晩雷

 氷川哲郎の様子がおかしい、という報せが入ったのは、面会時間が終わる間際の夕暮れ時だった。

 看護師と連れ立って病室の引き戸を開ける。中では私を呼び出した張本人、哲郎の息子が待ち構えていた。

「哲郎さんに何かあったとお聞きしましたが」

「ええ、その」見た目に四十は過ぎでいるであろう哲郎の息子は、落ち着かない様子で薄くなり始めた頭を擦った。

「 仕事帰りに会いに来たんですが、私が来た時にはもう。その、病状が悪化したというのではなさそうなのですが」

「それは私が判断いたしますので」

 患者の家族が体調の急変を受け入れられないというのはよくあることだった。そのまま哲郎の容態を診ようとした私を、しかし息子は何故か腕を掴むことで制した。

「違うんです。苦しそうにしているのではなく……ただ、ずっとそこのベッドに座っているんです。何だか気味が悪くて」

「気味が悪い?」

 実の父親を表す語彙としては些かそぐわない。

 息子の指差す先、病室のある一角では淡いピンク色のカーテンが閉じられたままになっている。その二畳もない区画が、哲郎がその一生を終えるために与えられた唯一の空間だった。

 氷川哲郎は患者としてはごく扱いやすい部類と言えた。入院時は八十を前に した老人とは思えないほどに矍鑠とした様子を見せ、よくラウンジに出てきては窓際で経済新聞や将棋雑誌を読み込み、「こんな時にコーヒーが飲めれば」とぼやくという、非常に模範的な老人の振舞いを見せていた。難しい性格ではあるのだろうが、頑固親父、というには哲郎は勤め人の精神を残し過ぎている。退職後も将棋以外に趣味を持たなかったと見え、私の診察を受ける時などは、正に上司の命令を聞く部下といったような生真面目な顔で耳を傾け、取る必要の無い瑣末なことまで一々メモ帳に書き込んでいた。窮屈な仕事人間の抜け殻、というのが私から見た 氷川哲郎という老人であった。

 手術で胃の一部を摘出してからというもの、哲郎は日に日に弱っていった。ベッドに座って黙り込む時間が増え、気付けばベッドの傍らに積まれた雑誌も古いものばかりになっていた。最早近いうちにやってくる醒めぬ眠りを待つのみという様子で、 言うなれば抜け殻の抜け殻だ。哲郎とあまり友好的で無かったらしい息子をはじめとした肉親達が、弱り果てた哲郎を見て今更肝を冷やしたのか、ここに至って頻繁に病室へ訪れるようになったというのは皮肉な話である。

「哲さんな、ずーっと泣いとるんじゃとお」

 ふいに別のカーテンの奥から嗄れた声が飛んできたことで、私の意識は病室へと戻された。声の主は哲郎と同室の嶋岡という患者で、私がここで働き始めた頃から病院に住んでいる老爺だ。内臓がぼろぼろであるにも関わらず今日まで飄々と生きながらえてきており、既に院内では妖怪かアンデッドのような扱いを受けている。

「嶋岡さん、起きてらっしゃったんですか」

「儂はずっと起きとる。哲さんと話ができんで、退屈をしとっただけでな」

 氷川哲郎があんたと話したがったことはないだろうに、と言いそうになったのを喉元で飲み込む。本来この病室は四人部屋だが、つい先日に退院やその他の理由によって二人の患者が病院を離れたため、一時的に二人部屋となっているのだった。静かに過ごすことを望む哲郎のような人間には不幸なことだろう。

「その、嶋岡さんの言う通りです。親父、ずっと泣きっぱなしで」

 私の白衣を掴んだままの息子が言葉を継いだ。やんわりと身振りでその手を解かせる。

「今回は哲郎さんにとっては初めての長期入院ですからね。ストレスに感じたり、不安になったりするのはむしろ当然です。必要だと判断すれば私と看護師でケアをさせていただきますので……」

「いえ、ただ泣いているだけなら良いのですが、その」

「何ですか」

「ああ、いえ……」

 自分の語気に僅かな苛立ちが混じったのが判った。目の前の男の様子はどうも要領を得ない。患者のためならばともかく、あまり長い時間を家族への説明に費やすほどの余裕は無い、というのが本音だ。そもそも既に面会時間は終わっている。

「哲さんなあ」

 何とか息子に口を噤んでもらう算段をしていたところへ、嶋岡が口を挟んだ。

「でも哲さん、泣いとるにしては静かなんじゃ。なんか喋るなり、 叫ぶなりしてもええじゃろうに」

 そう言われて初めて気付く。確かに、哲郎のベッドからは嗚咽どころか一つの物音も聴こえてこない。人がそこに座っているということすら不確かに感じられる。ベッドから起き上がったらしい嶋岡が、細くカーテンを開けて私の顔を覗き込んできた。土色にくすんだ皺だらけの顔。ゆらめく布地の隙間に現れるその容貌は、まさに妖怪と呼ぶに相応しい。

「なあ、お医者さん。哲さん、本当に泣いとるんじゃろうか」

 老爺の丸過ぎる眼球に見つめられた私は、すぐに手で降参の構えを取った。

「分かりました。私が様子を見ますから、嶋岡さんは寝ていてください」

「そうかあ」

 私の答えに満足したのか、それだけ言うと嶋岡はすぐに奥へと引っ込んだ。化け物の登場に怯えた様子の息子を尻目に、私は哲郎のベッドへと近付く。

 カーテンを開けると、そこには確かに哲郎が居た。ベッドから体を起こし、彼の息子の言う通りその頬には涙が伝っていた。伝ってはいるのだが。

「笑っている」

 哲郎は涙をとめどなく流しながら、しかし確かに笑みを浮かべていた。 元気な時からして殆ど見せたことのない、まるで屈託のない笑顔だ。

「変でしょう。こっちが話しかけても生返事ばかりで」

変どころか、異様とすら思えた。思ったままを言えば、正気を失っているようにしか思えない。すぐに哲郎の真横に屈み込んだ。

「氷川さん、どうされましたか。どこか痛みますか」

 きっと無視されるだろうと思っていたその言葉に、しかし哲郎は振り返って視線を合わせることで応えた。

「松本さんか」

「ええ、担当医の松本です。どうかなさいましたか」

 この間も哲郎は涙を流しながら笑っている。

「どうもしておらんよ。ただな。雨が降っとる」 哲郎の言葉に、窓の外へと目を移した。

 そこにあるのは消えかけの夕焼けで、雨雲の気配等微塵も感じられない。私は小刻みに首を横に振った。

「雨なんて降っていませんよ。綺麗な夕焼けです」

「夕焼け? いや、そんなことはない。降っとるんだ。外へ出たのは随分と久し振りなんだよ、松本さん。 嗚呼、気持ちが良い」

 哲郎は窓の外を見ることもなく、私の方を見つめたままでそう返した。それでやっと気付いた。哲郎は私の目を見ていない。確かに眼が合っている筈なのだが、どうやら彼は違うものを見ている。それが何なのかは判らないが、確実にこの世界とは切り離された何かだ。

「雨粒が顔に当たるんだ」哲郎は喉を震わせた。「大雨だよ、春の嵐というやつだな、これは。風が、濡れた草はら が、こんなにも爽やかだったとはなあ。知らんかったよ」

 そう言って、哲郎は声を上げて笑った。私はその様を最も近くで目の当 たりにしていたわけだが、天に誓おう、彼の笑顔の中に狂気や絶望のようなものは一片 たりとも見て取れなかった。ただ氷川哲郎は、久方振りに浴びる雨を楽しんでいるようだった。止まらぬ涙に顎までもを濡らしながら。

「儂はな、松本さん」

 違う世界に居るのだろう私へと、目の前の老人は訥々と話し続ける。

「儂は、もう何にもなれんと思っとった。何にもなれんかったし、何にもなれんと。だが儂はまたこうして歩いとる。有難うな、松本さん」

 哲郎が背を曲げる。彼が仮にも私に礼を言ったのは、これが最初で最後だ。

「氷川さん。これからどこへ行かれるんですか」

 その時の私の問いは、医師としての領分を逸脱したものだっただろう。私が答えを求めた相手は、病床で死を待つ老人だったのか、それとも嵐を歩く幸福な男だったのか。その点については、未だに自分の中で結論が付けられていない。

 少なくとも、氷川哲郎はその問いに答えをくれた。

「会いに行くんだよ、うちの馬鹿息子に。随分と放ったらかしてきた。今なら、詫びの一つでも入れられる気がする」

反対側のベッドから、嶋岡が渇いた手の平で出鱈目に拍手をする音が鳴り響いてきた。部屋を満たすその音に埋もれるように、哲郎の息子が嗚咽交じりに泣く声もまた、私の耳に届いてくるのだった。