「言ってることとやってることが違うじゃないか」という非難を昔はよく耳にしたものですが,別にその人の主義主張と行動が異なっていても構わない場合というのは往々にしてあると思います.人間そんな綺麗にできていません.
過度な共感,中身のない共感は時として何も産まず,時として個を殺すことになると常々思っておりますが,体裁を取り繕うために「わかるよ」などと薄っぺらい共感を投げる事はありますから,所謂”言い訳”を先んじて書いておいたわけです.
”みんなちがって,みんないい”と金子みすゞが言っていたのは人と鳥と鈴についての差異ですが,人にだってさまざまな違いがあります.体型,知能,食べ物の選好,性的趣向,宗教,etc…
特に価値観というのはその人をパッと見ただけでは全く分からないもので,互いにコミュニケーションを取り,直接的にしろ間接的にしろ段々と知っていくものだと思います―当然,場合によっては自身の主義主張,価値観をどこかに明記している方もいらっしゃいます.私の場合は過去に書かせていただいた記事がそれに当たるかもしれません―し,それが”親交を深める事”の一つだと私は思っています.
当人の主義主張を知らないことにはその人を”知る”ことは恐らく困難でしょう.しかしながら,その主義主張が自身のそれと相反するものだった,ないしは簡単に受け入れられないようなものだった場合はどうすればよいでしょうか.「もう付き合ってられない」と関係を断つことも選択肢の一つでありましょう.私はよくそうして人の「異質な部分」を見てしまった時にその人すべてが「異質」に感じられて関係を断つことが一時期はよくありましたが(異質を「嫌い」と言い換えても大きな差し支えはないです),もう少し上手な付き合い方が出来ないものかと考えていましたが,ひとつ簡単な策が浮かびました.異質に感じられる部分は(それで済む場合は)見なければいいのです.
その人と関係を持つことに対しなんらかのメリットがある場合,私はそうして一種のやりすごしをしていました.しかしながらその「異質さ」が目を背けられないほどに,その人の大きな核になっている場合はどうしたらよいでしょうか.それまでの私は人の価値観は「共感する」か「共感しない」かの二つしかありえないと,そう思っていましたが,聡い方はきっと「頭が固いなぁ」と思われることでしょう.そんな二択に自分を追いやる必要はどこにもなくて,ただ「その異質さの存在を認める」だけでよいのです.「私はその考えはよく分からないけど、あなたのような人が居ることを否定はしない」と。こんな簡単なことに気付くのに十余年もかかってしまったのか.とこの考えに至った時は自分でも笑ってしまうのでした.
ところが人はそんなに「考え」と「行動」が同期しないので,私は未だに半端な生き方をして,半端な人間関係しか築けずにいます.もう少し私の思考と試行は続くことでしょう.
コメント
自身の価値観が信じる(自分の中では絶対的に正しい)と思うことで
他人の異なった価値観を認める余裕ができると
私は考えます