sudo systemctl stop
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サーバーにそのコマンドを打ち終えてから、僕はふぅとため息をついた。息を吐き出してから、今打ったコマンドに、自分が何の感慨も持っていないことを理解した。それは多少の感慨を僕に与えた。
自分が持っていたサービスの一つが終わる。そう考えれば、もう少し感情が湧いてきても良いようなものであった。たとえそれが、コマンド一つで成し得ることにせよ。
ふと頭によぎる。初めてサーバー管理をやったのはいつだったっけ。とあるゲームを多人数で遊ぶためのサーバーを立てた。これが僕とLinuxコマンドとの出会いでもあった。始めた当初は右も左も――いや、「ls
もcd
も」分からない。片っ端からGoogle検索に打ち込んだ。メジャーなゲームであったことも幸いして情報には事欠かなかったが、それは必ずしも全てがうまく行くことを意味しなかった。手順通りにやってもシステムがエラーを吐くことは日常茶飯事だった。慣れない夜ふかしをしながら、ログを読んだり、ウェブサイトを熟読したりして、またコマンドを打ち込んだ。
その分、サーバーが正常に立ち上がった時は、天にものぼる気がした。自分が立てたサーバーだ! マシンのスペックが低かったから少し遅かったけれど、でも、楽しかった。自分がそれをやったという確かな触感があった。
震えながらコマンドを叩いた。コマンドをいじることそのものが楽しかった。
それから数年がたった。Linuxが気に入った僕は、サーバーのみならずデスクトップにもインストールし、 Linuxコマンドを打ち続けている。当時とは比べ物にならないほどのコマンドを知った。コマンドだけではない。Linuxを使ってサーバーを運用するためのノウハウも、もちろんプロには届かないだろうけれど、自分で小さなサーバーを提供するくらいのことはできるようになった。コマンドをまとめて、シェルスクリプトも書けるようになった。いまだに夜ふかしは苦手だが、それでも当時よりは睡眠時間を削れるようになった――それが本当に良いのかわからないけれど。とにかく、ほとんど全てが順調に見えた。
でも、本当にそうだろうか。
まるで単純作業のようにコマンドを叩いている。あのころ僕に合った感情はどこへ行ってしまったのだろう。一つコマンドを叩くだけでワクワクしたあの頃とは、だいぶ変わってしまったような気がする。
もちろん頭では分かっている。仮に、毎回ls
やcd
を打つたびにノスタルジーに浸るSEが居れば、どんな会社であれ即刻クビだろう。何度も何度も使ううちにそれらは当たり前の存在になる。無意識の内に使うようになる。そうでなければまともに作業などできない。
そうして、コマンド一つでサービスが終わる。特に通知もしないから、それを知る者は僕を除いて誰も居ない。静かなる幕引きだ。静かに、皆が遊んでいたゲームが終わる。
それはきっと、悲しいことのはずなのに。
コメント
この記事はフィクションですん。現実世界の事物とは一切関係ありますん。
すこofすこ
上達に伴って喜びは減るけど、それによって逆に上達を認知出来たりするよな