初投稿です。短編小説で、実際のところSSくらいの長さになっています。拙作ですがどうか最後までお付き合いください。
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「あっ、すみません」
演奏開始10分前。コンサートホールの分厚い扉の向こうから顔を覗かせたのは、部活の先輩である白石沙羅さんだった。
「あれ、圭介君も来てたんだ」
背はちっこいし、顔もちっこい。薄いショールに身を包んだ白石さんは、いつも以上に綺麗だった。
「ええ、同級生から招待されて。先輩は?」
白石さんはふと、視線をおろす。
「卒業前に、若松さんを見ておきたくて」
ずきり、と胸が疼く。張り付いた笑顔で、相槌を打った。
後ろから人の気配を感じ、扉の先へ急き立てられる。僕は白石さんの隣へすっと避けた。
「もしかしてひとり?」
「ええ」
「よかったら、一緒に聴こうよ」
僥倖だった。白石さんと2人。これからそう得られる機会もない。
「分かりました」
「よかった」
白石さんの笑顔が弾ける。これだけのことで、僕の胸の内は熱くなるのだ。
こうして僕らは連れたってホールに入っていった。
「あ、この曲知ってる」
席に着くや否や、白石さんはパンフレットをパラパラとめくった。“青葉大学医学部管弦楽団-春の定期演奏会-”の文字が表紙に躍る。
「有名な曲なんですか」
白石さんの顔が上がる。
「うん、きっと圭介君も聴いたことあるよ」
「そうですか」
ぶつぎりの会話だけが転がり、空気がごろごろ停滞する。白石さんはパンフレットに視線を戻した。
俄に居心地が悪くなる。白石さんは看護科の四年生で、この春に卒業する。白石さんと二人で話す機会など到底ない。自覚がますます焦燥を募らせ、言葉は欠片も出やしない。
開演のブザーが鳴り響く。照明が落とされ、ホールは静まりかえる。まるで真夜中だ。
いつか、星を見に行ったことがある。真夏の空に輝く星々。白石さんへの憧れを確かに抱いた、あの夜。
突如、静寂は破られる。万雷の拍手とともにオーケストラの面々が入場してきたのだ。白石さんの視線はゆらゆら揺れ始めた。
僕はわざとおどけるような調子でからかってみた。
「若松先輩はコンマスですから、出てくるのは最後ですよ」
「あ、そうか。そうだよね」
たはは、と笑う白石さん。そんな風に笑われると、罪悪感と悔恨で胸が潰されそうになる。
演奏者が出揃うと、コンサートマスターが入場する。拍手が一段と大きくなる。
若松先輩だ。
白石さんの姿勢が少し前に傾いた、ような気がした。
若松先輩は観客に深々とお辞儀し、演奏者に向き直った。弓を高々と掲げる。ひとつ、またひとつと楽器が歌いだし、ハーモニーを奏でる。
ただの音合わせひとつ。だのに、彼がオケのリーダーであると、演者たちが誇っているように感じられた。
やがて指揮者が入場し、演奏が始まった。
はじめの曲は、近年ドラマ化されて一躍有名になった、ベートーヴェンの交響曲だった。
始終、白石先輩は舞台に熱視線を送っていた。そしてその先では若松先輩が踊るようにヴァイオリンを弾いていた。オケのど真ん中、最前列。指揮者のすぐ脇で、先陣を切るように、弓が走り回る。全ての音が結び合って、音楽は波となって押し寄せた。
あっという間に休憩時間となった。
「なんだか圧倒されちゃいました」
「へへ、医オケもなかなか迫力あるでしょ」
「ええ、驚きました。知り合いが弾いているのを見ると、なんだか別世界の人のように見えちゃいます」
「はは……本当、ね」
その時の白石さんは、遠くどこかに思いをはせているように見えた。
「白石さん?」
「あ、ああ。ごめんね」
たはは、と白石さんは笑う。
「あのさ、若松さんって私の1個上じゃない」
「ええ」
若松先輩は医学科の5年生。白石さんはA部で若松先輩と知り合ったらしい。
「ずっとさ、わたしにとって若松さんはたった1個上で、それでもずっとわたしより大人で、遠くって。でも、わたしの方が先に卒業しちゃうから、もう後輩じゃいられないんだよね」
「そう……ですね」
「だからね、これは最後なの。わたしが若松さんに甘えたり、憧れたりできる、最後」
背筋を伸ばし、白石さんは告げた。僕は何一つ、返せなかった。
最後の曲はオペラ作品中の曲だった。曲自体には聞き覚えがなかったけれど、作品は童話として馴染み深いものだった。上演中、白石先輩は音に寄り添うように、小刻みに身体を動かしていた。音が沈めばゆったりと、盛り上がればうきうきと。
るんたった、るんたった。
白く細い指が空気を撫ぜる。
永遠を望んだ光景が、僕の中にある白石先輩の写し絵に、さらに艶やかな色彩を加えていく。
るんたった、るんたった。
がさついた手は重石のごとく。
2年間も見てきた。
2年間も見るだけだった。
まばゆく変化する白石先輩の表情を眺めるうちに、2時間の上演は呆気なく終わりを告げた。
「若松先輩、格好良かったですね」
「うん。とても」
やっぱりこれっきり。
白石先輩は満足げに伸びをすると、すっくと立ちあがった。薄紫のフレアスカートがふわりとふくれる。
僕もつられて立ち上がる。シートがぱたりと閉じられた。夢は終わり。クランクアップだ。
エントランスに出るときには、演者がすでに待ち構えていた。群衆の先に、若松先輩が見える。
「白石さん、若松先輩があそこに」
「えっ、どこどこ」
背伸びをするが、僕の肩口ほどにしかならない。
「連れていきましょうか?」
「いいの? ありがとう」
「ええ。こっちです」
すっと足を前へ向ける。ゆったりと、人ごみを進む。若松先輩の周囲には人だかりが出来ていて、なかなか前が見通せない。
この中なら、堂々巡りをしてもばれないだろう――邪な思いが胸をかすめた時。
「おお、圭介!来てたんだね」
ところが時間稼ぎはもう、叶わないらしい。自慢だった高身長を呪いかける。
「お久しぶりです」
「来てくれてありがとう。まさか圭介がいるなんて思わなかったよ」
「後藤に誘われたんです」
「へえ、君たち、仲よかったんだ」
「ええ、趣味の繋がりがあって…」
「若松さん」
後ろから、白石先輩が、顔をのぞかせる。僕はすっと脇によけた。
「おお、沙羅。もしかして2人で来てたのかい?」
「あ、いえ、先程偶然…」
何故だか食い気味に反論してしまう。別に何も疚しくなどない。ところが、邪魔などさせまい、と鎖が僕の身体を絡めとってしまう。
「そうか。沙羅、来てくれてありがとう」
「こちらこそ、素敵な演奏、ありがとうございました」
「おっ、嬉しいこと言ってくれるね」
「コンマス、格好良かったですよ」
「はは。もうそんなにやる機会もないだろうけど。来年は国家試験があるしね」
「そんな。来年の卒業公演も見にいきますから、それまで頑張ってくださいね」
「ははは、流石は沙羅、鬼の指導だね」
ニヒルに笑う若松先輩。頬を紅く染める白石さん。
「おっ、鬼ってなんですか!」
「いやー、これから看護師になって、先輩をひいひい言わせるのか。楽しみだね」
「そんなことしませんよ。まったく、若松さんは…」
淀みなく、するすると紡がれる言葉。自分が居たいと願った、白石さんの隣。
分かっている。きっと白石さんは、若松先輩に憧れている。だから僕は、ここに居ても仕方がない。
ならば早く立ち去ってしまおう。意志に反し、足は踏み出せない。時間ばかりが経ち、現実はまざまざと僕の面前に描かれる。
「圭介、どうかした?」
若松先輩の声で、ぱっと鎖が解かれる。不思議そうに僕を見る2人の視線に、気恥ずかしさで溢れかえる。
「い、いえ、なんでもない、です」
「そう?」
「ええ。…もう行きますね、後藤に会ってきます」
「ん、そうか。今日はありがとう」
「またね、圭介くん」
「お疲れ様です」
ぺこりと一礼し、僕は人混みを離れ、まっすぐホールから逃げ出した。
ちょうどやってきた電車に飛び乗り、街を抜け出した。後藤からのLINEに「良かったよ」と返し、コンビニで夕飯を買い、気がつくと家路についていた。
もう夜だ。まだ五分咲きの桜が、駅前街道を覆いながらも、星々を覗かせていた。さらさらと、草木をつむじ風が誘う。
口の中で、さっきの言葉を反芻する。
「またね、か」
掠れた笑い声が漏れた。分かっていた。彼女は社会人になる。もう、簡単には会えない。分かっていた。今日言わなかったら、何一つ伝えられないと。
それでも、あの幸せそうな顔を見ると。二人の満たされた関係を目の当たりにすると。言葉が口をつくことはなかった。
「……ダメだったなぁ」
まだ夜だ。寝ぼけ桜のささやきが耳をくすぐる。
空を仰ぐ。桃色が空を埋め、星も、月も、見えなくなっていた。
コメント
視覚的な描写が多いわね
明快なストーリーの中で主人公の心情をしっかりと読める小説と感じます。ベト7第一楽章と、後はヘンゼルとグレーテル?(よく知らない)