悩むのではなく苦しむわけでもなく

皆の記事を読んでいると、自分はいかに低俗な記事しか書けないのであろうか、という思いが頭を駆け巡りますが、結局これは何も生み出さないので、うまく自分を取り扱うべきなのかもしれません。torikori です。
前の記事を書いて公開してやることにより、多少ながら、自分の心の整頓になったようです。ほんの、ほんの少しながら穏やかに生を営むことができています。
それはさておき、日々過去の記憶がよみがってきて、忘れることができないはずが忘れてしまった、だが今思い起こしたものなど様々なものをこの場に文章として残し、公衆の面前に置くことに対して、意味がほとんどないながらも存在していないわけではない、という気持ちになっています。つまり、結果としては、周囲、特にこのブログの著者に迷惑なことですが、再び文章の形で残す、というのを試みます。小学生の頃の考えを思い起こしてみることにでもします。
なお、この記事は、「学ぶのではなく考えるわけでもなく」という記事と関連があるかもしれません。
現状では未だ筆者自身の中にこれらは一体何なのか、明確な整理がついたわけではありませんが。

注意: この記事にはやや激しい表現、発言、行動などが含まれています。
また、これらの考えは基本的に小学生の頃の考えに過ぎず、現在の考えとは特に関連を持ちません。
また、当時筆者と関わった方を傷つけよう、不快に感じさせようといったものでもありません。

健全な学習

この考えは、小学生のころ、というよりはもう少し後のものかもしれませんが、関連があり、かつ中々記憶がよみがえるものでもないので、ここに記述しておくことにしておきます。
健全な学習とは、試験前に焦ることなどではなく、普段から学びとおし、授業内容を復習したうえで次回の授業までには身に着けるべきである、という主張のことです。
即ち、妥当な難易度なものであれば、学習した内容においては、満点近くを試験で取るべきであり、試験前の特別に勉強が成されるのは、試験問題が適切に授業内容を反映していなかったため、という考えをもっていました。
この考え自身は、現在でも筆者の勉学における「あくまで理想としては」指標として十分に耐えうると考えています。
また、一般には、これらは学習が不十分であるからそうなるものであり、皆が抱くものであるので、さして特別なことでないのかもしれません。それで苦闘しつつそれなりに勉強して何とか日々を生きていくのが本来のやりかたなのだという思いを今ならば感じます。ただ、当時は…
いつものごとく、当時、筆者にはそれをきちんと実行するために「計画を練る」、またその上に「実行する」という発想が欠けていました。そのため、ただただできない自分自身を嫌悪して、そのまま何もできないことが起こっていました。また、それにより処罰が必要ですから、頭を叩く、引っ掻くことにより傷つける、あるいは自らの飲食の権利を剥奪するなどの行いがありました。
これにより、他の賢いみなと比べ、何もできない無価値な人間が生じてしまうわけです。このようになってしまい、またそれがもはや癖付けられてしまったので、直すのは大変です。やはり、筆者はただの馬鹿では…?

食事禁止の概念

本来食事を摂るというのは人間の本能であるから、必要だという考えを持つ方もいるかと思いますが、少なくとも当時の私は異なる考えを持っていました。食事がとれるのは筆者自らが生存している旨を認めることにつながり、即ち人間的に生存するための要件を満たしていない以上、食事をとり、存在することは認められないわけです。
またこの考えは借金の概念とも結びついています。借金の概念から考えても十分に正当なものだったのです。何かしら食事をとると、当然のことに(それがたとえ直接どこかしらから購入したものでないとしても)食費が発生するので、毎度の食事ごとに、当時被保護者であった、自分自身が今後返済しなくてはならない借金が増大し、苦しみを増幅させ、また他者にもより迷惑をかける行いであるから、自明に禁止すべきことでしょう、という発想に至ります。
従って、時折食事を摂ることを拒絶したりしていました。しかしながら、今でもこれは不思議ですが、なぜだか断食は結局数食断つのみで、そののち結局食事を「自分を嫌悪しつつ」とるようになってしまうのです。それがいかに私自身の矛盾であるか、などとは頻繁に考えていましたが、結局結論が出ずじまいでした。

環境問題との出会い

学校において環境教育の重要性が唱えられていた以上、当時様々な科目において、具体的には国語でも理科でも社会でも、あるいは「総合的な学習の時間」でも、時折環境問題に関する話題をそれぞれの科目の視点から取り上げ考える教育がなされていました。また、学校図書館でも環境関連の本は当然のように目立つ位置に配下されていました。筆者は、学校の図書館にある、そのようなものの危険性を訴える本を、かたっぱしから読み漁っていた記憶があります。正確にいえば、そのようなもの関連、自分自身がいかに愚かかをなぞらえるような本以外、当時学校という教育の場で取り扱うのにふさわしくない、即ち「学校図書館」で借りて読むなどもってのほか、と考えていました。
また、おそらく明瞭な回答であり、実際に一部ではいわれていることですが、結局自分が存在して、ここにてCO2 を排出することが問題なのです。筆者自身が消え去って、この世から存在しなくなれば、環境問題が問題になることはないのです。(但し、ここにおいて、「環境問題を問題とする人がいなくなることにより問題が解決する」、という考えではなぜだかありませんでしたが、なぜそうなのかはよくわからずじまい)
また、一部小学生方面ではよくある、生命の殺戮自身を嫌う発想もあり、またそれが食事への拒絶へと向かうこともありました。ただ、殺戮を回避することには、結局は筆者自身がしぬべき理由としてただ追加され、借金がより貯まるだけという形になりました。ということで、ある意味別の問題に併合されてしまったので、それ「自身」ではそこまで色々妄想した、とは感じていません。

続、借金の概念

借金の概念は食事を禁ずるのみならず、その考えはすべからく (当然)自らのあらゆる行動に適用されます。したがって、自分がここに歩いているだけで存在しているだけで筆者自身は借金を負うのです。そこで、その迷惑を最小化すべく、いくらかの行為を行っていたような気がします。
例えば、当時考えていたのは、舗装路を歩く際、あえて歩道の端を最小の面積で歩いたりしていました。あるいは、道端に存在している車をいかに遠くから予想して、早期に避けることにより、自己が通行の弊害となることを回避するのか、というのも考えていました。
ここで、筆者自身が通行の弊害となるのを避ける、と書きましたが、しかしながらこれは、筆者が自動車に対し「恐怖」あるいは他の人間に対する嫌悪により生ずるものではないか、という思いもありますが、なぜこのような考えであったのか、よくわからずじまいです。
また、あえて走ることにより、他人に与える自らの道路占有時間を最小にする、などを行っていました。この考えには、じゃあ自己研鑽により自らの進退占有時間、あるいは体に生ずる無駄を最小にする、などという発想はなかったのですが、これがなぜそのようであるのかはよくわからずじまいです。
したがって、この考えに沿うと、筆者がこのブログに記事を投稿し、ハードディスク領域を消費し、更には電力を消費するのはもってのほか、ということになります。なぜ今このような記事を書いているのか、ということを責めるに違いありません。

「苦しみ」を求めるふりをして結局何もしない

苦しむことは美しいことでしょう。あるいは、苦しむことにより、他者との共感を得られるのではないか、という安易な考えです。筆者はただただ痛い人間であることを周囲に誇示することにより、自己が苦しみを求めている、と自己に錯覚させ、精神の安定を図っていたのかもしれません。
しかしながら、実際には他人に「痛み」をかえって与えることになり、いたってそれにより嫌われる、ということも今から振り返ると確かにありました。しかしながら、ただそれは他人が悪いのでも、あるいは筆者自身の行いによるものではなく、ただ単なる今言えばミスマッチであっただろう、と考えていました。ミスマッチが人間同士にあるのは確かに今でも事実だと感じますが、しかしながらそれを言い訳にして自らは他人とかかわろうとする努力を放棄していた、あるいは自己がなぜに嫌われていたのか、を把握しようかというつもりが消滅していたのだとわかります。

趣味禁止の考え

好きなことをもつというのは、それ自身無駄であります。それ自身自分自身の満足につながるものでしかない以上、そのような行為は当時の私
また、この考えは借金の考えからも正当化されます。自らの趣味に費やす金銭によって、他人は一体何人救えるのでしょうか。また、それにより一体今後何時間の労働を必要とするのでしょうか。
そのようなことを思考するために、いったい何人の命をあやめなくてはならないのでしょうか。
ちなみに、ここで「自分への投資」という言葉を用いそれらを正当化する人がいます。例えば、教育などはまさにその例でしょう。しかしながら、当時私はそれを正当化することができませんでした。なぜなら、それにより得られる便益が自分の借金返済を楽にするほどの意味を持たないであろう、と浅はかに考えていたからです。また、それ自身を自らはきちんとやりとげる能力などなく、結局は他者に迷惑をかけることしかなしえないであろう、と考えていましたからでもあります。
したがって、学校教員などから指示された範囲はもはや「趣味」として認識されるものではないので、自分自身は「楽しむ」ことは禁止されているのでなしえませんでしたが、多いに暴れてしまい、また無能さをさらけ出して、多数の方に迷惑をかけてしまった記憶が残ります。

現在から改めて考えてみると、俗にいう「失敗を恐れない」というのをある意味で筆者が自分に都合の良いよう勝手に解釈し、細かく読み込んだ振りをして結局自分自身の身勝手な論理というなの我儘に合わせただけでのではないでしょうか。ただただ無意味な日々を過ごすこととなったわけではないでしょうか。つらいですね。

これは、現状でも自分の成績がまともに学習できず、そののちの成績不振、あるいは自らの能力、やがては価値として評価されるものをただ押し下げてしまうだけのものだったのです。また、その当時の私をみていると、「自己研鑽」の概念が欠如している、と感じることが多くあります。結局自分自身を高めることを、ただ単に自分自身を苦しめて満足してそれで、正確にいうと「苦しめる」ふりか。それにより他人にはより迷惑をかけ何も生み出さず、むしろ他人の足を引っ張る有害な存在に過ぎなかったのです。

「共感」の取り扱い

「共感」という感情を抱き他者と共有することにより、人々の気持ちを思いはかることができ、より適切な選択を行うことができる、という考えは時たま主張されることだと思います。しかしながら、このように共感することをあまりに追い求めた挙句、筆者は自ら自滅することが多くありました。追い求めることに疲れてしまい、その場の勢いのみにてたとえば周囲に攻撃的な言葉を発したり、きついことを言ってしまうことがよくありました。それを自滅といわずして一体何なのでしょうか。
また、あるいは共感した「つもりに」なって手伝いを取り図ろうとすると、その共感は概ね誤解に基づくものであったので、かえって相手にとり迷惑、あるいは節介なものとなるのでした。しかしながら、筆者は自らの行動が以下に節介なものであり、むしろ迷惑であるか、ただただ自覚せず日々を無残に過ごしていました。

悩むのでもなく苦しむわけでもなく

結局再びまとまりのない文章となってしまいました。ただ、結局筆者のやってきたことは、何事もないものであり、苦しんでいる「ふり」をしていただけではないのか、悩んできた「ふり」をしてきただけであるのでは。それほど何事もないものに費やしてしまった筆者自身に何の意味があるか、否。そうして、そうして、ふたたび死ぬべき理由が増えてゆくのです。

さて、この記事を書く直前に、まとまった幸福についての考えである、わたしのこうふくろん という記事が公開されました。暫しの間思索にふけるのもよいかもしれません。それでは。

コメント

  1. nininga より:

    今は生きる価値を何かしら感じているのですか