こんなことを考えてみてください。
聡明であった青年が、ある日事故に遭い、脳に障害を負ってしまいました。親類の介護により彼が望むことはなんでもしてもらえるようになりました。さて、この青年は幸福でしょうか?
あなたの答え、そしてなぜそう考えたかを意識した上で続きをお読みください。
この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の14日目の記事です。
「あなたは幸せですか?」
私は、幸せです。誤解を避けるべく言い直しますが、そう感じる時がしばしばあります。ですが、世には常に自身は不幸だと、あるいは幸せであってはならないと感じ生きている方々が一定数おられます。何故でしょう。無論、そう感じている方々にとっては、人は何が幸せで生きているのだという疑問が生じても何ら不思議ではないと、そうとも思います。さて、今日は幸福について考えてみましょう。
簡単な準備
そもそも、何をもって「幸せ」とするべきなのでしょうか。ここで三つの説をご紹介しましょう。
・快楽説 – (身体的のみでなく、精神的なものも含む)快楽の多い人生こそがより幸福な人生である。とする説
・欲求充足説 – 当人が欲求した事態が現実で実現することが幸福である。とする説。ただし、その実現に対し当人が「充足感」を得ている必要は必ずしもない。
・客観的リスト説 – 幸福な人生において得られるべき項目の客観的なリストが措定されているという説。
(デレク・パーフィット「理由と人格」より)
上二つについてもう少しだけ付け加えておきましょう。簡単に纏めるならば、快楽説は「主体的に幸福、すなわち、幸福感があればよい」、欲求充足説は「客観的に幸福であればよい、すなわち、欲求が実現さえされていればよい」ということであります。ここに、欲求充足説ではその欲求の実現を本人が承知している必要は必ずしもないということにご注意ください。
さて、冒頭の思考実験に戻ってみましょう。こんなものでした。
聡明であった青年が、ある日事故に遭い、脳に障害を負ってしまいました。親の介護により彼は望むことはなんでもしてもらえるようになりました。さて、この青年は幸福でしょうか?
いま、あなたが「快楽説」の立場を取れば彼は幸福であると考えても異論の声はあまり多くないと予想されます。「欲求充足説」の立場を取ればどうでしょう、答えを出すのに非常に悩まれることでしょう。そもそも彼が何を欲求している/していたかが不明であり、事故以前に欲求していたことを事故後も欲求している、とは必ずしも言えないのですから。
パーフィットの三つの説の紹介の前に上記の「彼」についての例を考えてもらったのは訳があります。「彼」は不幸であると考えた方、なぜそう考えましたか?事故に遭い脳に障害を負うことは不幸な事であると、そう考えたのではないでしょうか。そこには「客観的リスト説」の立場を取るあなたと、まさにその懸念事項があります。すなわち、「これこそが幸福/不幸である」という考え方の押し付け(父権主義/パターナリズム)が“客観的”でなければならないはずのリストの措定の際に起こりうるということです。
で、なに?
―――と、やきもきしている方、関心を抱き読み進めた方(ありがとうございます)、痺れを切らしページを閉じた方等、様々でしょう。ここでやっとですが、私の主張を述べます。
「幸福」とは規定“された”ものではなく、規定“する”ものである。
これは余談ですが、最近、昔の恋人に「幸せになってね。」と、そんなようなことを言って別れたのを思い出します。しかし今思い返してみればなんと私の傲慢なことでしょう。当時の私は彼女に、私の規定するところである幸せを押し付け、その条件を満たせと、そう言っていたのです。そんなものは彼女の幸せを願った発言などでなく、私のエゴに過ぎなかったのでしょう。
さて、先の私の主張は些末なものに思われるかもしれません。ですが、もう少し考えてみてください。
沢山の種類の武器を選べるゲームをプレイするあなたは何故その武器を選んだのでしょう。
今日、明日、何を着ようか迷った結果選んだ服は何故、その服だったのでしょう。
あなたは、何故、今そのような環境の下で過ごしているのでしょう。
きっと、「この武器を選べ」「この服を着ろ」などと言われたわけではない筈です。
すべてはあなたの選択、つまり、
「こうしたら楽だから」
「こうすると楽しいから」
「こうすると頑張れるから」
「単純にこれがしたかったから」
等々の理由で、あなた自身が選んだのではないでしょうか。すべてを強制させられて生きている方はあまり多くないと存じます。今まで自分のほぼすべてを誰かに強制させられてきた方も、せめて、「何が幸福であるか」くらいは自分で決めようじゃありませんか。
貴方は「幸福感の多さ」を幸福としますか?
「苦痛であっても欲求が実現すること」を幸福としますか?
それとも、「措定された目標を果たすこと」を幸福としますか?
私はせっかくですから、「一番自分が幸福になれる」よう、自分自身にとっての幸福を決めようと、そう思います。
最後に一つ、ここまで読んでくださった貴方に質問を。
「あなたは幸せですか?」
この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の14日目の記事でした。すぺくたが担当しました。15日目はwottoさん担当の予定です。
コメント
面白く読ませていただきました。思うに、最初の問いに対する答えは「私が「彼」ならば」であるとか、「私の価値観で言うならば」というのが前提となるのではないでしょうか。つまり、「彼」にとっての幸福など知れたものではないという前提に思考するということです。
しかし、この「前提」の存在こそが私にとっての主観なのですから、これ以上は何とも言えませんね。
少なくとも、「幸福の定義を他者に依存する」人がいるという可能性を、改めて考える機会になったという点で、大変有意義な記事でした。ありがとう。
STARTさん
コメントありがとう。
意図される判断基準として、「客観的に」彼が幸せであるかどうか、というのがあります。しかしながらご指摘の通り、「完全な客観」、及び「完全な主観」は存在しません(周りに影響されて自分の価値判断が変わること、きっとありますよね。)。実際問題そこら辺はすごく深い話になりそうです。。。
幸福実現党というネーミングには深い意味が…!?