは、やめにしませんか。

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ボーイズ・ラヴ https://anqou.net/poc/2017/12/20/post-573/ https://anqou.net/poc/2017/12/20/post-573/#comments Wed, 20 Dec 2017 12:00:28 +0000 https://anqou.net/poc/?p=573 この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の20日目の記事です。

 

読まれた方もいらっしゃるとは思いますが、僕は前回の投稿で自分の百合についての思いを述べました。そこで、百合を語っておいてボーイズ・ラヴ、いわゆるBLというやつについて話さないのもどうかと思ったのでこれを書いている次第です。とは言ったものの、僕はふだんから好き好んでBL作品を読んでいるわけでもありませんから、僕の想像で書いてしまう部分もあることをご容赦ください。

 

僕のBL作品へのスタンスとしては、性行為の表現がなく、かつストーリーが良いものであれば読まないこともない、といった具合です。おそらく僕がちゃんと読んだことのある作品はせいぜい2,3でしょう。ただ、BL 作品とはおもしろいもので、やはり女性作家が多いからかストーリー構成が少女漫画チックなものが多いように思われます。だからこそ男性でも読みやすいものは多いと思います。ちなみに百合作品はどうかというと、こちらは男性作家も女性作家もそこそこの数がいます。男性の場合にはやはりなんとなく少年漫画チックなものが多いのですが(BL作品ほど顕著ではありませんが)、女性の場合が面白くて少女漫画とも少年漫画ともとれない第三の道をいくものが多いように思われます。百合の話をしていると際限なく語ってしまいそうなので、BLの方へと話を戻しましょう。さて、先ほどBL作品は少女漫画チックなものが多いと書きましたが、これは賛同を得られる方が多いのではないでしょうか。同性愛を扱う作品ではネコとタチ、わかりやすく言えば受けと攻めは割と重要であったりします。僕のように百合を愛する人からすれば受け攻めが入れ替わることに抵抗をもつ人は少ないと思います。しかし、BLを愛する女性たち、腐女子たちの間では日夜受け攻め論争が交わされているそうです。彼女らの中では、誰が受けで誰が攻めだということが確立されているのでしょう。そしてそれが少女漫画のような展開を生み出すファクターとなっているように思われます。

 

ところで、今でこそBL作品は女性がその客層のメインとなっているようですが、もともとは男性が好むものであったとどこかで見たことがあります。これはしかし考えてみれば当然のことかもしれません。男女の恋愛物語は、男女の恋愛に興味のある人たちが楽しんでいるのだから、男の同性愛を扱う作品もやはり男の同性愛に興味のある人たちが、つまりそういう男性たちが楽しんでいたとしてもそれほどおかしなことはないでしょう。なにせ戦国武将の中には男色を好む者も多数いたそうですし。そしてこれは百合についても同様でしょう。

 

こうして百合とBLについて話してきたわけですが、昨今同性愛を認める流れがなくはないというような世の中にはなってきたものの、やはりそれらを扱う作品を殊更に好く人というのは少し異質なだとされているようにも思われます。自分の知らない領域というのはそれだけで怖いと感じる理由になりえますから仕方のないことかもしれませんが。しかし、ネットなどを見ていると百合好きな人たちよりも腐女子の方が危険視(?)されているようです。これはどうしてでしょうか。

僕は、これは腐女子の特性にあるのではないかと考えています。彼女らの想像力はすさまじいものです。これは比較的有名な話ですが、たとえば、あなたは床と天井を見て何を感じ取るでしょうか。多くの人は、感じ取るものなどないしただそこに床と天井があるだけだ、と思うでしょう。僕もそうです。しかし彼女らは、24時間見つめあう関係でありながら決して近づくことのできない床と天井にあはれを感じるのだそうです。もちろん全員が全員そのような人たちではないでしょうが、ついてしまったイメージというのはなかなか払拭されるものではないでしょう。これを織姫と彦星の話だと思えばロマンチックにもなるのでしょうが、この腐女子の脅威の想像力、妄想力が他者から敬遠される理由なのかもしれません。ただ、僕はそういう妄想は面白いと思うので腐女子の友だちがほしいと考えているのですが、身近で腐女子と会えることもないので難しいですね。

 

さて、取り留めのない話になってしまってオチも思いつかないのですが、今回は前のようにオススメのBL作品などもないので作品紹介をしてうやむやにすることもできません。しかしまあ、僕の文章を読んで百合やBLへの抵抗が弱くなって手を出してみようと思う人がいるならば喜ばしいことですね。ジャンルで好き嫌いを分けていては本当に素晴らしい作品との出会いをなくしてしまうことになるでしょうから。

 

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の20日目の記事でした。ばーたーが担当しました。21日目はイオ担当の予定です。

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遅すぎた激励 https://anqou.net/poc/2017/12/19/post-542/ https://anqou.net/poc/2017/12/19/post-542/#comments Tue, 19 Dec 2017 14:43:53 +0000 https://anqou.net/poc/?p=542 この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calender 2017」の18日目の記事です。

 私はマゾヒストだ。ことを成すにはただでは済ましたく無い。完了したはい終わりでは気が満たされないのだ。その一端が効率主義的な性格に顕著にあらわれている。とはいえ単なる効率主義ではなかろう。なぜなら最も追求するものは時間対効果でも労働対効果でもない。求めるべきはタスク対効果だ。或るタスクをこなす中でどれだけ多くを得るか。私は斯くなる理想を極めるには労力を惜しまない。自らを追い込んででも労力をつぎ込めばよい。マゾヒストと言うよりはむしろ自分に厳しくありたいといったところか。

 タスクを多くこなし得るものは多ければ多いほど良いに決まっている。然れども人間は生物であるからそこには限界がある。中でも最も見過ごせない限界が時間である。人間は生物であるからいつか死を迎える。それまでにできるタスクには限りがある。よって人間はその一生のなかで上手くタスクをこなし多くのことを得る要領を持たねばならない。これこそが私の効率主義の真価である。

これが受験の話になると効率主義は絶大な力を発揮する。効率主義は受験のためにあると言っても過言ではないくらいに。なんてったって受験とは限られた時間で学を詰め込む競技である。効率を考えずして受験に挑むなど愚行に他ならない。

今回は大学受験を控えた皆さんのため私の効率主義的なアドバイスを授けようというわけである。言うまでもないがこの理論を裏付けるものは私の経験しか無い。受験で何より大事なのは自己分析の力だ。これを参考にするときも自分に合った勉強法に改善してほしい。

そもそもの話ではあるが得意科目というのはいくつ必要だろうか。世間一般ではひとつ得意科目があれば武器になると言われるが私はそうは思わない。苦手科目で打ち消されるからだ。本当に頭ひとつ抜きん出るためには得意科目は複数必要だ。これなら点が取れない科目が多少あってもアドバンテージは維持できる。よって今ひとつ伸びが出なくて喘いでいる受験生諸君は苦手を潰すよりは得意を増やしてほしい。その方が精神的にも楽だし確実性も高いだろう。

私の場合は英語と化学の二刀流で受験に挑んだ。すると本番で苦手だった数学でやらかしてしまい心を滅多打ちにされた。ところが翌日の英語と理科で覇気を纏った私は見事に形勢を逆転し合格を掴んだのである。このように二刀流のメリットは尋常ではないと分かっていただけただろうか。やらかしている以上あまり喜ばしくはない記憶ではあるのだが。

では私がいかに二刀流を成し遂げたのか具体的な話をしよう。逆に言うと今回は英語と理科以外はアドバイスができない。申し訳ないことだが粗悪なアドバイスを入れ知恵させられるよりはマシだと思って聞いてほしい。

英語については文法より尊いものは無い。単語より文法である。単語など最低限の知識さえあれば文脈で読み取っていける。事実私はそうしてやり繰りしてきた。もちろん単語を覚えないよりは覚えた方がいいに決まっている。しかし文法が無くては英語と日本語を行き来する間にカオスが生じるだろう。例えて言えば単語は英語島と日本語島を結ぶ船であり文法は航海図である。航海図も無しに船を出せば行き着く先は全く定まらない。文法を蔑ろにするのがどれほど危険であるか今一度気づいてほしい。

文法が大事というのは和文英訳でも英文和訳でも共通する話である。和文英訳においては筆者の論を構造的に捉える必要がありそれには文法が役立つ。英文和訳においてもまず文法で骨組みを編んでから単語の肉をつけていくのである。文法とは英語の生死を分かつ存在と言っても過言ではない。

理科について話そう。理科はとにかく演習と考える人は多いと思うがそれは安直である。案外忘れられがちなのが知識や原理である。出来ない問題に出くわしたとき解答を見て解法だけ暗記しようとする人がいる。これほど本末転倒した勉強は無い。そもそも受験という世界で同じ問題が2つとあるだろうか。それに問題はいくらでも複雑に応用できる。解法は丸暗記しときましたとぬかす付け焼刃は門前払いに違いない。応用に太刀打ちするには知識と原理を身につけねばならない。理科という科目はそれほど根が深いのだ。

具体的な勉強指針を話すとまずは暗記と簡単な演習で基礎を固め受験直前に過去問を繰り返し解いた。大事なのは徐々に難度を上げていくこと。見栄を張って難しい問題に挑んでもそのレベルに届かなければ何の成果も得られない。もしこの時期に理科で藁にもすがる思いをしている人がいるならとにかく原理を覚えよう。原理が分かれば解法も深いところまで考察できるようになる。それが応用につながり得点にもつながるはずだ。

以上が私の効率主義的な受験の理論である。何度も言うが自己分析こそ最優先の課題であり私の経験をそのまま模倣すればいいわけでは決して無い。正直なところ参考程度にとどめてほしい。余程の秀才でない限りこんな直前になって断捨離をしたところでたいして変わらないと思う。受験を間近に控えている諸君は真似をするなら覚悟して真似してほしい。少なくとも役に立てたなら嬉しいことである。

最後にひとつ。この文章は「、」を使わず書いたのだがお気付きだろうか?もちろん受験生諸君が「点をとる」ための願掛けである。

あまみるきー

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の18日目の記事でした。あまみるきー が担当しました。19日目はfeele担当の予定です。

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わたしのこうふくろん https://anqou.net/poc/2017/12/14/post-388/ https://anqou.net/poc/2017/12/14/post-388/#comments Wed, 13 Dec 2017 15:00:25 +0000 https://anqou.net/poc/?p=388  

こんなことを考えてみてください。

 

聡明であった青年が、ある日事故に遭い、脳に障害を負ってしまいました。親類の介護により彼が望むことはなんでもしてもらえるようになりました。さて、この青年は幸福でしょうか?

 

あなたの答え、そしてなぜそう考えたかを意識した上で続きをお読みください。

 

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の14日目の記事です。

 

 

「あなたは幸せですか?」

 

私は、幸せです。誤解を避けるべく言い直しますが、そう感じる時がしばしばあります。ですが、世には常に自身は不幸だと、あるいは幸せであってはならないと感じ生きている方々が一定数おられます。何故でしょう。無論、そう感じている方々にとっては、人は何が幸せで生きているのだという疑問が生じても何ら不思議ではないと、そうとも思います。さて、今日は幸福について考えてみましょう。

 

簡単な準備

そもそも、何をもって「幸せ」とするべきなのでしょうか。ここで三つの説をご紹介しましょう。

・快楽説 – (身体的のみでなく、精神的なものも含む)快楽の多い人生こそがより幸福な人生である。とする説

・欲求充足説 – 当人が欲求した事態が現実で実現することが幸福である。とする説。ただし、その実現に対し当人が「充足感」を得ている必要は必ずしもない。

・客観的リスト説 – 幸福な人生において得られるべき項目の客観的なリストが措定されているという説。

(デレク・パーフィット「理由と人格」より)

上二つについてもう少しだけ付け加えておきましょう。簡単に纏めるならば、快楽説は「主体的に幸福、すなわち、幸福感があればよい」、欲求充足説は「客観的に幸福であればよい、すなわち、欲求が実現さえされていればよい」ということであります。ここに、欲求充足説ではその欲求の実現を本人が承知している必要は必ずしもないということにご注意ください。

 

さて、冒頭の思考実験に戻ってみましょう。こんなものでした。

聡明であった青年が、ある日事故に遭い、脳に障害を負ってしまいました。親の介護により彼は望むことはなんでもしてもらえるようになりました。さて、この青年は幸福でしょうか?

 

いま、あなたが「快楽説」の立場を取れば彼は幸福であると考えても異論の声はあまり多くないと予想されます。「欲求充足説」の立場を取ればどうでしょう、答えを出すのに非常に悩まれることでしょう。そもそも彼が何を欲求している/していたかが不明であり、事故以前に欲求していたことを事故後も欲求している、とは必ずしも言えないのですから。

 

パーフィットの三つの説の紹介の前に上記の「彼」についての例を考えてもらったのは訳があります。「彼」は不幸であると考えた方、なぜそう考えましたか?事故に遭い脳に障害を負うことは不幸な事であると、そう考えたのではないでしょうか。そこには「客観的リスト説」の立場を取るあなたと、まさにその懸念事項があります。すなわち、「これこそが幸福/不幸である」という考え方の押し付け(父権主義/パターナリズム)が“客観的”でなければならないはずのリストの措定の際に起こりうるということです。

 

で、なに?

―――と、やきもきしている方、関心を抱き読み進めた方(ありがとうございます)、痺れを切らしページを閉じた方等、様々でしょう。ここでやっとですが、私の主張を述べます。

 

「幸福」とは規定“された”ものではなく、規定“する”ものである。

 

これは余談ですが、最近、昔の恋人に「幸せになってね。」と、そんなようなことを言って別れたのを思い出します。しかし今思い返してみればなんと私の傲慢なことでしょう。当時の私は彼女に、私の規定するところである幸せを押し付け、その条件を満たせと、そう言っていたのです。そんなものは彼女の幸せを願った発言などでなく、私のエゴに過ぎなかったのでしょう。

さて、先の私の主張は些末なものに思われるかもしれません。ですが、もう少し考えてみてください。

沢山の種類の武器を選べるゲームをプレイするあなたは何故その武器を選んだのでしょう。

今日、明日、何を着ようか迷った結果選んだ服は何故、その服だったのでしょう。

あなたは、何故、今そのような環境の下で過ごしているのでしょう。

きっと、「この武器を選べ」「この服を着ろ」などと言われたわけではない筈です。

すべてはあなたの選択、つまり、

「こうしたら楽だから」

「こうすると楽しいから」

「こうすると頑張れるから」

「単純にこれがしたかったから」

等々の理由で、あなた自身が選んだのではないでしょうか。すべてを強制させられて生きている方はあまり多くないと存じます。今まで自分のほぼすべてを誰かに強制させられてきた方も、せめて、「何が幸福であるか」くらいは自分で決めようじゃありませんか。

貴方は「幸福感の多さ」を幸福としますか?

「苦痛であっても欲求が実現すること」を幸福としますか?

それとも、「措定された目標を果たすこと」を幸福としますか?

私はせっかくですから、「一番自分が幸福になれる」よう、自分自身にとっての幸福を決めようと、そう思います。

 

最後に一つ、ここまで読んでくださった貴方に質問を。

 

「あなたは幸せですか?」

 

 

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の14日目の記事でした。すぺくたが担当しました。15日目はwottoさん担当の予定です。

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lily blossom https://anqou.net/poc/2017/12/07/lily-blossom/ https://anqou.net/poc/2017/12/07/lily-blossom/#comments Thu, 07 Dec 2017 11:58:13 +0000 https://anqou.net/poc/?p=200 ユリ(百合)は、ユリ目ユリ科のうち主としてユリ属(学名:Lilium)の多年草の総称である。属名の Lilium はラテン語でユリの意。(Wikipedia参照)

なんつって。

百合(ゆり)とは、神が人類に与えたもうた至高にして究極の愛の形。それはつまり普遍の真理であり、生命あるもの全てが目指すべき不変の未来である。神の暖かな優しさに満ち溢れた百合は、その愛を育むものたちだけでなく、単なる傍観者にさえ無上の幸福と安らぎをもたらす。漢字一文字で書くと「𠷡」。(アンサイクロペディア参照)

百合は良い。女の子同士特有の柔らかさと鋭さとを併せ持つ百合はアンサイクロペディアにも書かれている通り究極の愛の形である。バカみたいにも思えるが、アンサイクロペディアの文章は我々百合豚の気持ちを漏れなく言い表しているようである。

ところで、これは高校同期の数人には話したことではあるが、百合豚なら百合とレズという言葉の違いについて考えたことはなかろうか。

百合とレズ。これを聞くと大差はないように思う。実際、ふだん生活するうえではその違いなど考えることもないだろう。きっと女性同士での同性愛を表す単語だと言う人が多いと思う。
しかし、我々百合豚にとってはこの二者には大きな違いがある。百合を楽しみたい百合豚からすれば、百合とレズとを確実に分けておかねばならない。今回はこの違いについて話そう。

違いといっても、両者に確実な定義があるわけでもない。これは百合豚個人個人によって変わるものなのだ。ある者はキスをしてしまったらレズだと言い、またある者は性行為がなければ百合だと言う。なるほど確かに肉体的な干渉を境に百合とレズとを分けるのはわからなくもない。ただ、私の考える百合とレズの境は”お互いを心の底から思い合っているかどうか”に尽きる。つまるところ愛あるセックスならば百合ということだ。

昨今、百合を扱う作品は商業誌にせよ同人誌にせよたくさんある。たくさんあるが故に、僕にとってのレズ作品が百合ジャンルに紛れてきてしまう。それは特に同人誌において多発する。同人誌というとやはり「薄い本」というだけあって展開が早いものが多いのだ。キャラ同士の心情描写もそこそこに2人に性行為をさせるものは少なくない。しかし我々百合豚は性行為をメインに見たいのではない、百合が見たいのだ。性行為ばかりを主とする作品は、もはや百合ではない。作者はきっと女性の身体が好きなだけなのだ。男女の性行為から男を排除したいだけに過ぎないのだ。

ここまでくればなんとなくは私の言う百合とレズの境をわかってもらえるかと思う。私は女の子同士の深い愛情を見たいのだ。女の子ならではのいざこざやもつれを見たいのだ。語彙を失ってしまうような「ああ、この百合は良い……」と思えるような百合を見たいのだ。そしてその延長としての性行為ならばそれは百合なのだ。

とまあ、気持ち悪い文章になってしまったが、こんなことを考えているのは少数だと思うのでこれを読んで百合作品を敬遠しないでほしい。百合は普遍的に良いものであり我々の生活に癒しと光をもたらしてくれるものだ。
最後ではあるが、私はみんなに良い百合作品を読んでもらいたい。そこで、今まで読んできた中でおすすめの作品を紹介して締めとしよう。

まずは、『やがて君になる』。”好き”を知らない少女と”好き”を拒む少女との恋愛とも言いがたいなにかを描いた作品。ヒロインからでさえも好きを拒む少女がしかしヒロインには好きを伝え、好きを知らないヒロインが好きを知っていってしまうもどかしさを楽しんでほしい。

もう一つは『2DK、Gペン、目覚まし時計。』。社会人百合。尊い。コメディー、シリアス、百合要素のバランスが抜群。百合作品を読んだことがない人でもとっつきやすい作品である。

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