廻れ太陽、愚者を照らしに。

やあ、久しぶり。ボクのこと覚えてくれてるかな。え、知らない?まあ、そんなことはどうだっていい、重要じゃないことさ。自己紹介するほどの者でもないからね。ただどうしてボクがここにいるのか、それを説明するのが道義ってものだろうから話しておこう。といってもなんのことはない、ボクは少し報告をしに来たのさ。キミ達の世界でいう春休みとなり、ありがたいことに最近この坩堝にも新たな砂が沢山流れ込んできた。ボクはキミ達ほど頭が良くないから頭に留まったのはあまり多くはないけれど、この坩堝が潤ってきてボクは嬉しいんだ。ここはボクの数少ない居場所だからね、無くなってもらっちゃ困るんだ。

そんなわけでボクは、ここに足跡を残してみたいと思った作者に代わって語り部をしているわけなんだけど、ここで終わるのもなんだ、せっかくここまで来てくれたんだし一つ話をしようじゃないか。廻らない太陽と愚かな人間の話をね。

一年はだいたい365日、正確には365日と5時間と48分と45秒、いや、これも正確じゃないけど、まあこんなことはどうでもよくて、とにかく一年のうちにこれだけの回数を太陽は廻っている、そうみんな考えている。え、キミ達はそうは思わないって?そりゃそうさ。なんたってこの話はもちろん昔の話さ、といっても時代は限られるけどね。彼の有名なペテン師誕生の前後からほんの最近まで、いや、まだ信じている人もいるんじゃないかな。とにかくそれだけの間、太陽は地球の周りを廻り、人々は愚かにもその存在を信じていた。

聡明なキミ達ならボクが何を話そうとしてるのかもう分かったかもしれない。なんたってこの話は有名だからね。それでもできれば最後まで聞いてほしいかな。

さて、この話を聞いてキミ達はこう思うかもしれない。誰もこの話を疑わなかったのかって、聖書が非現実的かと思わなかったのかって、間違いだらけのこの説を否定しなかったのかって。なんたって、これだと色々と説明できないことがあるんだから間違ってるのはあたりまえだって。

知っての通りその話を、天動説を疑った人は当然いる。今回は例として2人ほど挙げてみようかな。

まずは地動説を初めて発表し、後にコペルニクス的転回と呼ばれる事象を引き起こした彼の話さ。天動説、正確にはプトレマイオスの天動説のことだけど、それはとても複雑なもので1つの天体の運動を説明するのに5つの動きが必要になるんだ。なんたって実際に動いている地球を固定させてほかの星の動きを考えるんだからね、そりゃ式が複雑になるんだろうさ。だから彼は天動説が正しいのか、教会の教えが正しいのかと疑ったんだろうね。そこで彼は地動説を思いついた。地動説、つまり太陽を中心に地球を含めた色んな天体が回ると考えると、もっと簡単な式で天体の運動を説明できるんだ。でも残念ながらこの考えは普及しなかったし、教会もこの考えを受け入れなかった。

その後、そんな地動説を有名なものにした人物が登場する、天文学の父と呼ばれる彼の登場さ。彼は自分で改良した望遠鏡を使い、木星の衛星や金星の満ち欠け、太陽の黒点の存在を観測し、これを発表したらしい。ただ、これらは天動説を否定する情報であったり、神が作ったとされている太陽が完全なものではないということを示しているから、教会側としては都合が悪いし許せないことだったみたいだね。それで起こったのがあの有名な宗教裁判、科学者と宗教家との争いさ。聖書を信じるあまり理論的な考えができなくなる愚者のことを考えると、本当にあきれるしかないよね。こんな愚者にはなりたくない、キミ達もそう思うだろ?

それでボクが何を言いたかったのかって話だけど、要は「みんな言ってるから正しい」とか「あの人が言ってるんだから正しいに決まっている」なんてのは間違いだってこと、信用すべきでないことなんだってことさ。こんなこと言わなくてもキミ達ならわかってると信じたいのだけど、残念ながらそうはいかないかもしれない。なんたって、上の文章が間違いだらけだってことに気づかない愚者が、廻らない太陽を当たり前だとして信用しきっている愚者が、キミ達の中にもいっぱいいそうだからね。

さて、どこから話そうか。まずは天動説が信じられていた本当の理由からが分かり易いかもしれない。歴史順に積み上げていくよりそのほうが分かり易いかもしれない。天動説が信じられていたのは聖書にそう書かれているから、と言われることがある。確かに聖書には「神が太陽や月をを止めることができる」って記述があるから太陽がもともと動いてなきゃいけないし、「神は地を定まった場所に置いた」って記述があるから地球が止まってなくちゃいけないのかもしれない。でもそれが全てじゃない。なんたって、今彼らは地動説を受け入れてるんだからね。そんなものよりもっと大きな理由があったんだ、地球が動いちゃ困る理由がね。

昔の人はこう考えたんじゃないかな。もし地球が動いてるなら自分たちはすごい速さで動いてることになるし、飛んでる鳥や投げた石はすぐに置き去りにされちゃうはずだってね。キミ達はそうは思わないのかい?ボクはそうは思わないね。なんたってボク達は慣性の法則や万有引力の法則を、17世紀に提唱されたこれらの法則を知ってるからね。じゃあこれらの法則を知らない人たちはどうだろう。彼らは台地が動くと説く人に対して説明を求めるだろう。どうして鳥が、どうして石がってね。そしてその質問を答える人はいない、答えがわかる人もいない、そりゃ地動説が正しいって思う人もなかなかいなだろうさ。つまり昔の人にとって天動説こそ科学的に正しいものだった、科学者と宗教家たちの争いなんて存在し得なかったのさ。

別の理由も話そうか。昔の人は、ある偉大な人の思想をを信じていた。万学の祖と呼ばれるペテン師以前の人の思想をね。もちろんそんな偉大な名前と同じぐらいすごい人みたいだよ。なんたって上で紹介した地動説派の2人も彼の間違いをずっと信じてた、ケプラーの法則が提唱され、天体の運動がこうも簡単に説明できるのかと世界中の天文学者が唸った後でさえも、彼らは天体が楕円運動をせず円運動をすると信じてたからね。そう、万学の祖は天体は円運動をすると、地球の周りを円運動すると考えていたらしく、その考えを多くの愚者が信奉した。だからずっと天動説こそ正しいものだとされてきたんだ。地動説派の2人は天動説こそ否定すれど、天体は円運動するという彼の思想から脱却することはできなかった、コペルニクス的転回とやらでは完全な反転はできなかったってことさ。

最後にもう一つだけ、有名な誤解でも解いておこうか。解くべき誤解はたくさんあるけど、あんまり長いとほんとに伝えたいことが薄れちゃうかもしれないからね。もちろん取り扱うのは例の2人についてさ。さっきボクは彼らは教会に反発している人として描いたつもりだけど、実は彼らは敬虔な信徒なんだ。だから彼らは地動説が聖書と異なることも知っていたし、地球や太陽が特別なものじゃないと都合が悪いことも知っていたはずじゃないかな。それでも彼らは地動説を信じた。あくまで数学的仮定という注釈が付けられたり、天動説派と地動説派と中立者との対話という体をとったりまでしてでも、彼らは地動説に関する本を執筆したんだ。自身の宗教と矛盾してでも真実を探求しようという彼らの姿勢こそ科学であり、ボク達は見習わなきゃいけないのかもしれないね。

いい加減長話が過ぎたかな、もうすぐ読者の半減期が来てしまいそうだし、手っ取り早く結論を喋ろうじゃないか。といっても、言いたいことの一つは上に書いたから省略するけどね。

ボク達はよく巨人の肩の上に乗っていると比喩されることがある。聡明なキミ達なら聞いたことがあるんじゃないかな。この巨人ってのは過去の人々、彼らが生み出してきた知識や技術、導き出してきた定理や公理、語り継がれてきた歴史や文化など、今のボク達が当たり前のように使ったり知ってたりしているもののことさ。ボク達は足元の巨人の存在を何時如何なる時も知っておかなきゃならないし、感謝もしていなくちゃならない。巨人がいなければボクはこうして存在しなかっただろうし、坩堝も存在しなかっただろう。

でもそれだけじゃない、巨人は辞典のように使うだけじゃ不十分なんだ。足元を見るとき、それがほんとに正しいかどうか確認して使わなきゃいけないんだ。もちろんそれは簡単なことじゃない、それでもそうすることこそが、巨人に対する真摯な対応なんじゃないかなって、そうボクは思うんだ。

キミ達はどう思う?

コメント

  1. nininga より:

    多くの人が信じることが「真実」なんや