「中立」という幻想を追って

こんにちは、torikori です。昔考えていたことをメモ書きがてら書き残す記事をもう3本目となってしまいましたが、やはり、相変わらず誰も読もうという気にさせない空虚な文書を残すことにします。これまでの記事までは、ただ乱雑につらつらと書き連ねるのみでしたが、少しばかり筆者自身の考えがまとまってきたこともあり、今回は一つのテーマを軸にして書くことにします。

いままでの記事へのリンクを残しておきます。

筆者には、どうも他人と話をする際、ちょうど今この記事を書いているように、自身のことを語る、いわゆる「自分語り」をなす悪いくせがあるようです。恐らく、自己の中では他人に依存し、その人にただ話を聞いてもらう、ということにより自身の情緒不安定を他人に任せ、精神不安定を取り繕い、ただ安定した気分を味わう、ということをしたいのでしょう。それこそ、とても迷惑な行いです。しかしながら、その少し昔には、むしろそれと真逆の行い、他人に可能な限り依存しないことを試みていた、というのがここ最近、よみがえります。そのような、依存しない振る舞いのふりをする、その大義名分は、「中立であること」でした。
「中立性」には、という概念は、無論現代社会の様々な部分にて必要とされているでしょう。従って、それを若いころからその発想を自然とできることは有益、そのような思いがあるかもしれません。幸か不幸か、筆者は小さいころにその概念を知り、それを身につけるべくしてきたはずなのです。はずですが、例のごとく筆者は愚かさにより、大荒れののち誤った方向へ向かい、今から考えるとたくさんの後悔と他人への迷惑行為を残してしまったのです…

注意:

  1. この記事には激しい表現、発言、行動などが多数含まれています。
  2. 以下で述べる、これらの考えは基本的に小中学生の頃の考えに過ぎず、現在筆者が抱いている考えとは特に関連を持ちません。
  3. 当時筆者が印象に残った発言文章などを取り上げて、それにより筆者の行動にどのような変化があったか、などを述べていますが、あくまでこれはその事実を述べるものであり、その文章を批判あるいは賞賛しようとするものではありません。
  4. 当時筆者と関わった方を傷つけよう、不快に感じさせようといったものでもありません。ましてや、当時の関係者をつるし上げ煽る、などといった考えによるものではありません。
  5. 誇張あるいは思い違いを取り除くようにはしましたが、勘違いなどが以下には残されているかもしれません。

そもそも「中立」とは何か

今まで「中立」という言葉が筆者自身の中で意識されてきた、と述べてきましたが、そもそも中立であるということを辞書通りの意味で用いてきたのでしょうか。まず、辞書を引いてみると、中立という語の意味は以下のようにあります。

「相対して争う者のどちらにも味方せず、敵対もしないこと。」- 岩波国語辞典第四版、「中立」より

しかしながら、筆者はここで、「中立」という語の意味を全く異なるものと妄想していました。筆者は争う者、それどころかこの存在可能な限り尽く敵対してやることにより、最終的にどのようなものに対しても独立することが、「中立」にかなう、と考えていました。それは実現しえないのに。
ということで、以下に沢山つけられている「中立」という単語は、ただ単に「多様な概念から同程度の距離を置き、価値判断ができる状況」といった程度の意味とします。

「中立」はなぜ重要なのか

中立であることは、様々な意味で重要であると、当時安易に思い込んでいました。確かに偏見を排除することは現代の社会においても重要ですが、偏見を排除するために、偏見につながりうる思考行動そのものを排除すべきだ、というのなどがあったと思います。以下では、いくつか列挙してみようと思います。

当時は、忖度、あるいは他人を庇うことに対する嫌悪感がありました。ただ、今から考えてみると、私の考えはずいぶんと単純なものに過ぎないでしょうか。確かに現在でも他人を庇う行為は多く社会にあり、それがいわゆる「忖度」として社会に悪影響を頻繁に及ぼしています。ただ、それは「友人」の概念を否定することとは異なります。友人を認めたうえで、それを中立な価値判断 (ここでの「中立」というのは辞書上での意味) に持ち込む際には、「友人であること抜きに」考えることが重要でしょう。

また、当時小中学校でのいじめの被害者としての経験を正当化するために、筆者自身は中立であることが要請される、と考えていました。
いじめの被害を批判するためには、自分自身の正当性が要求されます。筆者自身の行動により、政治的悪影響が多く生ずることが許せなく感じていました。それはもはやいじめる人と同義ではないのかと。

これらの考えの裏腹には、おそらく「いじめ」の概念に、相対的でない何かしら絶対的基準、あるいはそれを求めており、自らがその絶対的な基準のもとでいじめていない、という旨認められようという承認欲求のもとで動いていたのだろう、といったところがあります。

更には、当時の筆者は、どうもInternet に依存していたようで、いくらかの文献、例えば Wikipedia 日本語版 「五本の柱」の一つ「中立的な観点」 におおいに痺れ、影響を受けていたような気がします。これは冷静に考えると明らかに教科書に準拠した学習という、当時筆者が追い求めてきたものと明らかに矛盾しているのですが、筆者は独りよがりなことにそれが正しいのでは、と感じていました。このことからも自己の愚かさがよくわかりますが、それはさておき。

「中立」を実現する、そう思い込んでいた振る舞い

中立な行動を実現するため、と思い込んでいた行動を二つ述べることにしますが、まずその前に本来はどうあるべきかについて考えようと思います。

辞書的な中立を実現するために、一般的なのは、おそらく「個々人が自身の利害などを一旦棚に上げて、例えば日本国民全体など、より広範な範囲から考えられるようにする」ことでしょう。この考えでは、決して自分が好き嫌いを持つ、利害関係を抱くことそれ自身には何の問題もないのです。しかしながら、筆者はそのようなことを否定し、利害関係を保持しない、ということを目指しました。これは、ある意味隠居の考えに近いのかもしれません。しかしながら、隠居と異なり、当時筆者は否応なしに社会と関わる必要があるわけです。それを無視して、中途半端に社会の中にどぶどぶに浸かりつつ、一方否定する、というのはなんて矛盾なのでしょうか。

それはさておき、否定して中立的なものを目指そうとする際に、この際に関連するものとして、無差別愛の概念をふと思い出しました。そこにおいては、自身が嫌いなものなどない、という状況を作り、ことごとくみな好きになる、というのが一般的な無差別愛、といった概念の起点でしょう。 しかしながら、当時の筆者には自らの嗜好好みを否定することが、不完全にしかできませんでした。したがって、その問題をそのまま棚上げし、隠す方向へと向かっていったのです。
即ち、筆者が行ってきたことは、いわば「好き嫌い」改め「嫌い嫌い」として、尽く嫌悪することにより、相対的にあらゆる問題から距離を置くことができ、それにより中立性を実現することができる、そう考えていました。(今から考えると、positive action : 積極的に偏見をなくすためにあえて「差」を設ける、といったことが念頭にないあたり、浅はかな考えであったと感じます。)
無論これには社会的悪影響があります。その筆頭として、読書でさえ新たな情報を入手する際に、ひとまず「嫌う」ことから始まり、中身をよく考えることができなくなったことがあります。 この傾向は中学校卒業後も、つい最近に至るまで筆者自身の受け止め方にあり、極端に新たな概念を受け止めることが難しくありました。ただ、それにより疑う過程にて、その対象となる物事をより正しく分析することができる、即ち決して悪くない行いでは、という考えがあるかもしれません。しかし、筆者の場合、その「疑い深く」なってから、その場に立ち尽くしてしまい、それ以上の分析を拒否しました。
従って、時間を掛け本を読んだ後も、ただ残るのはその著者に対する感情的、中身のない空虚な嫌悪のみであり、何も生み出さなかったのです。それがある種の「食わず嫌い」として自分の成長、あるいは多様な考えを受け止めることが極めて難しくなり、筆者の能力が低い要因の一つになっているのでしょう。

二つ目の行動として、他人とのかかわりを断つことにより、庇う、あるいは今でいう忖度を避けられる、としたことがあります。中立であろうとするためには、従って一切他人との関わりを断ち、「読書」なる高尚な方法にのみより自らの中立性を磨いていけばよい、と考えられます。友人に関わるとその人に考えが曲げられるわけです。教員から、という本来経由すべき方向を無視して。
従って、他人との会話を禁止する、他人を理解する試みを放棄する、などの行動 (最初の記事にて概要を述べました) が初声氏わけです。また、「会話禁止」の概念をより確実に実現するためには、セロハンテープにて自己の口の部分を物理的に封じ、会話できないようにすればよいわけです。また、これは昔述べたように「私語防止」の観点からみても有用なので、まさに一石二鳥です。

それにより、小中学校の頃、筆者は自身に対して話しかけられる行動、それらを排除しており、「友人の概念は存在しない」あるいは「友人という言葉は社会にとって有害である」などと返事を返していた記憶があります。あくまで学内での人間関係は、義務教育における活動の一部としてやむを得ず構成されるものであり、筆者自身が関わる必要は他に全くない、と考えていました。
従って、学校外で彼らと出会ったとき、会話を禁じていました。あくまで社会上の人間として行われる会釈以上の行いを禁じ、あいさつを上回る会話を試みられると即座に逃げ、課外活動での関係者ともその活動の場以外では一切関連する話をせず、最後は (恐らく) 彼らとはもともと知人などではなかった、と無視を決め込んでいました。
今から考えてみると、このような行動の裏には恐らく職場の「同僚」のようなものを構成しよう、というのがあったと感じます。あくまで学校には義務教育として教育を受け勉学に励むことのみが重要であり、その間に生ずる人間関係はあくまで「集団」として教育を受けるための必要悪に過ぎず、実際には不要であると考えていました。
その当時、確かにそのような行動を「ひどい」などと非難する同級生もいましたが、それに対して、筆者は「中立性」を砦にして、ただ無視を決め込んでいました。なぜそのようなことをしたのか。確かに筆者は愚かですが、なぜ当時、許されたと思いあがったのでしょうか。その一つには、おそらく教科書にある、教員の行動はことごとく正当であるに違いない、盲目的に信ずるべき、という考えがあったのだと思います。ただ、それはあくまで友人の概念を排除することと矛盾します。それらを解消することなく、やっていたのは、自己矛盾だ、それは当時から理解していた、つもりです。それはそれで筆者が生存してはいけない理由の一つに数えられたわけです。

幻想としての「中立」

このように、筆者はただ「中立」であろう、と願い目指していたつもりでした。しかしながら、実際には前述の、辞書的な中立の意味からは程遠く、また迷惑行為を多数行ってきてしまいました。
まず、そもそも完全な中立であることはあり得ないことです。人間が食事をする際に、必ず、たとえ植物であったとしても生物の命を清めているわけです。また、現在今ここでキーボードで文字を入力しているのもそもそも否定されるべき、という考えもありえます。完全な中立などありえないのです。それへの努力は存在しますが。
また、うすうす気づかないうちに筆者が抱いている他の主張に整合するように、都合よく「中立」というキーワードを採用したのかな、と思います。筆者が他人と会話して、いじめられる扱いをただ回避している自分を正当化するために、友人の概念を抹消したり、あるいは自分にとって都合の悪い考え、例えば自分の存在を許容して自分の良いところを見つける、といった指導を無視するために、中立であろうとしたのかもしれません。
結局は、筆者は自身がよい立場を得ようと、悦にふけっていただけであり、これは何たる時間の無駄であり、その間により整合させることもせず、無為であったのです…

もしかすると、これは全体に対して該当することかもしれませんが、筆者は激しい人間なのかもしれません。中立であることもそうです。ただ一つただちょっとした理由により、「中立」であろうといろいろなもの、時間、人間関係を犠牲にして目指すあたり、筆者には極端な考えに走りやすいところがあるのかな、と何となく感じてしまいました。それにより、結局は独りよがりな考えに走って、何もできなくなる。よくあることとはいえ、直そうとすらしてないあたり、愚かですね…

筆者がいかに愚かであり、かつ無駄に時間を浪費してきたのか、そう考えると希望を失いますね。それでは。

コメント

  1. nininga より:

    自己評価もかなり独りよがりですね…

  2. torikori より:

    独りよがりだとされる自己評価、例えばどの部分でしょうか…?

  3. nininga より:

    あなたに会ったことがないので詳しくは分かりませんが
    それほど自身を卑下するもんじゃありませんよ

    こちらも荒立てるつもりはございません
    不愉快でしたら消させて頂きます

  4. torikori より:

    別に不快などではなく、純粋に気になったまででした。