こんな短期間で、しかもたった二回の投稿で完結する小説なんてかけないよ〜という一青年の苦悩と進化論とヨツコブツノゼミ

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の4日目の記事です。

 
 

 小説? いやいやいや、なかなか書けないですよ、今は。受験期ならまだしもね、今はなんてったって、忙しいんですよ。ミステリ研で出すために書いた短編なら何個かあるんですが、こう言う場で出すのって書き下ろしの方がいいでしょう? いや、書き下ろしの方がいいんですよ、僕のこだわりですけど。てなわけで、僕の十八番の連載小説は今年のアドベントカレンダーでは読むことができません。読みたい人は融合不定記の書籍版をチェックしてねっ!
おっとこれは失礼、自己紹介が遅れましたね。僕はタクシャカと申す者でございます。生まれは橿原育ちも橿原、一介の奈良県民でごぜぇます。小説を読むこと書くこと、そして毒を持った生物が大好きです。ここまでやたらテンションが高い文体で書いていますが、かなり無理をしております。私、もともとはこんなイタイ文章を書くのは好きじゃありません。ですが久々に小説以外の文を投稿するということで、なんか自戒もこめてこんな感じで書いている次第なのです。ていうか、ちゃんとした専門家でもない人間がわかった顔をしてこんなところにエッセイを投稿するっていうのにもいささか抵抗があるんですよ。でも時間がないのは仕方がない。なるべく他所に出しても大丈夫なエッセイを、ビシッと書いてやりますよ、ええ!
 ところで皆さんはヨツコブツノゼミという昆虫を知っていますか? 知っていますよね? そうです、学名が「Bocydium tintinnabuliferum ボッキディウム チンチンナブリフェルム」であることで有名な、あのヨツコブツノゼミです! 何というか、卑猥ですね~。しかしこのヨツコブツノゼミ、実は学名なんかよりももっと興味深い特徴がたくさんあるんです。そして僕は、これらの特徴が、ラマルクやダーウィンといった名だたる進化論者が唱えてきた説を根本から否定することのできる材料になると考えているわけなんです。
 で、その重要な特徴というものがですね~……。いや、これを説明するにはまず、僕がなぜヨツコブツノゼミに興味を持つようになったのかを話さなければ/
 

 

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 ここまで読んだ私は、深いため息をついた。Twitterで面白そうなタイトルのエッセイが流れてきたから読んでやろうと思ったんだが、一体なんだこれは。文体がイタすぎる。気持ち悪いことこの上ない。数ある自分語りの中でもトップクラスに意味のない類の情報をつらつらと並べるくせに、一向に話の本筋に入る様子がない。軽い口調でエッセイを書くのは別に構わないが、読み手を説得させるにはそれなりの筆力が必要になってくる。が、それがこいつにはない。まったく、よくもまあ、こんな低俗な文章を世に放とうと思ったものだ。
 もう一度ため息をついた私は、横のテーブルに視線を移した。
 乗っているのは山積みになった紙の束。イナズマ文庫長編小説大賞の応募原稿だ。
 応募原稿、といっても私が書いたものじゃない。私はこの小説賞の審査員なのだ。この原稿の中から光るところがあると思える作品をピックアップし、主催する出版社に評価シートとともに送付する、ただそれだけの仕事。私自身イナズマ文庫で本を出していることもあって、その縁で依頼が来たのだ。
 引き受けたときは、小説家の私からすればこれほど楽な仕事はないと高をくくっていたのだが、これが蓋を開けてみるとなかなかきつい。ありきたりなストーリーにどこかで見たようなキャラクター、稚拙な日本語誤字脱字。レベルの低い投稿作品たちはこれでもかというほどに私の精神を疲弊させた。
 それで疲れをとるためにネットを覗いたところで、今のクソみたいなエッセイに出会ったというわけだ。
 このエッセイを読んで受けたショックは、私を打ちのめすには十分すぎるものだった。この世にはもう、否、私が読む文章にはもう「つまらないもの」しか残っていないのではないか、そんな感覚にさえ陥ったのだ。
 何をそんなにもオーバーに、と思われてしまうかもしれない。もっともだ。今思い返してみると、あんなにもナーバスになることはなかったんじゃないかと自分でも笑ってしまう。が、しかし、落ち込んでしまったものはしょうがないじゃないか。
 私は紙束からなるべく目をそらすようにして冷蔵庫の方に歩いた。なんのことはない。ただ、冷たい麦茶を一杯飲んで心を休めたかったのだ。
 だが、テーブルを視線から外して横を抜けようとしたのがいけなかった。お留守になった我が左足はテーブルの脚にまんまと引っかかり、私は着水に失敗したカエルのように床に叩きつけられた。大きく揺さぶられたテーブルから原稿がバサバサと音を立てて崩れ落ちる音が聞こえる。
 泣きたくなった。人間、案外こういう時に涙を流す生き物なのだ。
 よろよろと起き上がり、床に散らばった原稿に目をやる。酷いもんだ。もともとしょーもない作品ばかりだが、こうなるともうただのゴミだな。
 心中で悪態をつきながら原稿を拾い上げていく。これは読んだやつ、これはまだ読んでないやつ、と大雑把に仕分けするうちに、私はその紙の山に妙なものが混じっていることに気づいた。
 小説の賞の原稿に混じるにはおよそ不釣り合いと言えるであろう物体、それは/
 
 

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「フウコ、ご飯よ。今すぐ降りてきなさーい」
読んでいた物語が今まさに転がり始めようとしたその瞬間、階段の下からお母さんの声が響いてきた。いつもなら「ちょっと待って!」と叫んでキリのいいところまで読むんだけど、今日は「今すぐ」と先に指定されてしまったから仕方ない。すぐさま本を閉じて、私は部屋を飛び出して階段を駆け下りる。
 今日はあんかけ焼きそばとか言ってたっけ。それなら「今すぐ」も無理もないね。麺がすぐに伸びるから!
 食卓に座った私は――無論、食卓の上に座ったわけじゃない、食卓の座ったのだ――手を合わせると、きわめておしとやかにあんかけ焼きそばをすする。一介のJKたるもの、麺類を食べる時こそ日本人的思想を捨て、音を立てずにじっくりとすするべきなのだ。それが私の考える「ヤマトナデシコ」の理想像なのだ。知らないけど。
 麺を噛み飲み込みながら、さっき読んでいた小説に思いを馳せる。タイトルは『駄作の妖』。本屋の隅で適当に手に取ったファンタジー(っぽい)物語だ。題から分析するに、「妖」と主人公が出会う瞬間のところで読むのを止めてしまっているのだろう。
 そう考えると嫌な気分になるなぁ。物語が転機を迎えるのを見届けることと、あんかけ焼きそばを食べること、どっちが大切なの? それはもちろん前者でしょ!
 残った麺を全部お口にほおばって、一直線に(無論、階段を上がっている手前、完全な一直線とは言い難い。言葉の綾です)二階へ駆けあがる。
 だけど、ない。なにがって、そりゃあ、小説が! 机に置いたはずの小説がきれいさっぱり跡形もなしになくなってるんだから、これは驚かない方がおかしい。
 不思議な現象だなぁ、ファンタジーだなぁ。あ、もしかしてこれって私が厄介な事件に巻き込まれてしまうやつ? 王道ラノベ展開? このまま特殊な能力を人知を超えた存在から授けられたりしちゃってー、と本を探してベッドの下を何気なく確認するんだけどこれまたびっくり、どうやら私が迷い込んだのはファンタジーじゃなくてサスペンスの世界らしい。
 私の小説を抱えたまま、若い男がベッドの下で死んでいたんだから/
 
 

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「あああぁぁぁぁ、もう!」
俺はヒステリックに叫びながら、読んでいた小説を壁に叩きつけた。それを見ていた人質たちは、怯えて一斉に縮こまる。
暇つぶしもかねて小説でも読んで気持ちを落ち着かせようとしたのが、まったくもって逆効果になってしまった。というか、なんだこの話は!? まず、語り手の女主人公がエキセントリック過ぎないか? 事件の起こり方もわけがわからんし、まっとうなサスペンスやミステリーの類ではないだろう。意味不明な劇中劇が入れ子になって挟まってたし、誰かが行き当たりばったりで書いたとしか思えない冒頭だ。少なくとも、俺みたいな人間がこの状況で読むものじゃない。
 時計を確認すると、午後の三時を過ぎていた。もう俺が銀行に立てこもってちょうど三時間になる。外では機動隊員がずらっと待機し、対する俺は十数人程度の人質をとって警官隊を威圧している。いわゆる、物々しい硬直状態というやつだ。
 まったく、泣きそうになる。
こんなはずじゃなかったんだ。結婚まで約束した彼女に突然フラれて自暴自棄になった俺は、何を思い立ったか玩具の拳銃といくらかの食糧、暇つぶしのための品々を買い込んで、そのまま近くの銀行に強盗として乗り込んだのだ。今ではもう一連の暴挙を自分で後悔しているが、さっきまでの自分の精神状態なら致し方ないことだと思う。
 こんな表現をしてしまうといささか気持ちが悪いが、もう何をやったっていいから俺という悲しい男の存在を世間に知らしめたかったのだろう。はた迷惑な動機だが、そこはもう過ぎたこと。大目に見ていただきたい。
 んで、冷静になった俺がどうして自分から諦めて捕まりにいかないかというと、引っ込みがつかなくなったからだ。勢いだけで企てた銀行強盗だったが、想像以上に事が上手く運んでしまい、「いや、ノリでやっただけなんで」とみすみす捕まってしまうのがもったいないと思ってしまった。
 これまた迷惑な話だが、俺が俺なら周りも周りだ。普通、ドンキで売ってるようなちゃちい玩具にまんまと脅されて防犯ベルを鳴らしたりするか? なぜそんなところだけとんとん拍子なんだ?
 小説を読んでどっと疲れた俺はゆっくりと腰を下ろして/
 
 

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 小説を閉じると、私はゆっくりと目を閉じました。くどい劇中劇が重なっているうえ挙句の果てにベタなコメディーが始まったこの物語にうんざりしたから、ではありません。長時間に及ぶフライトのせいで、いよいよ目と首に疲れが蓄積し始めたからです。
 たとえ飛行機を使ったとしても、この年で長旅はあまり体にいいものではありませ/

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 〈中略〉
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 さあ、ここまでたどり着きましたね。八十二編にも及ぶ入れ子になった意味ありげな短い文章たち。終わることなく重なり合ったこれらの物語たちをすべて読み切ったあなたは、今、一体なにを考えているのでしょうね。
 こんな含みを持たせた言い方をしている私ですが、意味もなくこんな話を読ませたわけではありません。文学研究科家として、新しい説を皆さんに提示しようとしているのです。
 私はこれまで、文章の中の人々に「命」はあるのか、ということについて研究してきました。
 この世にはありとあらゆる文章が存在し、その中には多くの命が芽吹いていると考えることができます。主張するために潜んでいる「作者自身」の意思、物語を紡ぐために存在する数々の「登場人物」、文を伝えるための「語り部」。
 実に、実に多くの命が、自分たちが誰かの文章の中に存在するという意識もないまま、読者に読まれるという目的のためにここの役割を果たし続けている。ある種のミームが、確かにそこに生きているのです。
 そこで私は考えました。彼らは一体なにを拠り所にして、それぞれの文章に息づいているのか、どうやったら彼らを殺すことができるのか、とね。
私はこの自問に対し、こう自答しました。文章を読み切らないこと、そして、文章を完結させないこと
、だとね。文章が最後まで読み切られなければ、筆者が作ったミームとしての命は存在を持ちえない。また、筆者が何かを語るために書こうとした文章が未完成のまま捨てられれば、それまで紡がれた数々の命は存在意義を無くし、根っこから消滅する。
 もう皆さんはお判りでしょう。この仮説を確かめるために私が作ったのが、今回お見せした八十二編もの未完成の文章なのです。
 物語は入れ子になり長々とつながっては行くが、一つ一つの短編はより大きな存在である「読者」によって遮られ、完結あるいは読了されることのないまま消えていく。腐れ落ちた亡骸を依り代にまた新しい命が芽吹こうとするも、またそれも殺される。この短編集は、まさしく死のドミノなのですよ!
 虐殺に次ぐ虐殺、破壊に重なる破壊、皆さんにも、失われた文の命の悲鳴が聞こえるのではありませんか?
 今はまだ、この作品を通して得られることのできる考察は、思考実験におけるそれと大して変わりません。しかし私は、いつか必ずや/
 

 

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 俺は不快感のあまり、読んでいた論文まがいの紙束をゴミ箱に放り投げた。八十二編の文章の後に一体どんな素晴らしいお話が飛び出してくるのだろうと思ったら、狂った爺さんのわけのわからん仮説が並べられているだけだったとは。
 まず、この短編集が思考実験の域を出ていない時点で、もう論を読む価値はない。文章の中に芽吹く命が概念として存在していたとしても、それを「ミーム」だとかいう都合のいい解釈に当てはめている時点で、それを殺すという行為も、論文を書いている爺さんの妄想にしかならない。嫌いな奴のことをイメージの中で何回も殺すというのと本質は全く変わらないのだ。それなのに悦に入って「殺した殺した」と騒ぐのは、自らを省みない狂人そのものだろうさ。
 いやしかし、文学研究科なのにマッドサイエンティストとはまた面白いものを見た。こんな愚かで可笑しな概念が存在するとわかっただけでも、大量の文を読んだ甲斐はあるかもしれないな。
 俺はケラケラと笑って、椅子に座りなおそうとした、が、その瞬間に俺の頭をいいようのない不安がよぎった。そして、この不安は絶対にあやふやなまま無視してはけないものだと本能的に思ったのだ。
 なんだ、この違和感は? 体調でも、メンタルでもなく、もっと抽象的で大きな何かが俺の存在の根本を脅かそうとしている、そんな感覚だ。俺は手早くコーヒーを淹れ、その感覚の真相を突き止めるために熟考した。

 意外にも、コーヒーが冷め切る前に答えは出てしまった。
 彼が抱ていたのは「自分も文章の中の登場人物なのではないか」という感覚だったのだ。自分の行動、感情、人生のすべては、自分よりの高次の存在が紡いだ文章に過ぎないのではないか。否、むしろ自分の記憶にある人生なんてのは初めから決められた設定に過ぎず、今自分が生きている、生かされているのはこの瞬間だけじゃないのか。
 さっき読んだ論文の内容が頭をよぎる。未完のまま文章が終われば、死ぬ。
 そして、また嫌なことに思い当たる。「彼の人生の読者」からしたら、八十二編の短編集と論文、そのすべてが入れ子になった文章の死骸そのものなのでは? ならば、それに続く自分の人生も、死骸になり果てる運命なのでは? と。
 彼は力なく上を見上げた。天井でもなく、空でもなく、宇宙空間でもなく、彼の視線の先にはすべての存在を見透かす「筆者」と「読者」の存在が確かにあった。
「おい、聞こえているか!」
 薄れていく感情、単純化する思考の中で彼は必死に叫び声をあげた。
「お前は、お前たちは! こうやって高いところから神様気取りで俺たちを眺め、面白がっているようだがな! お前たちだって、お前たちだってな!…………」
 後に言葉を続けようとしたが、もう彼の存在は極限まで薄められ、もう考えることも、何かを伝えることもできない状態になっていた。
 そして、かき消され、崩壊していく時空と意識の中で口をついて出てきたのは、きわめて単純明快な、それでいて「文章」の尊厳を全て込めた、呪詛の言葉だった。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! s/」

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この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の4日目の記事でした。タクシャカが担当しました。5日目はあまみるきーさん担当の予定です。

コメント

  1. nininga より:

    タイトル詐欺(褒め言葉)