隙あらば自分語り(2)

2月の頭に大学が事実上の春休みに入ってから、起きている時はほとんどずっとパソコンに向かっている。わたしが主に使っているパソコンは2台あるけれど、どちらもDropboxで同期されているから、やっていることは似たようなものだ。画面にはターミナルとエディタとブラウザ。わたしのパソコンを覗き込むことがある人には知っておいてほしいのだけど、こういう画面になっているとき、わたしは大抵プログラムを書いている。話しかけてもロクな返事が返ってこないので要注意だ。

2月前半はおおよそMioのことで頭がいっぱいだった。 MioはイントロクイズゲームができるWebアプリである。「イントロ」と銘打っているが、実は曲の途中からでもランダムに再生ができるので「中トロ」か「ラントロ」のほうが実態には合っている。出題者が居て、問題にする曲をアップロードし、回答者はそれを聞いてクイズの答えを送信する。出題者が各参加者からの解答の正誤を入力すると、自動的に正誤数がカウントされるようになっている。シンプルなゲームだ。行ったことがないけれど、きっとハッカソンとかだと1日で完成するんじゃないかな。わたしは3週間かかったけど。

Mioでは「サーバ」と呼ばれる中枢のコンピュータを用意して、出題者と回答者側――「クライアント」という ――がサーバと協調して動作することにより、イントロクイズを行っている。さっきの仕組みと合わせると、まず出題者が問題の曲をサーバに対してアップロードする。サーバはそれを受け取って、クライアント ――この場合は回答者だ――に送信する。回答者が答えを入力すると、これもまたサーバを経由して出題者に送信される。きょうび、他人と一緒に遊ぶタイプのゲームやツールは、おおよそこの仕組みで動いている。

この手のアプリケーションは作るのが難しい、と思う。大抵なんでも「協調して動く」というのが難しいのは、国際社会を見ていればよく分かる(ここは笑うところ)。プログラムだって例外ではない。途中で回答者が居なくなったらどうするか。出題者が居なくなったらどうするか。そもそもサーバが不具合で止まってしまったらどうするか。回答者が悪巧みをして、サーバに攻撃を仕掛けてくるかもしれない。そうなったときサーバはどのように動くのが良いのか――考え出せばキリがない。

ところで「プログラミングには数学が必要だ」というのは(プログラマの間では)よく話題にのぼるトピックだけれども、わたしはむしろ「プログラミングには論理が必要だ」のほうが正確に物事を捉えていると思う。実際(命令的な)プログラムは「まずこれをして、この場合には次にこれをして、そのあと これこれという条件になるまではこれをして、それが終わったら始めに戻る」みたいなものだから、これを正しく書くには論理の力がプログラマに無いとダメだというのはある意味当然だろう。Mioのようなプログラムをつらつら考えていると、まるでプログラミングが論理パズルのように思えてくる。「もしここで回答者の接続が切れていて、出題者も接続が切れていて、しかしゲームは続行中という状況がありえるだろうか?」

数学とか論理パズルとか、実はあまり好きではない。少なくとも熱狂的な支持者ではない。できれば避けて生活したい。大学というのは、そういう意味では不便な場所で、「単位」という名のもとに数学の授業を受けなければならない。無駄に負けず嫌いだから、試験があるなら勉強しなくては気がすまない。つくづく損な性分だと思うが、それでGPA芸人ができているから、損ばかりでもない。試験期間には呪詛の念を吐きながら数学の授業ノートに向かっている。こんなところからおおよそ予想がつくかもしれないが、勉強した数学の知識の8割くらいは試験が終わると頭から抜け落ちてしまう。「ラプラシアンってなんだっけ?」つまり学期の9割くらいは数学ができない。数学ができないということは、まぁ、論理の力もあんまり無いということである。

こう考えてくると、自分はどうにもプログラマには向いて無さそうだなと感じることになる。実際、数学や論理をフル回転させる競技プログラミングは、性に合わなくてやめてしまった。勘違いをしてプログラムにバグを埋め込んだり、論理的に考えれば絶対にできないことを可能だと思いこんだりしたことは数え切れない。そのたびに「賢い人はこんなことで悩まないんだろうな」などとぼんやり考える。どうしてこんな物を好きになったんだろう。

現代には集合知たるWWWが存在する。要するにGoogleである。最近はプログラミングを嗜む人が増えてきたこともあって、自分が悩んでいることを「ググれ」ば、解決法が見つかることも多くなった。それから、足掛け9年もプログラミングをやっていれば、頻出する論理――この場合アルゴリズムともいう―― は否が応でも覚えることになる。結局やっていることは「コピペプログラマ」みたいなものだ。ここまで「論理が大事!」と書いておいてひどい話だけれど、こうやってずっとプログラムを組んできたのだろうし、いまも組んでいるし、これからも組んでいくのだろう。

何かプログラミングで作品を作っていると、おおよそ一日中そのことを考えている。プログラミングが好きだからだ、というのも一つあるけれど、そこまで考えないと良いプログラムを書けないから、というのも大きい。これは割合に負担が大きくて、作品が一応の完成を見た次の日に偏頭痛で吐いたりするのはこの習慣のせいだろうと思わなくもない。ずっとこれを「まぁプログラム書くのが好きだし、ちかたないね」で済ませてきたのだが、学部生活も残り少なくなってきて、ふと就職のことが気になった。 Twitterでよく見る「適当に手を抜かないと自分が体を壊す」言説にピタリと一致している。職業プログラマには向いていないなと、こんなところでも感じる。

ところで、このあいだMioを(とりあえず)作り終わって、暇になった。こんなこともあろうかと、ブックマークの「あとで読む」フォルダを見ると “Learn You Some Erlang for Great Good!”が入っていたので、一昨日から読み始めた。英文だが、げらげら笑いながら楽しく読んでいる。やっぱり技術文書はこうじゃなきゃなぁ。自分もこういう文章を書きたいものだ、などと思いつつ特段オチのない鬱記事を終わる。

コメント

  1. nininga より:

    ぁたまゎるぃヵらょくゎヵらなぃ