夢、六月初旬の

 表題通り、十日ほど前に浅い眠りの中で見た夢の内容を、記憶を頼りに随所補完しながら書き起こしてみようと思う。早朝の短い二度寝で見た夢なので、寛大に表現してティザームービーくらいの尺と密度しかなく、当然導入もオチも無い。たまにオチを含んだ映画仕立て、小説仕立ての夢を見ることもあるが、大概は起きて思い返すだに支離滅裂な幕切れで、それに比べれば展開のない映像の断片の方がまだしも書き起こすに相応しいだろう。

 目が覚めても、彼女のことがしばらく僕の心に残留していた。それは、彼女の姿や声や匂いではない。彼女の存在そのものだ。だから、言葉にも信号にも還元することができない。したがって、急速に霧散し、消えていく。しかし、姿や声や匂いに印象を留めることの滑稽さに比べれば、それは素敵な消散だ。

森博嗣『スカイ・クロラ』

 実際、記憶からさっぱりとかき消えてくれるならばそれに越したことはない。不定形なエーテルになって何かに、たとえば新しい小説にでも活かされるのだとすればそれは僥倖だ。しかしこの夢の眺めは網膜にねばねばとこびり付いて離れないし、そう上等な代物にも思えない。なにせ登場するのは一人の女性ではなく、一匹の死んだイグアナだった。

 そのイグアナは、腹を見せた姿勢で数人の輪の中に横たわっている。ずんぐりとした体躯に長く鈍重な尾をぶら下げ、三角形に尖った顎はぐいと反らされていたので、目鼻がどうなっているのかまでは見て取れなかった。

 もっと近くで見ようと一歩踏み込んだ足首に、尾の先が当たった。弱々しい、じゃれつくような一撃で痛みも無かったが、それで危ないと思われたのか、隣に立つ帽子を被った男が身振りで私を下がらせようとした。

 これは生きているのか、と問うたかもしれない。そこは見るからに日本とは離れた異国の地だったので、恐らくは現地の言葉でそう言った。帽子の男は黙って首を横に振った。するとさっき振られた尾は、活け造りが反射で跳ねるのと似た現象だったのかもしれない。

 再びぴくりとも動かなくなった死体を覗き見る。ひっくり返った足裏までは見ていなかったが、爪は生えていただろうか。体長は、尾まで含めて目測一メートル半。顎の形といい体型といい、後から考えてみればイグアナというより中型のワニだ。しかし夢の中の自分というのは無根拠な確信に満ちていることが多く、その時も目の前の生物はイグアナだとしか思えなかった。

 帽子の男とは別の、しかし同じような砂色の服に身を包んだ男が、懐からナイフを取り出してきた。握ると柄がすっかり掌に包み込まれてしまうような短刀で、刃渡りも短いが、よく手入れされているように見える。その証拠を示すかのように、ナイフの男はイグアナの腹めがけて刃先を突き立て、素早く滑らせた。

 イグアナの黒い皮膚はいかにも分厚く硬そうで、表面は不規則な凹凸に覆われ、食べるにはまだ早いアボカドの表皮のような見た目だった。その皮膚が、ナイフの刃によって音もなくなめらかに両断されていく。人間でいうへその辺りから、真っ直ぐ上って喉元まで。内臓を掻き出すつもりかもしれないが、少なくともその時はまだ、外側の皮膚しか切れていなかった。

 着物を脱ぐようにして現れ出たイグアナの肉は、明るい緑色に黒い縞模様が走った奇妙な柄をしていた。表面はてらてらと濡れているが、血の一滴も噴き出してはこない。黒縞は体の正中線に沿って太く縦に伸びたのち、Y字に分かれて足の末端へと続いていた。そうした太い流れからも新たな縞が無数に枝分かれをして、あたかも原始的な血管系のようでもある。皮膚が青いアボカドなら、こちらは歪なスイカだ。もし強いて動物に喩えるならば、鮮やかすぎるウシガエルの体表……。

 そして、私の視野はふいにイグアナの胸元から逸らされた。声を掛けられたのだろう。帽子の男か、あるいはまた別の男なのか。首から上は覚えていないが、手元だけは嫌というほどはっきり覚えている。目玉だ。何かの、生っぽい眼球を二本の指でつまんでいる。何かと言われればそれはイグアナの眼球でしかあり得ない。元の体格にしてはあまりに小さなそれを、男はなぜかこちらに差し出してきていた。視神経は繋がっていないようで、理想的な球形をしている。黒目もまた豆粒のように小さい。

 男の空いた方の手が伸びてきて、あっという間に額を押さえられてしまった。男は無言のまま、片手の眼をさらにこちらへ近付けてくる。小さな潤んだ眼球が視界の右側を覆いつくすと共に、目頭が強く圧迫された。痛みは無い、夢だから。それでああ、イグアナの眼を無理に埋め込まれたのだなと思ったが、右の視界は潰れたまま戻ってこなかった。

 耳元でしきりに声がする。これは日本語で、「右眼に集中して、それから左上に集中」、そんなことを言われたような気がする。帽子の男の声かもしれない。

 言われた通り意識を順繰りに移していくと、確かに元右眼のあった左上の方、ややこしいがつまり鼻梁と右眉に接するぎりぎりの位置から、新しく小ぶりな視界が誕生していた。自由に視線を動かすこともできる。そんな乱暴な、第一こちらは元から盲目だったわけでもなし、とんだありがた迷惑だと目を回して、

 そこで目が覚める。時計は見ていないが、それは朝の十時頃だっただろう。すぐに三度目の眠りに就いたが、再び夢を見ることはなかった。