周りにあって、私にないもの

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の6日目の記事です。

 私が京都大学に入学してもう8ヶ月近く経った。大学では友人に恵まれ、ひょっとすると高校の時よりも多いとも思えるほど友達と接する時間が増えた。一口に友達と言っても様々だ。tdjを筆頭とし、ゲーム仲間、軽音関連、同僚P、勉強会メンバーなど、本当に多種多様な集合から成り立っている。そして何より、彼らには何か尖った個性を持っている、つまり、ただ情報学科に受かるための最低限の学力があるだけではないのだ。抜きん出た数学力を持つ数強共、息をするようにプログラミングをするプロ達、高クオリティな作品を作る芸術家など、軽く思い浮かべるだけでも長所ばかりが出てくる。京都大学に来るにあたり、こうしたハラスメントは多少なりとも想定はしていたが、その心構えがあってもやはり辛いものがある。

 そして彼らのことを考えるたび、ついこう思ってしまう。私は京都大学に来て本当に良かったのだろうか、と。

 嫌な言い方になってしまうが、私はたしかに受験で合格した。情報学科の最低点を超えた。故にここにいる権利は間違いなくある。採点ミスでもない限り、私は情報学科に入学する権利をまごうことなく自分の力で得たのだ。そうでなければ私は今こうしてこのような文章を書いていないだろう。だが、私がここにいる意義は一体何だろうか。ここで学ぶことは、本当にここでしか学ぶことができないのだろうか。他の大学、学部、学科の方が私の身の丈にあっているのではないだろうか。私ごときがこの大学で学ぶことになんの意味があるのか、と。こう思ってしまうのだ。

 一方、友人たちはこの京都大学に相応しい人材であると私は胸を張って言える。彼らはこの大学の授業でとても多くのことを学んでいる。私と同じ生徒であるにも関わらず、彼らから学ぶことが数多くある。多すぎて殆どを取りこぼしてしまうほどにはたくさんある。そして、それに対して私は少なからず劣等感を感じてしまう。

 卑屈な考えで申し訳ないが、こんな彼らに対し私が誇れるのは高校からの惰性で続けてきたベースぐらいだ。しかし、今やそれに関しても週に1度弾けばいい方で、サークルに顔を出した回数などもはや両手で数えられるほどだ。さらに、当然音楽関連に関しても私より優れた友人がたくさんいる。コード進行すらまともに学ばなかった私に勝ち目はない。それどころか友人がその話をしていても、そこには話についていけない惨めな私がいるだけだ。

 私には友人らが皆輝いて見える。下宿している友人の多くは私と違い、サークルやバイトに十分な熱を入れている。情報学科らしいことを自主的に学んでいる。通いの友人でもバイトに精を出したり、自主ゼミに参加したりと、有益なことをして日々を過ごしている。私はやはりそんな彼らが輝いて見える。充実した人生を謳歌しているように見える。隣の芝は青く見えるということなのかもしれないが、実際に出ている成果や実績を見る限り、やはり私の主観性によるだけではないように思える。

 そして、私はこう思ってしまう。いったい彼らと私とに何の違いがあるのだろうか、と。「周りにあって、私にないもの」はいったいなんだろうか、と。

 その答えはすぐに思い浮かんだ。積極性だ。彼らに共通する性質として、思い立った考えをすぐに行動に移すことがある。

 授業中に面白い話を聞けばすぐにそれを実装しようとする人がいる。授業でわからないことを自分で調べ、また勉強会を開く人がいる。イベントごとを全力で楽しみ、また回りも楽しませる人がいる。私はこういった積極性を持っていないので、どうしてそんなことをするのか、それほど勉強が楽しいのか、とつい思ってしまう。そして、やはりそれこそが私と彼らの決定的な違いではないだろうか。

 私にもプログラミングをやろうと思ったことがある。けれども実際のプログラミング言語を真面目に学んだことはなかった。私にも小説を書こうと思ったことがある。けれども世界観を考えるだけで、文字に起こしたのはほんの僅かだ。私にも絵を描こうと思ったことがある。音楽理論を学ぼうとしたことがある。電気工作に興味を示したことだってある。けれども、自分には才能がないと決めつけてやらなかった。そうして残ったのは、知ったかぶりするための中途半端な知識だけだ。

 こんな私ではあるが、大学に入り、彼らに出会い、そして彼らに感化された結果、意識だけは少し変わったのかもしれない。しかし、意識が変わっただけではいけない。行動で示さねば意味がないのだ。そこで、その行動の第一歩としてこの企画への参加を決意した。なんの面白みもない文章となってしまったが、過去の自分との決別として、自戒の意味も込めてこの文章を投稿することにした。大学生にもなって今更そんなことを始めるのか、と嘲笑されるかもしれないが私は構わない。これほど恵まれた環境にいるのだからむしろ今変わるしかない、と私は主張したい。ただ、先程嘲笑されても構わないと書いたが、もし私の考えに賛同して下さるならば、ようやく一人のまともな人間として成長を始めた私の心の叫びを、せめて赤子の産声のように微笑ましいものとして受け止めて頂けると幸いである。

 また、誠に僭越ではあるが、私はもう一日分のAdvent Calendarを担当している。テーマは私の人生を変えた出会いについてだ。今回はAdvent Calendarに全くと言っていいほどふさわしくない文章を書いてしまったため、次回こそはふさわしい文章を、幾ばくかは笑える文章を書いてみようと思いこのテーマを選んだ。と言っても、私はこのように文章を書くことがあまり得意でないため、冗長でわかりやすさに欠ける文章になってしまうことは承知である。それでも、私なりの成長の第一歩としてぜひ見届けてほしい。

 私は今までの自分を受け止め、新たに生まれ変わりたいのだ。

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の6日目の記事でした。feeleが担当しました。7日目はばーたーさん担当の予定です。

コメント

  1. torikori より:

    もう少し大学入学以前の自分のことを評価してもよいのではないでしょうか。(ブログ記事としての体裁を整えるために自らの問題点のみを抜き出しておられるのかもしれませんが)

    • feele より:

      確かにカッコ内の指摘通り多少の偏向はありますが、少なくとも私は大学入学以前はクリエイティブな活動もほとんどせず、何かを深く学んだこともないので、やはり現在の周りと比べて無価値な学生生活をおくっていました。
      しいて自分を評価できるとするなら、中高生で吹奏楽に青春をささげたぐらいですが、そこで得られたものも薄い知識だけですし、吹奏楽とももう縁が切れてしまったためやはりそれほど評価できないなぁと思ってしまいますね。。。

  2. nininga より:

    うえにはうえがいて
    したにはしたがいる

    • feele より:

      まさにその通りです。しかしその言葉はしたにいる私が現状に甘えて何もしなくていい言い訳にはならない、と私は考えます。
      せっかく周りがうえの方ばかりなのですから、肩を並べるとまではいかなくとも、せめて背中以外も見えるように私はなりたいのです。

    • nininga より:

      いやぁ頑張ってください
      (何をされる予定なのですか)

    • feele より:

      具体的には、仮にも情報学科ですからプログラミングができるようになることですかねぇ。競技プログラミングなどで地力を上げていきたいです。
      まあお察しの通り、現状ただの意識高い系大学生ですので、行動が伴うよう頑張る所存です。

    • nininga より:

      幼女で大学生なのだからそれだけですごい