影の男

 町内放送の夕焼けこやけが耳に届いたことで、初めて僕は今が夕方であることに気付いた。

一体どれほどの時間、僕はここで呆けていたのか。目の前の世界が赤く変わっていったことにすら意識が向いてなかったのだから相当のものだ。茫然自失、とは今の僕のことを言うのだろう。

 ここへ来た時は砂場で遊んでいた数人の子供たちも、いつの間にか居なくなっていた。彼らが夕焼けこやけよりも前にこの児童公園を去った理由の一つが、ベンチに座ったまま動かない不審な男子高校生の存在だったのだとすると、それは少し申し訳無いなと今更ながらに思う。砂場の上に取り残された簡素な造りの城が、夕陽に照らされて色濃く影を落としていた。赤と黒の二色で染め上げられているそれは、まるで戦火に燃え落ちる最中の城のようにも見える。まさに斜陽だ、と僕は頭の中で呟いた。

遮蔽物の無い公園を、風が容赦なく吹き抜けていく。昼間は暑さに灼かれていたというのに、今は七月とは思えない程に肌寒い。既に夏本番の気分だった僕は、羽織る上着も持たずに半袖のままでじっと座り込んでいる。そろそろ家へ帰らなければ、ここに居続けては体調を崩してしまいそうだ。

 ベンチから立ち上がろうとして、両膝に手を乗せる。自然と体が前に傾き、自分の股ぐらを覗き込むような姿勢になったところで、僕は「それ」の存在を思い出した。

 影だ。傾いた陽の光がほぼ正面から僕に当たって、背中側に細長い影を形作っている。それだけでは無論、何の注目にも値しないだろう。

ただ、この影が動いて喋るというのならば話は別だ。

「どうした。俺の方を見つめて。何か用か」

 声が聴こえる。しかし、周囲に僕以外の人影は無い。この声は間違いなく、地面に伸びる僕の影から聴こえてくるのだ。

影は僕と同じようにベンチに座って、しかし僕とは違って手を膝に置いていない。左手、いや右手だろうか、すぐには判りづらいがどちらか片方の手をひらひらと振って、自分の存在を主張してきている。その軽薄っぽい身振りを見ているのが嫌になったので、僕は視線を前へ戻すことで、影を視界の外に追いやった。

「何でもない。ただ、自分の頭のおかしさを再認識している」

「頭がおかしい? それは、公園のベンチに一時間五十分も座り込んでいることか」

 勿論そのことを言っているんじゃない。こいつは判っていて僕をからかっているんだろう。おかしいというのは、この影のことに他ならない。

 僕は別に霊能力者でも超能力者でもない。人ならざる者との邂逅を日常とするような、非日常を生きる人間ではなかった。それが今日のある時を境に、こうしておかしな影に取り憑かれてしまっている。

もしこいつが本当に、科学で説明の付かない未知なる存在なのであれば良いが、残念ながら僕はそこまで夢見がちでも楽観的でもない。この影はほぼ間違いなく、僕の無意識が生み出した存在しない虚構の怪物だ。目に見える形で現れた、僕の狂気そのものとでも言おうか。

「狂気そのものとは、なかなか言ってくれるじゃないか。少しは物を考えられるようになってきたらしい」

 影は平然と僕の思考を読んだ。こうして声が聴こえること自体僕の「気のせい」なのだから、考えを読まれるくらいでは驚きもしない。影が動くのは幻覚、声が聴こえるのは幻聴。イマジナリーフレンドという言葉を聞いたことがあるが、それとはやや異なるようにも思える。何にせよ、明日にもしかるべき病院へ行くべきだろう。

「明日の予定は決まったか」

「残念ながらね」

「よし、よし。じゃあ落ち着いたところでもう一度、この件を一から考え直してみようじゃないか」

「考え直す?」

 地面から聴こえてくる声は、図々しくも宿主である僕に何か提案をしたいようだ。思わず肩越しに振り返ると、影は足を広げてベンチに腰掛け、両腕を胸元へ潜り込ませていた。どうやら腕を組んでいるらしい。

「今更何を考えるっていうんだ。おかしくなってしまったこの僕が」

「自分で狂ったって思い込んでるのは狂った内に入らないんだよ。考えるのは、勿論今日の昼間の件についてさ。翔華(しょうか)がどうしてあんなことを言ってきたのか……合わせて、これまで翔華と何があったかもよく思い返してみると良い」

「そんなこと……」

 そんなことをわざわざ考える必要は無いし、考えたくもない。喉が一瞬で乾き切ったような感じがして、最後まで言葉が繋げなかった。

本当に、考えたくなかった。既に決まってしまった結末と、判り切ったその理由を反芻することが、一体何になると言うのか。彼女と過ごした日々を懐かしんだところで、虚しくなるだけだろう。質の悪い懐古でしかない。

「そうとは限らない。結末が決まったなんていうのは、お前の思い込みじゃないか。お前は翔華と別れたことを悲しむばかりで、考えることを止めちまっているんだよ。木偶の坊になって公園で黄昏れているのが、どうだ、そんなに楽しいか」

「……楽しい筈が無い。さっきから、当たり前のことばかり訊くなよ」

 弱音と非難が混ざったような僕の返答を聞いて、何が可笑しいのか、影は声を上げて笑った。手を叩く音まで聴こえてくるが、僕自身の両手は膝の上から動いていない。

「楽しくないのなら、別のことをしようじゃないか。なあ、悠人(ゆうと)。諦めるには早い。まだ日は沈んでいないんだ。夜が来るまでの間だけで良い。今までのことを思い出して整理してみてくれ」

 影の口調が、今までに無く柔らかなものへと変わった。僕をなだめすかして、自分の望む方向へ思考を誘い出そうとしていることが容易に推し測られる。詐欺師か悪魔か、でなければゲーテの詩に登場する魔王のような手口だ。

「考えるんだ、悠人。何なら、結論を出す必要すら無い。冷静になってじっくりこれまでのことを考えている内に、俺なんていつの間にか消えちまうかもしれない。悪くないだろ」

 この誘いに乗ってはいけない。そう思っているにも関わらず、僕は自分の口の端が上がるのを感じた。頭の片隅が、影の言うことにも一理あると納得してしまったのだ。

そもそも、このまま家に帰ったところでどうなる? 夕飯を食べて、寝て起きて、明日からまた生きていくだけだ。そしてその明日は、もはや暗闇へと変わってしまった。落ちてしまった太陽が、再び上ることは無い。これから先、長い長い夜が始まるのだ。それこそ、想像したくもない程に絶望的。

 そうだ。先の未来を考えるくらいならば、過去を振り返っていた方がまだましじゃないか。それでもしこの鬱陶しい影が消えるのだとしたら、損は無い話だ。

 そこまで思考が及んだところで、僕は苦笑とも冷笑とも付かぬ笑いを浮かべてしまったのだった。何ということは無い。影の言葉は僕の言葉でもある。自分で自分を丸め込むこと程、楽な説得は無いだろう。

「……日が沈みきったら、家に帰るからな」

 絞り出すような僕の言葉を聞いて、影が満足気に唸り声を上げる。僕は改めて木製のベンチに座り直した。古くなった材木が僅かに軋み声を上げる。

公園を吹く風が弱まってきた。もう少しの間なら、ここに居ても大丈夫そうだ。

日没まで残り幾ばくもない。それでは、情けない話だが考えてやろうじゃないか。翔華が僕を振った、その理由を。

 僕と翔華の出会いの瞬間まで、わざわざ遡る必要は無いだろう。というか、そんな昔のことは憶えていない。翔華の家は産まれた時から向かいにあって、僕らは殆ど必然的に幼馴染になった。

辛うじて記憶が残っているのは、幼稚園に入園してからのことだ。幼い僕が、幼稚園へ向かう道を誰かと手を繋ぎながら歩いている。繋ぐだけに留まらず、僕の手をブランコのように勢い良く振り回しているのは、同じく幼い頃の翔華だ。

「ゆうくん、今日はうちにとまってくの?」

「うん。おかあさんが、おしごとで帰れないから……」

他愛も無い会話が頭の中で再生される。実際、僕らはしょっちゅうお互いの家に遊びに行っていたし、僕の両親が仕事で家を空けた日は、翔華の家に泊めてもらうのがお決まりのパターンだった。だからきっとこんな会話も交わされたのだろうが、生憎声までは思い出せない。差し詰め、字幕付きの無声映画と言ったところだ。

何を悩むことも無く、ただ笑って過ごしていられた日々。ここに、破局の手がかりがあるようには思えない。自分の思い出を汚い足で踏み荒らしているような気分になってきたので、その頃のことを詮索するのは止めておこう。

 僕と翔華の間にはっきりと「ずれ」が生じ始めたのは、小学生になってからだ。学校という一つの社会に放り込まれたことで、僕らにはそれぞれ社会的な立場というものが形成された。

一言で表すと、翔華はクラスの人気者だった。外向的で、人当たりが良く、優しくて頼りがいがある女の子。それが翔華の性格そのものだったのか、何か別の内面を取り繕った結果だったのかは判らないが、どちらにせよ、翔華が選んだのはそういう生き方だった。

 一方の僕はどうか。自分で解説するのも切ないが、僕は存在感の薄い子供だった。休み時間の度に席で本を読んでいたので、クラスメイトと話す機会も、一緒に遊ぶ機会も無い。そもそも他人と交流することが苦手だったので、交友関係を広げようという意思すら持っていなかった。

結局、小学校六年間で友達と言える存在は翔華以外に殆ど出来なかったが、その翔華とは相変わらず仲が良かった。小学校も、ついでに中学校も家から徒歩圏内だったので、毎朝玄関前で待ち合わせて一緒に登校した。そうだ。中学校の頃まで、僕らは確かに親しい仲だった。それが変わってしまったのは、高校に入ってから、つまり去年の……。

 そこまで回想したところで、背中越しに鋭い声が飛んで来た。

「違うぞ悠人。関係が変わったのは高校入試からだろ」

 まるで正解を知っているかのような影の言葉が癇に障り、僕はつい鼻で笑ってしまった。

「何を言っているんだ。高校入試は僕も翔華も同じところを受けて、合格した。受験会場に行く時だって二人一緒だったよ」

「だがお前、志望校のレベルを下げただろ。翔華に合わせて……それを知ってからの翔華の態度を忘れたのか」

「志望校……?」

 確かに、僕は模試の判定を無視して翔華が受ける県立高校を第一志望にした。進学先に対して何の拘りも無かった僕にとって、「翔華と通える」ということが大きな魅力だったからだ。

 言われてみると、受験直前の頃の翔華は、態度が微妙によそよそしかったような気もする。少なくとも、僕の無意識に居座る影の男はその違和感を認識しているようだ。しかし。

「模試の判定について、僕が翔華に話したことは無い筈だ。志望校のレベルを下げたことなんて、翔華には判らないよ」

 僕の疑問を耳に入れた途端、影の男はこちらに聴こえるくらい大きく舌打ちをした。初めからそうだが、こいつは僕の心が生んだと思えない程に気が大きくて柄が悪い。

「自分の影に向かって謙虚ぶってるんじゃねえよ。お前の中学時代の成績は何番だ」

「……上から、十番目くらい」

「翔華は平均ちょい上くらいだった。県立高校は翔華が安定して合格できるくらいの高校だぞ。お前が志望校を下げたことなんざ、改めて口にする必要も無い」

 流石に僕の影、適当な誤魔化しは通用しない。確かに、僕が志望校を翔華に合わせたのは明らかで、翔華の様子がその時期に変になったのだとすると、その原因が僕にある可能性は高い。

「僕が翔華を追いかけて高校を選んだから、翔華に距離を置かれた……そう言いたいのか」

「俺は何も言ってない。ただ、お前の間違いを訂正しただけだ。……考えを邪魔して悪かったな。次は高校入学以降だ。日没は近いぞ」

 影男の言葉につられて西の空へ目を向けると、太陽は端の端、沈む間際の位置で踏ん張っているところだった。空の色が赤から紫へとグラデーションを作っている。日没までしかここに居ないと言った以上、早めに話を切り上げなくてはならない。

 高校に入って何が変わったかというと、まず翔華が以前に増して外向的になった。より明るく、より陽気に。高校に入ったばかりで何かと不安な新入生達にとって、気軽に話しかけてくれる翔華の存在は有難かったことだろう。僕は単に、新しい環境でテンションが上がっているのかな、なんて考えていたが、実際には、翔華の性格の変化は決して一過性のものでは無かった。

瞬く間にクラス内で人望を集めた翔華は、勢いそのままに今度は他クラスへと手を広げた。休み時間毎に他クラスへ遊びに行っていた翔華の背中を、よく憶えている。この頃からだ。学校内で翔華と話す機会が、みるみる減っていったのは。それでもまだ僕は暢気に構えていた。翔華が居なくなる未来なんて、想像したことも無かったからだ。

 高校入学から二ヶ月、翔華はなんと生徒会役員の選挙に立候補した。翔華と登下校を共にしているにも関わらず、僕がそのことを知ったのは立候補の後。寝耳に水とはこういうものかと思い知った。「どうして僕に黙って」と抗議しかけたが、どうして翔華が僕に自分の行動予定を逐一報告しなければいけないのかというと、そんな理由はどこにもなかった。僕は自分の身勝手な不満を喉の奥に仕舞い込んだ、

通常二年生以上が務める役員職を、翔華は一年票を独占することで見事に勝ち取った。多分、翔華は初めから生徒会に入りたかったのだろう。当然、僕は翔華の当選をお祝いした。正確には、当選確実をお祝いした。候補者である翔華は、正式な当選者が発表される前日の時点で、既に開票結果を知らされていたのだ。その日の帰り道、僕は翔華に出来たてほやほやの当選情報を聞かせられた。

「おめでとう。一年で生徒会役員に当選するの、相当珍しいことだって聞いたよ」

「有難う! たくさんの友達が応援してくれたから……結果が出たら、悠君に真っ先に伝えたかったんだ」

 そう言って、翔華は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。そこまでははっきりと憶えている。その後……翔華の笑顔を見て、僕が何を感じたのだったか。そこだけ記憶に靄がかかったようになって、思い出せない。

「ぶはは!」

 影の男が笑った。

 生徒会に通うようになって、翔華は一気に多忙になった。朝は早くから登校して、放課後も遅くまで生徒会室で仕事をするので、僕と翔華が会えるのは休み時間の間だけ。どうせ予定があるわけでもなし、放課後くらい翔華の帰りを待とうかとも考えたのだが、「どうして待ってくれるの?」と訊かれた時の答えが思い浮かばなくて、結局一人で帰るのが習慣になってしまう。

 翔華と会う機会がさらに減ったことについて、寂しいのは間違いなかったが、それを口に出すことはしなかった。ちょっと驚く程多い生徒会の仕事を一手に引き受け毎日忙しそうな翔華の姿が、とても充実したものであるように見えたからだ。

 夏休みになったら、翔華と遊ぶ機会も出来るものと思っていた。一学期の終わる間際に、翔華に夏休みの予定を聞いた時になって、僕は生徒会の激務が夏休みにまで及んでいることを知った。秋の文化祭に向けて、実行委員や各団体の代表と会議の連続らしい。まるで会社勤めのサラリーマンのような話で、「忙しいけど楽しいよ」なんて言ってくる翔華に向かって、「そんなことよりどこかへ遊びに行かない?」とは言えなかった。つくづく僕は押しの弱い人間だと思う。

「結局、一人で寂しく夏休みってわけだ」

 影の男がまた笑った。宿主の不幸がそんなに面白いのだろうか。面白いのだろう、こいつは僕の「影」なのだから。

「実感させられたよ。僕に翔華以外の友達なんか居なかった。中学でも高校でも、僕は友達を作ろうと努力したことが無かったんだ」

 惨めだった。家から出る用事すら見つけられずに、僕は部屋に引き籠もって過ごした。僕がベッドに寝転んでゲームをしている間にも、翔華は生徒会でみんなのために働いている。その事実が常に僕を追い詰め、焦らせる。こんなざまは翔華には見せられない。

 結局僕は二学期になって、友達と呼べる人間を捕まえるべく重い腰を上げた。独りで居る僕の姿を、翔華に見せたくなかったから。この動機はかなり自意識過剰なものだったように思うが、尻に火をつけられたことで、僕は自分からクラスメイトに話しかけるようになった。

 その年が終わる頃には、休み時間に話すくらいの友人は出来た。相変わらず登下校や休日は独りだったが、それで良かったのだ。翔華の見ていないところでまでクラスメイトと会う必要は無いと思っていたし、実のところ会いたくなかった。二学期を通して改めて学んだのは、結局僕は人付き合いというものが致命的なまでに苦手なのだということ。新しく出来た友達と交わすくだらない雑談は、僕にとって苦行同然の行為だったのだ。それが友達と言えるのだろうか? 言えないだろうが、そんなことは些細な問題に過ぎない。

 冬休みに入ったが、僕が翔華を遊びに誘うことは無くなっていた。翔華には、僕が四六時中暇を持て余していると知られたくない。これは僕の見栄であり、意地だ。家にずっと居る僕を、向かいに住む翔華に見られているような気がして、毎日のように意味もなく外出した。まったく馬鹿な話だ、翔華は生徒会の仕事で学校に行っているというのに。

 三学期が過ぎ、二年生になっても、僕と翔華は離れ離れのままだった。周囲と築いた人間関係を保つために、僕は相変わらずクラスメイトとしたくもないお喋りをしている。翔華も翔華で、生徒会選挙の管理がどうこうで忙しそうだった。

 翔華とろくに会えない日々が続く中で、僕は自分の行動の目的を見失いかけていた。何のために友達を作ろうとしていたのだったっけ? それは惨めな自分を翔華に見せないことで、見栄を張るためで……でも、その翔華は僕の方を見向きもしていない。このままでは、翔華が僕の手の届かない遠くへ行ってしまう。嫌だ。独りになりたくない。

 うだうだと悩み続け、かといってそれを解決するために何か行動するでもなく、ただ惰性のように学校へ通っていたある日、職員室前の廊下を歩いていた僕の目に、壁に貼られた一枚のポスターが留まった。可愛らしいイラストが散りばめられたそれには、手書きの文字で「文化祭実行委員募集中!」と書かれてある。

 僕はそのポスターから目が離せなくなった。曰く、毎年六月になると、生徒会役員を含む各委員会の募集が行われる。生徒会役員は選挙で決まるが、文化祭実行委員を含む他の委員は手を挙げれば誰でもなれる職とのことだった。

翔華は一年の夏休み、文化祭準備のために実行委員と会議を重ねていた。ということは、実行委員になれば翔華と頻繁に会えるというわけだ。これぞ天啓。居ても経ってもいられなくなった僕は、そのまま職員室の扉をくぐり、即座に文化祭実行委員に名乗りを上げた。

実行委員になったことは、翔華には内緒にしていた。七月に第一回の会議があるので、そこで会って驚かせたかった、というのはあくまで理由の一つ。最も大きな理由は、この頃になると翔華と二人きりで話す機会が全く無かったということだ。既に僕は翔華の周りに居る友人Dくらいの立場にあったので、個人的な話をしようにも、机に手紙を入れでもしなければ不可能だった。

「だが、実行委員という大義名分があれば、もう一度翔華に近付ける。そう思ったんだろ」

 影の男が口を挟んだ。これも自分の独り言の内だと思うと、一々突っかかる気にもならない。

「勿論そう思ったよ。実際、最初の会議の場に翔華は来たんだ。二十人くらい居る実行委員の中から、すぐに僕を見つけてくれた。目が合った時の驚きようったら無かったな」

 口に出した言葉には、自然と笑いが混じった。思い出を懐かしんだわけではない。あの驚いた翔華の顔から、嬉しさが滲み出ているように見えてしまった自分の都合の良さや勝手さ、そして愚かさへ向けた嘲笑だ。

 会議が終わった後、僕らは久々に帰り道を二人並んで歩いた。僕の隣に翔華が居る、実に一年振りの光景。その日の気温は暑過ぎず寒過ぎず、散歩日和と言って差し支えない快適さで、もう少し時間が早ければ、僕は翔華にどこか寄り道をしていかないか誘っていたところだっただろう。

心地よい外気と隣を歩く翔華に浮かれた僕は、これまでの分を取り返すように何でも無いような雑談を持ちかけた。けれど翔華の返事は「へえ」とか「そうなんだ」といったもので、なかなか会話が続かない。

住宅地に差し掛かり、道が少し狭くなった。つられて歩道も狭くなったので、二人並んで歩くにはやや窮屈だ。自然と、僕は翔華の斜め後ろを歩くような形になった。こうなると、僕からはいよいよ翔華の表情が読めない。

上の空のような様子の翔華を流石に不審に感じ始めたところで、翔華が急に「ねえ」と声をかけてきた。ねえも何も、僕は初めから翔華の傍を歩いているのだけれど、それを今指摘して混ぜっ返す程、僕は空気の読めない人間ではない。

「一つ訊いても良いかな、悠君」

 振り返った翔華の表情が、深刻そのものだったのだ。

 翔華と僕はほぼ同時に足を止めた。二人の脇を、乗用車が排気音を立てて通り過ぎていく。

「何かな……何でも訊いてよ」

 平静を装ってそう言ってはみたものの、次にどんな恐ろしいことを問い質されるのか不安で仕方が無い。僕が、いや、僕らが今、何か重要な岐路に立たされているということは漠然と判った。

 翔華は一度深く呼吸をしてから、僕にこう問い掛けた。

「悠君は、なんで実行委員になろうと思ったの?」

 口調は真剣だが落ち着いていて、僕を責めるような感じはしない。この質問を聞いて、僕は内心で胸を撫で下ろしていた。実行委員になった理由を翔華に訊かれるのは勿論想定の範囲内で、委員になった時点で既に答えを用意していたからだ。翔華に訊かれずとも、いずれ説明しなければならないと思っていた。

「去年からずっと、翔華が頑張っていたのを見ていたから……僕も何か、手伝えないかと思ってさ。文化祭の間までだけでも、色々頼ってくれれば嬉しいかな」

 正直に、翔華とまた仲良くなりたかったからとは言えない。それでも、僕が翔華に言ったことは本心からそう遠いものでもなかっただろう。つまり僕はここでもまた、見栄を張ったことになる。

「そっか。そうなんだ……ふふっ、変わらないんだね、悠君は」

 翔華は……翔華は、笑った。僕の答えを聞いて、まさに華が咲くように。クラスメイトとお喋りする時とも、生徒会役員として皆の前に立つ時とも違う、中学以前の翔華そのままの笑顔だ。やっと僕の存在が翔華に認められたような気がして、思わず頬が緩む。翔華の問いに、正しく答えられたという実感があった。

 そうして、僕らはまた歩き出した。さっきの質問で何かつかえていたものが取れたのか、翔華は雑談に気軽に乗ってくれるようになった。ずっと教室以外では会えていなかったのだ、積もる話の無い筈が無い。家に着くまでに残された十分間、僕らは悩みなんて全て忘れてしまったかのように、ただ笑って過ごした。世界に僕ら二人だけ。かつて、そうであったように。

 別れ際、僕は久しぶりに翔華を遊びに誘った。夏休みに入ってからは、会議の無い日なら僕はいつでも空いている。そう伝えた。翔華の方は予定の有無がまだ決まらないとのことで、この件については決まったらまた話し合おうということになった。

「幸せだったか。あの日、翔華と歩いて」

 ぽつりと、独り言を零すように影の男が僕に問うた。その質問には勿論意味が無い。影の男は僕の心を識っている。僕はあの時確かに幸せ、だったのだ。

 第二回の会議は、一学期の期末試験が終わって何日も経たない内に開かれた。僕ら実行委員が先に教室で集合し、人数確認が終わった頃に、数名の生徒会役員が入室する。前回と同じ流れだ。ただ一点、やってきた生徒会役員の中に、翔華の姿が無かったことを除いては。

 別に、それ自体が大きな問題なわけではない。翔華が何かの事情で来られなくなったのかもしれないし、会議に出席する生徒会役員がそもそも固定でない可能性も十分にある。しかし、「翔華が居ない」という事実を認識した途端、扇風機しか回っていない夏の教室が、急に冷え込んだように感じられた。喉元をせり上がるように、つい先日翔華と交わした会話が思い出される。僕は、翔華の問いに本当に正しく答えられていたのだろうか。

 不安と焦りばかりが積もって、その日の話し合いの内容はよく耳に入ってこなかった。解散後すぐ、下駄箱で翔華の靴を探したが、とっくの昔に下校しているようだった。他の役員に翔華が帰った理由を訊くことも考えたが、翔華との関係性を探られるのは嫌だ。結局その日は何もせずに家に帰った。

 今になって思うと、最後に隣を歩いたあの帰り道、やはりどこかへ寄り道をしておくんだった。あの幸福な時間は、僕と翔華の新たな始まりだと思っていた。まさか、あれで終わりになるだなんて。

「続けてくれ、悠人」

「ああ」

 言われずとも、ここまでくればあと少しだ。何せ、第二回の会議があったのは、つい昨日のことなのだから。

会議の翌日、つまり今日の朝。僕はどうしても翔華に欠席の理由を聞きたくて、クラスの誰よりも早く登校した。昨日の内に書いてきた手紙を、便箋のままで翔華の机の中に押し込む。内容は、「昨日会議に来なかったけど、何かあったの?」というものだ。我ながら、ストーカーっぽい行動だと思う。

 翔華はいつも通り登校して来た。手紙を見たのかどうかは確認出来ていない。手紙を忍ばせたことに何となく後ろめたさを感じてしまい、僕は翔華の方を見ることが出来なかったのだ。

 昼休みになるまで、翔華が僕に話しかけてくることは無かった。もしやと思い一度教室を離れる。暫くして席に戻ると、机の中にノートの切れ端が入れられていた。翔華からの返信だ。

「放課後、第二視聴覚室に来てください。鍵は開けておきます」

 切れ端には、見間違いようのない翔華の文字でそう書かれてあった。手紙では話せない内容なのか、切れ端に収まらない程の長い話なのか。とりあえず、僕に出来ることは言う通りの場所に放課後向かうことだった。第二視聴覚室とは、昨日も実行委員の会議があった教室の名前だ。

 そして放課後。翔華はすぐに教室を出ていってしまったので、僕は少し待ってから席を立った。向かうは第二視聴覚室。

 手紙にあった通り、扉の鍵は閉まっていなかった。引き戸を開ける。中では、翔華が教室の真ん中に立って僕を待っていた。昨日の会議の際は机と椅子が並べられていたが、今は片付けられていて、第二視聴覚室はカーペットだけが敷かれた広い空間となっている。

「来てくれて有難う、悠君……あ、そこの鍵は締めてね」

「了解。……まあ、手紙を貰ったからね。何か用?」

 後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けた。ゆっくりと翔華の前へと歩み寄る。ここへ来てまだ、僕は自分の動揺を押し殺して外へ出さないよう努めていた。

「ちょっと、お話したいことがあって」

 翔華が苦笑いを浮かべる。また少し嫌な予感が高まった。

 暫くの間、翔華は黙ったまま自分の手を見つめたり、右手で左手を握ったりしていた。僕はじっと待つ。どの道、僕に翔華の言葉を待つ以外の選択肢は無い。

 翔華の手が解かれる。開かれたその手のひらから、まるで何かが翔んでいってしまったかのように感じたのは、その時の翔華が悲痛な程に寂しげな顔をしていたからだろう。

「急にごめんね。私、文化祭担当から外れることになったの」

 それは……想像の範囲内だ。いや、折角翔華と一緒に居るために実行委員になったのに、当の翔華が居ないのではお笑いも良いところなのだが、僕はそれくらいの事実ならなんとか飲み込める状態にあった。それくらい、今日この状況と翔華の様子が異常であったということだ。

 ここで問題にするべきは、何故翔華が文化祭担当から外れたか、だ。どうも平和な理由とは考えにくい。

 身構える僕に対し、翔華が放ってきた次の一言はあまりにも真っ直ぐ、避けようもなく僕を突き刺してきた。

「ようやく解ったんだ。私やっぱり、悠君と一緒には居られない。私たち、別々に生きていかなきゃいけないの。だから、文化祭の会議でも、教室でも、通学路でも、悠君と仲良くするのはこれで終わりにしたい」

 翔華が告げたのは、唐突な別れの言葉だった。

 僕もまさか、ここで翔華に別れを切り出されるとは全く予想していなかった。別に自惚れていたわけじゃない。だってそうじゃないか。僕と翔華は付き合ってもいないんだぞ!

「何の……話?」

 だから、僕の口から出てきた言葉は随分と情けないものになってしまった。口許が引き攣っていたりなんかしていたことだろう。

「私、ずっと悠君のこと見てたんだよ。悠君が私と離れてからも……悠君、この前まではあんなに友達と仲良く遊んでいたじゃない。実行委員の会議はともかく、他の日は友達と遊びに行かなくて良いの? どうしてずっと予定が空いているの?」

 ここで僕は初めて自分の失態に気付いた。先日の帰り道、僕はうっかり翔華に「夏休み中、会議の日以外はずっと空いている」と言ってしまったのだ。

この一年で築いた友人関係が本当はからっぽで、休日に遊ぶ相手なんか誰も居ない、それを僕は自分から翔華に教えた。教室での僕の様子を見た時点から、その辺りは薄々勘付いていたのかもしれない。何にせよ、翔華の問いは答えるには痛過ぎる。結局、僕は何も言えぬままにとどめを刺される形となった。

「悠君が実行委員になったのって、私のためなんでしょ」

勝ち負けの話では無いけれど、これは明らかに僕の負けだ。翔華に、完全に見透かされてしまっていた。

僕はあの日、翔華の問いにどう答えたのだったか。実行委員になって、頑張る翔華の助けになりたい? 自分の言葉のおぞましさに反吐が出る。実際の僕は、翔華へ再び近付くチャンスに縋り付いた、まるで蜘蛛の糸を手繰るカンダタだったというのに。僕の欺瞞を知った翔華は、どう思っただろう。

どうもこうもない、その結果が今じゃないか。

「悠人君。これは私の我が儘です。私たち、お別れしましょう」

とどのつまり、絶交宣言だ。

僕は弁解も挽回も出来ぬままに敗走した。正確には、「そうだね、そうしよう、残念だけど」辺りのことを口の中でもごもごと唸った後、半分体を引き摺るようにして第二視聴覚室を後にした。這々の体とは、その時の僕のざまを言う。

お別れしましょう。お別れ。翔華と、お別れ。文化祭の担当を下りてまで僕と会う機会を避けたんだ、きっと教室でも話せなくなるに違いない。僕は出口の無い絶望的な思考を頭の中で巡らせながら、ふらふらと廊下を歩き出した。

視界が滲む。涙だけのせいではないだろう。こんなにも、世界が蕩け出してしまったかのように歪むのだから。壁が曲がる、窓がたわむ。そして僕の影も。

影? おかしいぞ、影だって。

いよいよこれは変なことになってきた。僕の影が、僕とは違うように動いている。僕はそんな風に肩を竦めていないし、歩きながら足を組むなんて真似出来る筈が無い。

僕は突然現れた異物の存在に慄然として、その場に立ち止まってしまった。影も、床と壁に張り付いたまま止まった。そして、そこから聴こえる声。

「よう、悠人。早速で悪いが、勢い余ってここで死ぬんじゃねえぞ。この階の窓はみんな開いてるんだからな」

「よし、これで全部だな。なかなかよく覚えているじゃねえか……後は、信じられないって面しながら学校を逃げ出て、通学路と真逆の公園でノックアウトってわけだ。回想、終了」

 影の男のそんな言葉を聞いて、僕の意識は現実に引き戻される。振り返って影へと目を向けるが、僕の分身がどんな姿勢で僕を嗤っているのか、はっきりとは判らなかった。過去を辿っている内に日が沈み切り、とっくに夜になってしまっていたからだ。辛うじて街灯の光が影を生んでいるが、輪郭がぼやけてしまっていて、もはや人型にも見えない。だが、声は未だ明瞭に聴こえてくる。

「さあ悠人。もう夜になっちまったが、そんなことどうでも良いよな。ここからが本題、もとい問題だ。さっきまでは考えようともしていなかったみたいだが、今ならきっと解る。さあ、答えを出してくれ。『どうして翔華は悠人にお別れを告げたのでしょう?』」

 その問いは概ね、影の男が初めにしたものと同じだった。振られて傷心の人間に掛ける言葉としては最低の類だ。僕はさっき、そんな問題の答えは判り切っていると切り捨てた。

「……それは、僕が翔華に頼り切っていると、翔華にばれてしまったから。人付き合いからは逃げ、翔華だけが居れば良いって高校にまで付いて行って、そのくせ惨めな自分を見せたくなくて見栄を張った。挙句の果てには、翔華と仲良くなりたいなんて不純な理由で実行委員に……そこでも、僕は嘘をついたんだ。ここまでやって、『どうして振られたんだ!』と本気で言う奴が居たとすれば、そいつは本物の馬鹿だよ」

 僕は、自分のしでかしたことをまるで他人事のように語ってみせた。昔から遡って考え直した効果なのか、すらすらと僕がいかに駄目な人間であるか説明出来てしまったのが切ない。

 僕の答えは出した。だというのに、影は黙ったままだ。ひょっとすると、僕が質問に答えたことで、影の男も消えてくれたのだろうか。

「そんなわけ、ねえだろ」

 吐き捨てるような、影の男の声。今の発言は、どちらを指して言ったものだったのだろう。どっちもか。

 また黙り込んでしまった影の男を背に、僕は頭を掻いた。ああ、まただ。また僕は本心に嘘をついて、それで相手の求めた答えを出したつもりになっていた。自分の過ちを自分の影に諌められるというのは、随分きまりが悪い。

「そうだな。そんなわけない。気が動転していたさっきまでならともかく、こうも丁寧に話を組み立て直されたんだ。僕が最初に出した結論が間違いだなんて、すぐに判るさ。他でも無い、僕なら」

「自意識過剰だ」

「かもね。でも、僕が一体何年翔華と一緒に過ごしてきたと思う? 翔華は優しい。でも今回の翔華はちょっと優し過ぎる。僕を気持ち悪いストーカーだと暴いたのなら、もっと感情を昂らせて良い筈じゃないか。罵ったり、泣いたり……。翔華の様子が変だったことに、僕はもっと早く気付くべきだった」

「怒らないのがおかしいのは、誰だろうと同じだろ。そういうところが自意識過剰だっていうんだよ」

 今日会った時、翔華はずっと寂しげな様子だった。僕との別れを惜しんでいるかのように、だ。翔華は、「悠君とは一緒に居られない」「別々に生きていかなきゃいけない」と言った。これは翔華に依存する僕を突き放す言葉に思えるが、一方で翔華が僕と一緒に居たいのを我慢するような表現とも取れる。勿論これだけでは、別れたくない男による都合の良い解釈に過ぎない。これだけなら。

「悠人は、冬休みに翔華を遊びに誘わなかったな。それまでずっと休みの度に予定を訊いていたのに、あの時に限って、見栄を張った。頻繁に外出する振りをしてまで、友人と遊びに行っているように見せかけた」

「でも、翔華は毎日のように生徒会へ行っていた筈だよ。外出する僕を見ることは出来ない」

「ああ、そうだな。もし翔華が本当に――」

 本当に、生徒会に行っていたのならば。

 影の男と思考が噛み合ってきた。こいつが元から全て知っていて僕の思考を誘導したのだとすると、僕自身この推理を頭のどこかで組み立てていたということになる。たださっきまでの僕は、惚けたままでろくに考えようともしていなかったのだ。

 翔華はこう言った。ずっと悠君のこと見てたんだよ、と。考えてみればこれは噴飯ものだ。生徒会の激務に追われていた翔華が僕を見ていられた時間は、せいぜい授業の合間の休み時間程度の筈なのだから。

 だが実際はどうだろう。文化祭実行委員になって判ったことだが、会議というのはそう毎日あるものではない。だからこそ僕は会議の無い日に翔華を遊びに誘ったし、翔華も予定の有無が決まらないとは言ったが、完全に予定が埋まっているとまでは言わなかったのだ。つまり、夏休みの時点で、翔華の話していた「毎日会議で働き詰め」というのは、少々無理のある話となる。

「順調、順調。じゃあ、もし翔華が夏休みや冬休みに、意外と家に居たんだとしたら?」

「……夏休みの僕は家に引き籠もりっぱなし。冬は対照的に、毎日のように外に出かけてた。夏から冬にかけて、急に友達が出来たと思うだろうね」

 まあ、本当はただの散歩だったのだけれど。

 ところで、この推測には非常に危うい点がある。僕の外出を知るためには、翔華が窓から向かいの僕の家を監視し続けなければならないということだ。通常これは有り得ない。だがしかし。

『私、ずっと悠君のことを見てたんだよ』

 翔華の声が頭の中でこだまする。

 本当に、「ずっと見ていた」のだとしたら。

 背筋に寒さを感じ、思わず周囲を見渡した。夜の公園に人の気配は無い。

「居ねえよ。翔華はここに居ない。なにせお別れしたんだからな」

 影の男がそう言うので、一先ず安心しておこう。

 翔華がずっと僕のことを見ていて、さらに僕が翔華に依存している駄目人間だと気付かなかった。なんと都合の良い話だろうか。しかし、この方が自然なのだ。翔華の寂しげな言動も、夏休みの予定を水増ししたことも、あの帰り道に浮かべた笑顔も、翔華が僕に依存していたと考えた方が、ずっとうまく説明出来る。

「悠人はいつも、自分の視点からしか物事を捉えられていなかった。悪い癖だ。高校受験のこと、翔華の目線で考えてみろよ。幼馴染が、志望校を成績の低い自分に合わせたんだぞ。普通そんなことをされたらどう思う。翔華ならどう思うか、考えてみろよ」

 かつての僕を憎むが故にか、影の男の語気が強くなっていく。

 どう思うかだって。そりゃ、「申し訳ない」って思うさ。自分のせいで相手の将来の可能性を狭めたのかもしれないって、僕だったら滅茶苦茶に自分を責めるだろう。翔華だって、きっとそう考えただろう。

「翔華は、自分の存在が僕の足枷になっていると思ったんだろうね。だから受験の時から少しずつ、僕と距離を取った。他クラスにまで友達を作って、生徒会に入って自分から忙しくなって、僕との繋がりを絶とうとした!」

 気付けば、僕も少しばかり声を荒げてしまっている。近隣住民にこんな独り言を聞かれでもしたら様々な意味でまずい。一度深呼吸をして、心を鎮めるように努めた。

「翔華が離れたことで、悠人は面白いくらい孤立した。だが悠人は、二学期になるとみるみる内に多数の友人を作った……それが苦行だったことは、翔華には伝わらなかったようだな」

 翔華が離れたことで、僕に友人が出来た。翔華はこのことで自分の仮説を立証した気になったことだろう。自分が居ない方が、この幼馴染の人生はうまくいくのだと。

「ところが、次の年の夏になって悠人は翔華のもとに戻ってきた。友人と遊びに行く予定を全部潰して、翔華と一緒に居ることを選んだ……ように見えた」

 ように見えた、まったくこれに尽きる。今進めている説において、翔華が見たとしている僕の姿はその殆どが虚構だ。

思えば、やはりあの帰り道での問答は決定的だった。翔華はこう訊いた、「なんで実行委員になろうと思ったの」と。僕はこう答えた、「翔華が頑張っていたのを見ていたから、僕も何か、手伝えないかと思って」と。あまりにも……あまりにも間の悪い、完璧な回答だ。翔華はこれで、僕が翔華を助けるためにやってきたと、完全に信じてしまったのだろう。

ここまで来れば、今日の翔華の言動にも説明が付く。要は僕との決別だ。私のために自分を犠牲にするのはやめて、お互い別々に生きましょうと、そういうお話だった。

そして僕と翔華は、無事に離れ離れとなった。

「もう良いだろう、悠人。十分にことの顛末が理解出来た筈だ。次に考えるべきなのは、明日翔華に何をどう話すかってことだぜ」

「……翔華に?」

 ここまで殆ど一致していた影との思考が、ここへ来て再び食い違い始めるのを感じた。僕は明日翔華に会って話そう等と、考えてもいなかったからだ。

「何を不思議そうにしていやがる。翔華の想像は完全なる勘違いだったんだぞ。訂正してやれよ。自分はそんなに偉い人間じゃなくて、ただ翔華と一緒に居たかったんだって、そう言えば良い。ああ、悠人に考えさせる筈が、俺が言っちまったじゃねえか」

 影の男はまた大きな舌打ちをした。僕は影の言葉に何も答えず、ベンチから腰を上げる。冷えた体を何度か揺さぶってから、ゆっくり公園を歩き始めた。

 これで、影の男が泡を食って慌てたのだから面白い。

「どうした、悠人! まだ話は終わっていないぞ。翔華に今まで嘘ついて見栄張ってたのをばらすのかばらさないのか、実行委員の仕事をどうするのか……問題は山積みだ!」

 僕は影に背を向けて歩きながら、首をゆっくりと横に振った。靴が砂場の砂を踏んで、足に柔らかな感触を伝えてくる。

「僕らが導き出したのは、単なる一つの仮説に過ぎない。僕が単に嫌われたって可能性も、勿論ある」

「そんな馬鹿な! 翔華が笑った理由はどうやって説明付けるんだ! 夏休みの、生徒会の仕事量を偽ったのは!」

「僕の嘘があからさま過ぎて失笑したのかもしれない。生徒会が激務だと嘘をついたのは……ただ単に、僕と会いたくなかったからだ」

「そんなに疑うんなら確かめりゃ良い。かまを掛けるでも何でもして、翔華の本心を引き摺り出せよ!」

 影の男の声から、どんどんと余裕が無くなっていく。影が僕の分身であるのならばある意味不思議なことだが、影が激昂すればするほど僕の頭が冷えていくのを感じる。或いは、自分の内側の焦りや怒りが、全て影の男という形で現れているのだろうか。

 だとすれば、今の僕は結局のところ、狂った「人でなし」なのではないだろうか?

 ……かまうものか。ここまで来たんじゃないか。太陽はとうに沈んだ。これから始まる長い夜に、僕はもう頭の先まで包み込まれてしまっている。

 だから、この優しい人型の暗がりには、そろそろご退場願わなくては。

「やっと解ったよ。今のお前の態度で」

「何がだ!」

「何がも何も……僕がずっと受け入れて、放っておいていると思ったのか。お前という、存在を」

 僕は肩越しに、影が伸びているであろう辺りを指差した。

 影、影の男。超常的な存在にして、僕の心の「ひずみ」。僕の内側から飛び出てきた怪物。こいつが一体何者であるのか、僕はずっと考えていた。「お前は誰だ」という問いに、影の男は答えない。これは、僕が回答を導き出す必要のある問題だ。結局、僕はここでも不安定な仮説を立てることしかできなかったが。

「最初に影が動くのを見た時、それを僕は自分の狂気だと思った。でも微妙に違う。確かに影が動くのは僕がおかしくなってしまったからだろうけれど、影の言葉に狂気は含まれていなかった。むしろ、憔悴しきった僕よりもずっと冷静で、理性的だったとすら言える」

 影の男が急に黙った。その無言の意味を推し量ることは出来ないので、僕はそのまま話し続ける。

「次に僕は、お前を僕の本音そのものだと仮定した。傍若無人な振る舞いで、歯に衣着せぬ物言いで、僕の本心を見抜くからだ。まさに僕の隠された『影』……でも、これもちょっと違った。本音にしては僕に対して挑戦的過ぎる。お前がさっき言ったことは、僕の本心からずれていたしね」

「それは……悠人がそう思い込んでいるだけだ。悠人は本音では翔華と一緒に――」

「『一緒に居たい』!」

 ようやく口を開いた影の男は、割り込んできた僕の言葉によって再びその口を閉ざした。

 もう影の言葉は僕に通じない。影の男という存在は、今やほとんど僕自身から切り離されつつある。

「 一緒に居たい……それなんじゃないか。それこそがお前の本質……つまり、お前は僕の、何かを『したい』という想いそのものなんじゃないか。だから僕に指図するし、僕に無いものをお前は持っている。僕がそうありたいと思っている存在……お前は、僕の理想なんだ。違うか 」

 僕は自意識過剰で、人と話すのが苦手。すぐに見栄を張るけれど、その実翔華に依存している。そこへ来て影の男はどうだ。自意識過剰な僕を諌め、自分から喋りたい放題に喋って、自分を飾らない。おまけに、翔華が僕に依存しているなんて説へ僕を誘導してきた。まさに僕に都合の良い存在にして、僕の理想じゃないか……大いに極端ではあるが。

 僕の推測を聞いて、影は再び口を開く。しかしその声音は弱々しく、掠れ、既に力を失っていた。

「違う。俺は……俺は影だ。何者でもない。悠人、お前にへばりつく幽霊みたいなものじゃないか。俺がお前の理想だって。笑わせるな」

 影は本当に笑っているようだった。温かな潤いをあらん限り絞り尽くした後の、萎れきった笑いだ。

「俺の惨めさがお前に判るか。俺はずっとお前の足元を離れられない。なあ悠人、お前は空を翔びたいとは思わないのか。俺には空を翔ぶどころか、何一つ自由に出来ることなんてない。それがお前の望みか。理想なのか」

 影がここまで自らの想いを吐露するのはこれが初めてだ。やはり、影には影の意識がある。僕の心が生み出した作り物であったとしても、母親の胎内で子が心臓を脈動させるように、影の男は自らの中に血を巡らせているのだ。

 それにしても、と、僕は余計なことを考えてしまう。何故影はここまで自分を貶めるのだろう。ひょっとして、それが自意識過剰な僕の裏返しだということなのだろうか。だとすると、我ながら理想像が極端過ぎる。つい、影の男に背を向けたまま笑みを浮かべてしまった。

「そうだな。僕は翔びたくなんかない。お前はやっぱり僕の理想だ。お前は立派な影だが、なんなら僕だってずっと影だったんだから。翔華の背中に隠れる影……ずっと、翔華にくっついて生きてきたんだ」

 もし僕がどこかの瞬間で、自分の羽で空を翔びたいと思ったとしたら、きっと翔華と別の高校に進学していたのだろう。翔華なんて関係なく友達を作ってみたり、或いは一人を選んだりして、それを自分の当たり前としていったことだろう。

「僕が翔ぶ……自分の力で何かしたいだなんて、思わなかったし、思う必要も無かった。だって、傍にいる翔華が代わりに翔んでくれる。翔華に付いていけば、友達なんて作らなくても、自分の将来を不安に思わなくても良い。だから僕は、影だ。翔ぶ鳥と形は同じでも……全然、翔べやしない」

 影に聞かせるつもりか、それとも独り言か、僕は砂場の上に立ったまま、そんな風に語ってしまっていた。

「本当は翔華も、僕に頼っていた部分があったんだろうね。それは少なくとも正しいと思う。お互いがお互いの影に隠れていたってわけだ。今日まではね」

「……これからは、違うって言いたいのか」

 影の声が、落ち着いたものに変わっていた。僕を誘惑する猫撫で声とも、苦痛と怒りに満ちた囁きとも違う。優しさは無いが、同時に悲嘆も意地の悪さも抜けきったその調子は、どこかため息にも似ている。

「さあ。これからどうなるかは解らない。ただ、これだけははっきりしている。一つに、僕と翔華がもしまた一緒になったら、今度こそ二人で潰れてしまうだろうってこと。翔華の判断は、多分正しいんだ」

 僕は両手を軽く上げると、自分の左手で右手を握った。強く、指先が白く変わる程に。そして離す。俯いた視線の先、足元の砂場の上には、子供たちが作っていった砂の城がまだ残っていた。夕陽に照らされて赤々と燃え上がっていた城壁や屋根は、夕方からの風に吹かれていたるところが崩れてしまっている。青黒い月光に曝され、まるで落城した要塞のようだ。

「そして、もう一つ。僕と翔華はね。もう、お別れしたんだよ」

 形を失いつつあるその城を、僕は力いっぱいに蹴り飛ばした。

 砂が大きく舞い上がったその瞬間、僕の背中から黒々とした何かが、大きく羽ばたいていった、ような気がした。

コメント

  1. START より:

    サークルの内部誌に投稿した小説です。今回カオスの坩堝に投稿するに当たって、通算二回目の改稿を一部において行いました。文量、完成度の観点からこのような場に晒すことに対して強い抵抗を感じたのですが……まあ、勘弁してください。感想や批判を貰えると作者が喜びます。

  2. nininga より:

    結局七月の町内放送の件は解決したのですか

    その話を聞いて気になったので
    そういった時間とかに気を配って読んでみたのですが
    一般の公立高校の下校時間を調べると1530くらいで、
    そこから視聴覚室にいって彼女と話して
    絶望して公園に行くのに40分かかるのか少し疑問に思いました。
    (あくまで個人の意見です)

    • START より:

      夕焼け小焼けは何時か実際のところ確定しないので、まあええかなと……正直なところ、細かいところは重要ではあるのだけれど、本作において時間の正確さは全く本質的でないので、無理に突き詰めないでおきました。