造語症

オリジナル単語を自然に創る症状。主に精神病疾患者が「一般的ではない、辞書に載っていない造語」を創作し、さも当たり前のように使う症状。統合失調症の典型的な症状であり、アスペルガー症候群にも多くみられる。自分と他人との境界線が薄い(あるいは無い)という事が原因として「自分が当たり前に使う言葉」は「他人も認識出来る」という思考が原因とされている。

http://takei.anonyment.com/wp/精神疾患用語集/サ行/造語症/

かつて,私は「連歌的ジレンマ」という語を作り出したことがありました.あれは今から思うと自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)の一症状である造語症だったのかもしれません.

「連歌的ジレンマ」を生み出したとき,周囲の反応が過剰ではないかと私は思っていました.私にとってこのような語を使うことは特に不自然なことではなかったからです.今はもう「連歌的ジレンマ」しか思い出すことはできませんが,このような造語を私はいくつも作り出していたのでしょう.

「連歌的ジレンマ」の経緯から,私は造語を作り出し使うことを避けるようになりました.それは一つの成長だと思いますし,そのときに自分の造語癖に気付けてよかったと思っています.

しかし「連歌的ジレンマ」は造語症という言葉では片づけられない,私の大事な思い出でもあります.造語症という言葉は今知りましたが,そんなくだらない概念に思い出を壊されてたまるか,とも思います.

まあ何が言いたいかというと,クソ食らえ,ということです.造語症は社会的にはよろしくないのでしょうが,そんなことはどうでもいい.「連歌的ジレンマ」に関して色々考えるのは楽しかったし,それが「造語症」なんていう造語じみた言葉で説明されてしまうなんて悔しいです.

私は自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder: ASD)と呼ばれる障害を持った人間です.ASDについて調べれば調べるほど,自分の行動がASDの症状やその二次障害で説明がついてしまう.じゃあ私はいったい何なのか,私はASDが人間の皮を被って歩いている(誤解なきよう,ASDの人を差別する意図はありません)存在なのか,と憤りを覚えてしまう.

なんというか,空しい,とそういうわけでこの文章を書きました.読んでもらった人には申し訳ないです.

以上

コメント

  1. ptolemy より:

    思い出と決別して自分を見つめ直した方がいいかもしれない.

  2. ptolemy より:

    造語症という言葉自体が学術的な用語ではないようなので,本文でも造語じみていると言っていますが,やはり造語のようです.しかし学術用語も本を正せば造語ですし,造語を作り出すことが問題なのではなく,一般的な言葉に敷衍しないでいきなり使ってしまうところに問題があるということです.自閉症スペクトラムの症状の一つであるということは2003年の文部科学省による定義では言及されているようですが,DSM-5での診断基準には含まれていなかったように思います(手元にないので分かりません).少なくとも「造語症」は統合失調症やASDの診断基準にはならないでしょう.

    私は当事者として個人的に調べているだけで,専門家ではないので,この記事やコメントの正確性に責任は持てません.その点,よろしくお願いします.

  3. nininga より:

    お久しぶりでございます。niningaです。
    これついてはコメントせねばなるまいと思いコメントをする次第です。
    以下については一般人よりは少し医学に詳しい素人の意見ですので、これが全てではありません。

    ご存知かもしれませんが、精神疾患というのはかなりスペクトラムなもので、ASD患者と健常者(ここでは非ASDの人を指します)のディジタルではなく、アナログ・連続的なものです。
    『自分の行動がASDの症状やその二次障害で説明がついてしまう』というのはあくまでASDの患者が健常者よりも多い”傾向にある”ものであって、そこにまだ科学的な因果関係が完全に説明されているものではないと思います。(それが解明されていれば、そもそもASDの診断は科学的な指標によって行われるです。)また、それを”病気”と呼ぶか”個性”と呼ぶかの境界もありません。

    「自分はA型だから几帳面」「丙午の女の子は気性が荒い」と同じようなもので、そこに因果関係があると思うから「自分の行動がASDの症状やその二次障害である」と考えるのだと思います。もちろん、それが完全な嘘と言うわけでもないと思うので「そういう考え方もあるわな」くらいの気持ちで知っておけばいいと思います。

    ただ、君の書いた通り、『そんなくだらない概念に思い出を壊さ』せないでください。

  4. ptolemy より:

     コメントありがとうございます。ASDが連続的なものであるということは知っていますが、私がASDであることを知っている人々は、とにかくそのようなレッテルを貼りたがるのです。私の失敗はすべてASDのせいにされますし、趣味や性格に関しても「ASDだから」ということにされてしまいます。そのようなことを言われているうちに私自身もそれを言い訳にしてしまうようになり、例えば対面での会話などの際に相手と目を合わせられなくなりました。以前はそうではなかったはずなのですが。
     実際に診断を受けたので、私自身にASDと診断されるだけの要素があるとは思います。そして、おっしゃるように個性とも言い換えられるほど私自身と切り離すことができないものなので、私を扱うのにはASDという言葉はとても便利なのです。私自身も、社会的な困難をその一言で説明してしまえるので、言い訳にしてしまっている部分があります。
     そのようなレッテル貼り、言い訳等に利用してしまっていることに辟易してこの記事を書いた次第です。私がASDであると診断されたときにも病気ではないと言われました。現在の定義では、症状というより傾向というのが正しいように思います。
     当事者としては、もっとはっきりしてほしいというのが本音です。病気であると言い切ってくれた方が気が楽なのです。昔打ち明けた時に「診断されてほっとしただろう」と言った人がいましたが、全くそんなことはありませんでした。結局私はどうすればいいのか、病気ではないとすれば自分が悪いのだろうか、と割り切れない思いでいっぱいです。あるいは私が悪いのでしょうが、よしんばそうだとしても、誰もそうは言ってくれないのです。
     ASD、ひいては発達障害の科学的な定義がなされることを望みます。それが正しいのかは分かりませんが、少なくとも私のような人間には救いになります。科学的な定義により分類も進むでしょうし、アスペルガー症候群から自閉症スペクトラムに名称が再定義されたように、発達障害という名称も変わるでしょう。

     最後に言い忘れていましたが、思い出は思い出のまま、記憶を消し去りたいと思うことがあります。最近は特にそう思うことが多いです。なので、このサイトを覗くのはこれで最後にしようと思います。では、さようなら。