拝啓

気まぐれな天気がつづきますが、貴地方ではいかがでしょうか。

なんて、冗談だ。たまにはそんな書き出しもいいかと思って書いてみただけだ。怒らないでほしい。この質問が君とっては何の意味も成さないことくらいちゃんと分かってる。

最後に君と会ったのはたしか六時間ほど前だったかな。できれば直接伝えたかったのだけれど、それがどうにも叶いそうになかったから、こうして文字に起こして手紙として伝えることにした。少し長くなると思うけれど、頑張って読んでほしい。何といっても、これが今の僕にできる精一杯なんだ。

僕のすぐ傍にはいつだって真っすぐな君がいて、君はときどき隠れてしまったりもするけれど、でも、それにしたって君が君でなくなったわけじゃない。雨の日だって、雪の日だって、嵐の日だって、もしも視界を遮る一切を振り払うことができたのなら、いつだって君は其処にいる。『崩れ落ちそうな空』という言葉が単なる比喩表現の一つにすぎないように、君が君でなくなるなんてことはありえない。僕が君の姿を見失うことは決してない。

そんな君のことが、僕は大好きだ。愛している。信仰していると言ってもいい。

ある人が財や名誉を、家族や恋人を、あるいは神や教えを信仰しているのと同じように、誰にも汚されることなく透き通ったままに僕らを覆う君の姿を、誰も彼もがどうしようもなく理想通りにはなれずにいるこの世界で、それでもなお理想を守り佇む君のことを、僕は信仰している。

君への好意を心に宿したのはいつの頃からだったかな。たしかに昔から君のことは好きだったけれど、でも、一般的な領域を出てはいなかったように思う。それは例えば、都会の明かりに火照らされ僅かに白みを帯びた黒を纏う夜空を美しいと思う心であったり、あるいは真っ赤な夕日に当てられて普段の表情からは思いもよらないほど燃え上がる夕焼け空に郷愁を覚えたり、そういった誰もが持ち得る感情の一つでしかなかったはずなんだ。

そのはずだ。

それなのに、その感情はいつしか大きくなり、変質し、ついには随分と奇妙なものへと成り果ててしまった。ただの好意が信仰へと転じたのが具体的にいつのことだったのかは思い出せないけれど、僕がこの感情へ自覚的になるに至った原因ならはっきりしている。

そのきっかけは、電線だった。

より正しくは、テレビで聞いた『電柱や電線類が美しい景観を損なっている』という言説だったというべきか。適当に聞き流していた番組からその言葉を聞いた時には、思わず耳を疑ってしまったのを今でも覚えている。というのも、そんな思想がこの世に存在するなんてことをそれまで見聞きしたことがなかったからね。今にして思えば至極当たり前の意見で、在って然るべき主張で、むしろ何故その考えに至らなかったのかとさえ思うけれど、とにかく当時の僕にとってはかなり衝撃的な事実だったんだ。その後すぐにインターネットで色々と調べ、この日本には電線の存在を疎む人間が結構な数いることや、実際に無電柱化が進められている街があることを知った。こんなことは知らなければよかったと心の底から思ったものだ。

以前、電線のない街を歩いたことがある。一切の障害を排して快を謳歌する人々の波の中から見える君の表情はどこか物寂し気で、いつもは遠くにいる君が、その日だけは少し手を伸ばせば届いてしまいそうなほどに僕らの近くまで沈んでいるように見えた。いつもと変わらずに君が纏っていた微かに白みがかった半透明のヴェールは、あるいは今にも零れ落ちそうな涙を隠すためのものなんじゃないかとすら思えた。

できることなら、そんな君の姿を見たくはなかった。

誰かの手が触れてしまえる君なんて、何物にも遮られない君なんて、僕が好きになった君じゃないんだ。誰でもいい。いっそのこと、僕の目が及ばないほどどこか遠くへと君を連れ去ってしまってほしいと思わずにはいられなかった。

何処かへ行こうと家を出る。少し期待外れの外の空気に身震いしながら歩道を進む。点滅する信号を前に歩を止め、信号が再び青へ変わるのを茫然と待つ。その何気ない一瞬、僅かな時間の隙間にふと顔を上げれば、幾重も張り巡らされた電線の向こう側でいつもと変わらない君の姿が見える。そんな些細なことに安堵して、また歩き始める。それだけでよかった。

理想を唱えることすらも馬鹿らしくなるほどに腐りきったこの世界で、それでも真っ直ぐに自分の理想を貫きながら在り続ける君が其処にいてくれるなら、それだけでよかったんだ。

そうして初めて、僕は自分の内深くに渦巻く感情を自覚した。その本質が本当は何なのかだって、当然、すぐに理解した。

ある知り合いの話によると、どうやら僕は理想主義者らしい。そんな僕が君に見出した理想は、何物にも汚されず気高く其処に在り続ける強さと、すべてを受け入れることのできる純粋さを兼ね備えた蒼そのものだった。

それは、僕のようなちっぽけな存在には守りたくても到底守るのことのできない理想で、だからこそ僕は君に心を奪われた。何物も脅かせないほどに強く在り、それでいて、あるいはだからこそ、肯定も否定も等しく許容する。そんな君のことが、僕は大好きだった。

きっとこの世にいる誰もが果たし得ない理想を、それでもずっと追いかけている君のことが大好きだった。

君の理想が失われつつある今を、僕はとても悲しく思う。今にも泣き出しそうだった君を見たあの日、本当に心が痛んで仕方がなかった。だからって、僕に何ができるわけでもないんだ。電線のない青空を前にしたところで、僕にできることなんて何もない。僕は所詮ただの一人間でしかなくて、君を遮る電線にはなれない。強いてできることを挙げるとするなら、精々声高に君の理想を唱えることくらいだ。

こんな幼稚でバカげた思想を誰かに押し付けるだって? 馬鹿な。そんなことはしない。僕が自分勝手に何かを押し付けるのは、それこそ君が相手のときくらいだ。それに、誰が相手だとしても自分の意見を相手に伝えるというのは多大なエネルギーを要することなんだ。

僕は何もしない。このまま君の理想が失われるというのなら、それはそれで受け入れよう。きっととても苦しい思いをすることになるのだろうけれど、それでも僕は受け入れる。

だって、それこそが君の理想であり、僕の理想なのだから。

親愛なる、青空へ。

今までありがとう。そして、ごめんなさい。

願わくは、君の理想がいつかの今日も変わらずにありますように。

敬具

コメント

  1. nininga より:

    フィクションとわかっていたので楽しめました。

    • 一葉 より:

      自分の中にあった色々を200倍くらいに拡大解釈して書いた感じでした。楽しんでいただけたのなら何よりです。

  2. START より:

    まあ途中まで太陽かと思ってましたよね(夕焼けと蒼で矛盾)
    青空は触れられない方が良いという倒錯が個人的に良い感じでした

    • 一葉 より:

      たしかに、最初の方だけだと太陽も候補に挙がりますね(ありがちだし)。
      ありがとうございました。