壁に向かって喋ってろ(AA略)

 最近は、なにかに赦しを請うかのように本を読んでいる。

 修行のように大量の本を濫読しているという意味ではない。8月初旬には専門に関してひとつの峠があったが、そこを越えて以降はむしろ以前よりも読むペースは落ちた。書くのも遅々として進まないので実際スランプなわけだが、これは8月初旬がどうこうではなく、あるいは夏が悪いのでもなく、ただこの4月から続く低空飛行の日々が、ゆっくりと私からなにかフロギストン様の物質を削ぎ落としていった結果だと思っている。まだ結果ではなく、過程であろうが。

 冒頭に記した赦し云々というのは、ただ私の読書に対する姿勢にある。たとえば古典的名作と呼ばれる小説を、たとえば今年刊行されたばかりの話題の新作を、私はどうも卑屈と呼んで差し支えないような心境でもって読破し、積ん読の棚から既読の棚へと運ぶ作業を繰り返している。今年に入って買ったばかりの書棚だ。そこに並んだ積ん読を一冊消化する度、借金の利息を返したような気分になる。なにかを読むにせよ書くにせよ、当然その基盤にはこれまでの積み重ねがある。私はその土台がひどく弱い。故にもっと本を読まなければ。義務感と焦燥が今の私の主な燃料だ。読んでいた小説の奥付に指が触れた時、わたしは少しだけ安心して、また一段と怠惰になる。平均睡眠時間は十時間を超えている気がする。もっと起きて、もっと読まなければいけないのに。

 しかし。「読んでいない」という罪を埋めるための読書になんの楽しさがあろうか。読書は実利ではない、といった論は最近でもそこここで目にする。本は楽しんで読みなさいと。きっとそれは正しい。小説を読むことでなにかを汲み取ろうとしている私は、ただ事を急いているだけだ。あるいはそもそも向いていないのかもしれない。自分に鞭打たなければ本の一冊も読めないなんて。

 小説を読むのが楽しくないわけではない。小説を読むのはとても楽しい。これだけはまだ信じていたいことの一つだ。小説を書きたいという欲望のために、本の表層を啜って感動する自分を演じているだけ、そんな可能性を払拭できないことが憎い。自分の無知から逃げようとして本を読んでいるのか。自分の無知を自覚した気になるために、こんな文章を書き散らして、あまつさえ公開しようとしているのか。お願いだから美しい小説に鳥肌を立てることくらい赦してくれないか。

 面白い作品に出逢ったと感じた時、私は自室で興奮に身悶えする。素っ頓狂な叫び声を上げることで、自分はまだこんなに小説を味わえるんですとなにかに赦しを請うている。「畜生」と呻き声を上げる。あるいは、「殺してくれ」。こんな面白い小説を今まで読んでこなかった俺を殺してくれ。こんな面白い小説を書けない俺を殺してくれ。赤子のように無知であるがために、なにかを知る度安っぽい雷に打たれる俺を殺せ。

 そうして赦しを請う無様な自分を赦さずにいることで、今日も私は内心のバランスを保っている。なにに赦しを請うのかといえば、自分自身を除いて他にはいないのだ。私は私を絶対に赦さない。何遍でも復唱したい、これを座右の銘と呼ぶのだろうか。

 半年ほど前からは、ベランダに安物のキャンプチェアとローテーブルを置きっぱなしにして、時々外で本を読んだり原稿を書いたりしている。ひっきりなしに虫に刺されるのと、椅子が日焼けしてガサガサになっていること以外は快適な作業場兼休憩所だ。今も私はそこに座っている。自分の部屋のにおいには、もうほとほと飽きてしまった。今夜は月こそ見えないものの、雲が天の川のように天頂を走っていて悪くない眺めだ。

 という締めの言葉を少し前から用意していたのだが、改めて見上げてみると空は既にその全面が雲に覆われていたので、ここに再度正直な報告を記しておく。空には今、僅かに火星の光だけが見えている。