硝子の島

 もう家に帰りましょうよ、あなた。君がそう言った。上着がないと、ここは少し寒いわ。

 僕は辺りを見回して、隣に立つ君へ微笑んだつもりでいた。帰るったって、もう家の場所だって分かりゃしないだろう。あらそうね、と笑う君の桃色の声帯が、くつくつと上下に揺れる。もちろん、僕らにとってそれはひとくだりの冗談にすぎない。帰る必要だって、もうない。

 透ってしまったアスファルトの道路を、氷の川に喩える人がいた。流れる水も泳ぐ魚もないが、眼下数十メートルの際には微かに濃灰色の煙が揺れている。今もなお下がりゆく地殻の限界高度がそこだ。そこから上には何も見えない、こうして歩いていると、君と二人で空を飛んでいるようにも思える。

 また下を見ているのね。君の咎める声が耳朶を揺らすほど近くから聴こえて、僕は思わず背筋を伸ばした。一拍遅れて首から先が持ち上がる。

 見上げるのは痛いんだ。僕には眩しすぎる。舌が上手く回らないから、まともにそう言えた自信はない。眼前には地平の先まで続く透明で巨大な塊。世界が透り始めて以来、ビルや住宅のように大規模な人工造型は他の何よりも早くこうなった。

 ほぼ完全に透ってしまった屋根瓦や外壁は、さながら数十の面でカットされたダイヤモンドのように、あるいは削られてグラスに入った純氷のように、陽の光を透し、あるところでは跳ねかえらせ、曲げ、散らしてしまう。今やどこを見渡そうと、折り重なる極光から逃れる術はない。僕はこの数日ですっかり下を見る癖が付いてしまって、君はそれを度々注意する。そしてこう言うんだ。「ちゃんと顔を上げて。今なら天国がよく見えるわ」。

 その言葉も今度だけは聴こえてこないことに気付いて、僕は君の立つ方へ顔を向けた。緩やかに結合した頬の筋繊維と左の眼球が真っ先に動いて、君から一番遠い右耳はうっかり元の位置に取り残されてしまったようだったが、僕は気にしなかった。

 君の声帯が透り始めていた。花びらのような形の器官はいつしか鮮やかな肉の桃色からピンクパールの淡い色に変じ、とっくに透りきった喉の奥に滞留して動かない。君の見えない唇が、僕のすぐ傍まで近付いてきたのを吐息の熱で感じた。声がうまく出せないの。左の耳元で君が囁き、指先の髄を伸ばして、僕の声帯に触れる。綿に包んだような緩慢な痛みを感じて、僕は眉間に皺を寄せたことだろう。だが君の指はもっと痛んだはずだ。

 やっぱり。透りの進みはわたしの方が早いのね。あなたを一人にさせてしまうわ。ささやきは既にその声色までをも失ってしまっていたから、それが寂しげに聴こえたのは単なる僕の思い込みだ。

 わたしを見て。君が言ったからそうした。純白の光に晒された君のからだは、今や肌のほとんどが透り落ち、内側を覆う血管や脂肪、さらにその奥までもがはっきりと見て取れる。あらわになった胃袋が僕に見られて恥ずかしがるように小さく蠕動した。

 醜いでしょう。外側から一枚、一枚身ぐるみを剥がされて。最後には骨も残らないわ。あまりに小さな君の声は、ろれつが回らないせいだろうか、どこか楽しげに聞こえた。出会ったばかりの頃の君、何かあるたび弾むように笑ってみせた少女の声。

 下顎の関節が緩んだせいで僕は何も言えなくて、代わりに首をゆらゆらと揺すってみせた。醜くない、綺麗だと、本心からそう思った。氷山のように聳え立つ透明たちの中で一際映える動脈の緋色、脊椎の白、筋膜、烟るような毛細血管が何重にも層をなす彩色を見て、僕はかつて君と見たヴェネチアの硝子細工を思い出している。

 モナート島の硝子工たちは、一握りの珪砂と酸化物からこの世のあらゆるものを造る。花瓶やグラス、耳飾りや、壁に飾る大きな皿はもちろん、翼を広げた鳥、透き通る花弁のブーケ、鞍を背負った馬、柱時計、黄金色の尖塔を戴く壮大なムスク、粘菌の模型、荒ぶる海に浮かぶ帆船、モミの木のツリーに吊るした電飾、兎の親と子供、僕らの住む家、きらびやかなドレス、煙を吐く汽車と乗客たち、野原に生え揃う背の低い植物はみな朝露までもが硝子色に凍りついている。葡萄の房が実った蔓の形のペンダントは、旅の土産に二人で選んで買った。今も君の首元を飾ってくれていることだろう。

 あなた、と君の呼ぶ声が脳へ響く。頭蓋を砕いてやわらかなこの脳を満たす。僕はもうしばらくだけ目を開けておこうと思った。それは単なる直感でしかないのかもしれない。僕らはもう、すぐ傍に自分たちの終わりが控えていることを知っている。僕は片腕を回して君の背中を抱き寄せた。指先の管があちこち君のからだに絡みつく。二人分の肋骨が触れ合って音を立てた。深くゆっくりと息を吸い込む。肺と心臓はまだ動きを止めていない。

 君へ口吻けをしようとして、互いの口元がもう透りきっていることに僕は気付いた。次第に眼が霞む。全身が光に清められ、希釈されていくのを感じた。じきに眩い光が世界の何もかもを照らし尽くすだろう。夢を見ているようだった。眠りへ落ちていく赤子になったようでもあった。焦点の定まらない視界の中で君は、どちらのとも知れない胸元の血管を指の骨で切り解いている。

 火の粉の爆ぜるような音がしたように思う。降り注いだ温かな血が僕らの透明なからだへ、溶け込むように鮮やかな色を差していく。君は一雫の緋色をすくって自分の顔へ滑らせた。何もなかった場所に君の唇が浮かびあがって、次の瞬間には微笑んだ。君がまだ見えることが嬉しくて、僕も同じようにした。寒くなんかない。僕らに上着は必要ない。

 硝子の君に口吻けるその瞬間、腕から垂れた血が君の首元まで伝って、赤々と実る葡萄の房に変わっていった。