恩と仇

あの娘が来たのは寒い冬の夜でした。
「ごめんください。どなたか、食べ物を分けてはいただけませんか」

飢饉の口減らしのため、住んでいた村から殆ど追い出されるように旅に出たという娘を、あの人はすぐに家の中に通しました。あの人というのは、ええ、そうです。私の夫のことです。
心優しいあの人のことです。野垂れ死にそうな娘をそのまま放っておく筈もありませんでした。娘にご飯を食べさせている間に、あの人は私に相談をしてきたのです。彼女をこのまま家に住まわせてはくれないか、と。
私に断る理由なんてありませんでしたし、実際表向きは快くその提案を受け入れました。着のみ着のままで旅に出ている娘をそのまま放り出したりなどすれば、すぐに死んでしまうのは確かでしょうしね。ですが、私は彼女を家におくのは、本当は嫌でした。
「ありがとうございます。このご恩は、どのようにお返しすればよろしいのやら」
そう言って頭を下げた娘を見つめるあの人の横顔を、私はじっと見ていました。いつも通りの穏やかな表情からは、何かを読み取ることはできません。とはいえ、まさか気付いていない筈もないでしょう。娘が、この世のものと思えない程に美しいということには。

私の不満が、全て娘への嫉妬から来るものというわけではありません。最初から、私は娘に対して、ある疑惑を抱いていたのです。それは、彼女の美しさが、本当に「この世のものではない」のではないかということです。つまり、娘は雪女なのではないかと、そう思ったのです。おかしな妄想でしょうか。いいえ、いいえ。そうではないのです。まず、あの娘は着のみ着のままやって来たと先程お話しましたね。そこからしておかしいのです。少なくとも山一つは離れているであろう彼女の故郷からここまで辿り着いたにしては、何も持っていなさ過ぎるのです。食べ物や水を持ち歩いていた様子はありませんでしたし、服なんてぼろぼろでした。真冬にあれでは一日と持たないでしょう。あの娘が何であるにしろ、少なくとも村から追い出されて旅をしてきたという話は真っ赤な嘘です。そして、そんな嘘をつく必要がある人間がどこにいるというのでしょう。
私の考えはあながち間違っていない筈ですが、娘を助けようとしていたあの人の手前、あの娘は雪女ですだなんて、なかなか言えたものではありませんでしたね。ああ、でも、あの時ちゃんと反対しておけばよかっただなんて、何度後悔したか分かりません。

こうして雪女、仮にそう呼ぶとしますが、それとの生活が始まりました。元々雪が降るような寒い時期でしたから、居候に外に出てやってもらうような仕事はありません。当然、雪女には家の仕事を手伝ってもらうこととなりました。雪女はよく働きましたが、これも私にとってはあまり良いこととは言えませんでした。雪女の作るご飯は、私の作るものよりずっと美味しかったのです。これでは妻としての面目は丸潰れではありませんか。私はしばしば雪女に、炊事は私に任せるようにやんわりと告げていましたが、雪女は、
「いえ、居候として当然のお仕事ですから」
と言って、聞き入れませんでした。きっとわざと私の仕事を奪ったのでしょう。あの人に取り入るために。
ある日、雪女は私とあの人を呼んでこう言いました。
「私はこれから、奥の部屋で機織りを致します。その間、必ずや部屋の中を覗かないようにだけ、お願い致します」
確かに、奥の部屋には古い機織り機がありました。私がかつて使っていたものです。今はもう織るような体力もなく、長い間放っておいていたものですが、糸は残っていましたので、それを雪女に貸しました。しかし、部屋を覗かないようにとはどういうことでしょう。私としてはそのことに不安や恐ろしさを感じていたのですが、あの人は、
「集中したいのだろう」
と言うだけでした。雪女への信頼の表れなのかもしれません。
数日の後、雪女が持ってきた織物を見て、私は確信しました。やはりこの娘は人間ではないと。雪女の織った布は、滑らかで軽く、夢のように美しかったのです。そう、ちょうど、雪女自身のように。おおかた、見られていない間に正体を現し、妖術の類で美しい布を作ったのでしょう。あの人は布が大層お気に召したようで、是非自分の着物の布も作って欲しいと雪女に頼むのを、私は必死に止めたのです。きっと雪女の目的はまさにそれで、雪女の作る着物を来たら最後、あの人は雪女に今度こそ取り憑かれていたところだったのでしょう。恐ろしいことです。出来上がった布は高く売れましたが、私はあまりよく売れなかったと嘘をつきました。これ以上、雪女に機織りをさせないためでした。

そして今に至ります。雪女がこの家に棲み着いて、早一年が経ちました。ここのところ、あの人は咳と熱で寝込んでしまっています。あの人はただの風邪だと言いますが、私はそうでないことを知っています。雪女が、少しずつあの人の生気を吸っているのです。雪女はこの一年で、あの人の信頼を勝ち取りました。私はあの人と娘をなるべく遠ざけようと努力しましたが、妖しの力には勝てなかったのです。先日、私に黙って雪女に作らせた着物をあの人が来ていた時などは、目の前が真っ暗になるように感じました。敗北。絶望。私はあの人をついに守りきれないのかと、己の至らなさを恥じました。

でもね。でも、まだ終わってはいなかったのですよ。雪女は油断したのです。私がもう、雪女にとって何の邪魔にもならないと、思い込んでしまったのです。
あの人から遠ざけるだなんて、今まで回りくどいことをやってきたものですよね。それでは結果は、あの人を失うという結果は変えられなかったのでしょう。最初からこうするべきでした。
春、夏、秋、そしてまた冬。この一年、本当に色々なことがありましたね。あの人はずっと雪女を大切にしていて、私は雪女にしてやられ続けだったわけですが、最後にはこうして勝てたのですから、何を恨むこともありませんとも。

昔話、というほど昔のことでもなかったかもしれませんが、楽しんでいただけましたか。本当はもっとお話していたかったのですけれど。いいえ、いいえ。私は何も恨んでおりませんし、呪うこともありません。ただ、私はやるべきことをするだけなのです。夫が妖怪に捕まりそうだというのに、助けない妻がおりましょうか。これまであの人と共に歩んだ幾年もの御恩を、今こそ返す時なのです。そんな機会を与えてくれたこの一年に、私は感謝すらしているのですよ。