ロマンティック・ロマンティスト

この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calender 2017」の15日目の記事です。

「猫サークル」なるものをご存知であろうか。もちろんの事ながら、猫を愛する貴婦人たちが集い猫自慢をし合う会、あるいは猫に障害物競走などをさせて楽しむ会、などではない。つまり彼らのしている事とは、そこらにいる野良猫たちの”お世話をする”——具体的には、餌をやったり、去勢手術をしたりして、ねこが快適に過ごせるような環境を作っている訳だ。やはり猫というものは全人類にとっての癒しなのであろうか、下宿の都合上自宅に猫を飼うことが出来ない人がいるというのもあって、私の通う大学にも、”White Cats”,”Nyarvelous”,”aineko”などなど、猫サークルと呼ばれるものは多く存在している。しかし多く存在することは必ずしも良いこととは限らない。人間とはなんと愚かなことであろうか、次は各サークルによる猫の取り合いが発生する。彼らはキャンパス内に明確な縄張りを作り、他の猫サークルと数少ない猫をあらゆる手段で奪い合っている。猫一体一体に個体番号と名前をつけ、さらにGPS機能搭載の首輪を取り付けて、自分の猫たちが他の縄張りに行かないように徹底的に管理してある。さながらアフリカの発展途上国の紛争地域である。そのほか、例えば餌を他より豪華にしてやるとか、野良猫が居付きやすいような環境を整えるだとか、様々な無駄な努力をしているらしい。彼らは自分たちのサークルで管理する猫を他より一匹でも多くしようと必死なのだ。

ここで私は、こういった類のサークルには全く関与していないことを告げよう。勿論私は猫が大好きなのであるが、そもそも猫を愛でるという名目で無駄に集まり、関係ない飲み会を開いて騒ぎ立てるなんて私の主義主張に反する行為であるし、何よりも猫に対して失礼だ。腕を組みながら上斜め45°を見続けて歩くことにより新歓全てを回避した私にとって、そんな訳の分からない猫サークルの勧誘を蹴ることなど造作もない話であった。

では私はなぜそのように猫サークルの内情に詳しいのか。実は私は大学構内のとあるスポットにて毎日、授業を抜け出して一匹の猫に餌をあげている。勿論大学構内にいる野良猫なのだから首輪もついていて、”Nyarvelous”の管理する猫だということも知っている。しかし私は彼に「ルーズリーフ」という名前を付けた。私がやってくるとすぐにルーズリーフは私の下に寄ってきて餌をせびる。彼が餌を食べている途中で私は、思う存分ルーズリーフの体をまじまじと観察することが出来る。そのうちに彼は私へ身を寄せて、暫く抱き合うようにして昼の一時を過ごす。自分たちが必死の思いで手に入れ、有り余るほどの愛情をかけて世話をしている猫が、こんな訳の分からない、薄汚い男の手の下で安らかに居眠りしているなんて、”Nyarverous”の連中は想像だにしないであろう。そう考えると私はますます興奮して一種の快感を覚えた。きっと彼らはこの猫に「マイケル」だとか「ココ」などと呼んでいるに違いない。でもこの猫は「ルーズリーフ」である。誰が何と言おうと、世界に一つだけ、「ルーズリーフ」なのである。たまらない背徳感、何も知らない彼らに対する圧倒的な優越感を覚えて、満足げに授業に戻るのが私の日課であった。だがある日、ルーズリーフは死んだ。

***

鍋は煮えわたっていた。

「…で、結局何が言いたかったのさ」

「おや、分からない? 君なら絶対に分かっていると思うけれど」

「いや、分かるけれど」

Sは鍋から鶏肉を取り出し、ポン酢につけて食べた。

「ここはあえて譲るよ。きっとこういうことは自分で言った方が締りがいいからね」

「つまり、幸福は増幅するという話さ。エネルギーとは違ってね。Nyarverousの人たちは俺がこんなことをしているなんて知らないわけだから幸福度は下がらない、しかし俺は何も知らない愚かな奴らを考えて幸福な気持ちでいる。これってつまり、トータルで見たら幸福は増えているじゃないか」

豆腐を掬い、息を吹きかけて慎重に口に入れる。

「まあ、考えようによってはそうかもね」

「そして俺はここで君に話すことによって、さらに追加の幸福が得られた」

「そもそも社会ってのがそういう風に成り立っているんだよ——」

Sはずるずると音を立てて熱々のしらたきをすする。

「——何をしたって結局幸福と不幸の総和が0になるんだったら、だれも生きようとなんてしない」

「どうかな。われわれには最後のイベント、死が待っている訳だからね。そこから先は、永久の虚無。現時点では、俺にだって何も分からない」

「何にしたって、現時点では総和はプラスのはずさ。そうじゃないと、昔みたいに世界はもっと混沌さ。今の生きやすい時代に感謝しないとね——ところで、君のほんとうに言いたいことはそれ?」

スープの中に残ったねぎをすくって一気にほおばる。

「つまり?」

「逆も成り立つのかいって話だ」

世界が静まり返る。鍋にはもう、何もない。

***

私は一人京都の夜町を歩いていた。あちらには手をつないではしゃぐカップル、こちらには酔っ払いのおじさんグループ、そしてここにはひとり。手足が冷たい。息は白い。しかし、京都の夜は長い。どこかの本にも書いてあることだ。ゆっくりと散策することにする。

人生の幸福について考える。私にはいとこがいた。彼は私よりひとまわり年上で、とても優秀な人だった。子供のころはよく面倒を見てもらっていたものだ。彼は大学受験の年、地元がいいというそれだけの理由で、周りの反対を押し切って東大を断り、地元の国公立大学に進学した。でもそこで彼は変わってしまった。毎晩大学仲間とお酒をひっかけて遊ぶようになり、優秀だった彼は、彼の未来とともに崩れてしまった。ついには親戚の集まりにも顔を出さなくなり、そこでおばはこう言った。「東大に行けばよかったのに…

彼は何を思い、何を選び取り、そして何をしたのか。漫画の主人公なんかは簡単だ。努力して、常に正しい選択肢を選び続ければ、必ずハッピーエンドに向かう。しかし彼は違う。私たちは違う。大して努力もせずに、合ってるのか間違ってるのか分からない選択肢を選び続け、ハッピーエンドかバッドエンドか分からないような世界を生きている。生かされているのかもしれない。東大に行かなかった彼ではないが、私は今までできっと多くの過ちを犯してきたのだろうと考えるととてもつらい気持ちになる。

「まあ落ち着きなはれ。そんなに深く考えても話は見えてこん」

行きつけの屋台ラーメン屋でラーメンを食す。スープには辛味噌が効いていて冬の凍えた体に染みる。

「あんたは深く物事を考えすぎてる。もっと自由きままにいきればいいんだ」

「例えば考える葦と考えない人間を比べたら、どちらが崇高な存在なのかは明らかであろう。思考を放棄することはそのまま人としての尊厳を放棄しているのと同義である」

「そんなに人は崇高な生き物なのかい」

麺をスープに絡ませ、一気にすする。

「人間が、という言い方はおかしいかもしれないな。私は人間に対してそこまで深い忠誠心も信仰心もあるわけではない。というか大体の人間はそうだ。そうじゃなかったら、わざわざ他人を傷つけたり、殺したりはしないだろうから」

「では自分が好きなのか」

「そうではない。私は自分のことなんて大嫌いだ。何も持っていない、何もできない、何も成しえない。でも理想ならある。夢ならある。そのためにどうすればいいのかは、わからない」

スープを飲み干し、水を一口飲む。

「まあ、つまらない男だよ、私は」

***

どうして猫は死んだのかルーズリーフはある日突然死んだ。それも、私とルーズリーフがいつも会っていた場所で、まるで干からびた蛙のように、仰向けになって、四肢を放り出して死んでいた。理由は分からない。せめてもの償いとして彼を人目の付かない隅の方に持っていき、体を丸めた状態で置いた。首輪がついているんだから、そのうちNyarverousの人が回収しに来るだろう。私は持ってきた餌とともに、ひっそりと授業に戻った。

***

行きつけのバーでカクテルを飲むなど、昔の私からすれば考えつかないような行為かもしれない。マスターにブラッディ・メアリーをひとつ頼み、また思考の海へと潜る。

全人類が幸せになるにはどうすればいいのだろうか。すべての人が幸せな生活を送るなんて、もしかすれば不可能なのかもしれない、いや不可能なのであろう。もしくは私のような小市民には、それを考えることすら驕りなのかもしれない。いつからそんなことを考えることが誤っていることだという認識に至ったのか。私の通っていたカトリック系の幼稚園では少なくとも、毎週日曜日には世界中の人間が幸せになるように手を合わせたはずだ。いつからだろう。どうしてだろうか。私には、分からない。

「不思議なことね。人は成長していけばいくほど、自分の限界を本能的に理解する、ということなのかしら」

「どうなんだろう。すべての人の幸せを願うことすら、俺の能力ではできないということなんだろうか」

ブラッディ・メアリーをちびちびと飲む。飲み始めて1年にも満たず、いまだに自己流のカクテルの楽しみ方を見いだせないでいる。

「認識の問題なのかもしれないよ。相手のことを深く知るには、まず相手の立場になって考えないといけない。3人以上でも同じ。クラス・ルームでも同じ。大学でも同じ。日本でも、世界でも同じ。まずは相手の立場にならないと、何もかもがうまく回らないんじゃないかしら」

「相手になって考える、人々になりすまして考える、そんなに難しいことなんだろうか」

「もちろん難しいことですよ。例えば、この文章は筆者が書いている。ここに私という存在が仮定されているけれど、でも実際に私は存在していない。すべて筆者の頭の中にある。と同時に、もしかしたら筆者の存在自体も、フィクションの存在なのかもしれない。そうやって終わらない無限の螺旋階段のなかで私は、相手の存在を確認し、相手の気持ちにならないといけない。不可能なのだろうか。無理なのだろうか。所詮私の驕りであったのだろうか。私はロマンティック・ロマンティストだ。理想的に理想論を並べて何かを言った気でいるだけだ。何かを成し遂げたのだと思っているだけだ。でも私はそれでいい。そうやって理想ばかりをならべつらね、それをまるで博物館の展示のようにじっくりと眺める、それだけでいいのだ。それだけでよかったのかもしれない。それだけで

不意に、何かが足りないと感じた。

何かを探さないといけない。

どこにあるのか。分からない。走らずにはいられない。

夜の街を走り続ける。ルーズリーフと戯れたあの場所、すべてが収束する交差点、行きつけのラーメン屋、バーショップ。数えきれないほどの家々。数えきれないほどの道。数えきれないほどの可能性。ありとあらゆる場所を、私が行ったことのある、もしくは行ったかもしれない、大切なのかもしれない、そんな場所を求めて走り続ける。しかし見つからない。路地裏のゴミ箱の中にも、橋の下の暗がりにも、どこにもない。ない。何がない? 居ないのは僕だ。僕だけが、この街でたった一人存在しない。どこにもない。虚無。

ああ どこにも ない 僕の 存

在が

***

果たして世界は何事もなかったかのように回り続けた。幸福は増幅され、不幸は影を伸ばし、いつも通りの日常がそこにはあった。

でも、これだけは言える。猫は、ルーズリーフはもうこの世のどこにもいない。ルーズリーフは僕が殺した。その事実だけが世界には残る。それだけでいい。それだけで僕は世界に少なからず影響を残したのだから。

ああ、それにしても、僕はどこで選択を誤ったのだろうか。もしかしたら、いや、僕は東大に行くべきだった。そしてそのために、あらゆる努力をするべきだったんだ。

この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の15日目の記事でした。wottoが担当しました。16日目はSTARTさん担当の予定です。

コメント

  1. START より:

    世界が交差していく。wottoはやはり、巧いなあ。

  2. takshaka より:

    ルーズリーフがジバニャンで再生されてしまう点を除けば、大満足だった。とりあえず、俺は好きな小説やわ。

  3. nininga より:

    単細胞生物並の頭なのでわかんないや