浴場

「本当に、俺なのか?」思わず出た独り言が、風呂場に響きわたる。それは直ぐにシャワーの音にかき消された。

俺は仕事で大きな失敗を犯した。新たな取引先の獲得に失敗したのだ。成功すれば過去最高の利益が見込める。そう言われていた大事な商談だった。

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光栄なことに、俺は1年前そのチームに参加することになった。当時入社2年目だった俺は、俺が任されていいのかという不安より、絶対に成功してみせるという自信のほうが優っていた。チームリーダーを務めた高井戸さんの指示のもと、チーム全員が完璧に仕事をこなしていった。俺も、憧れの先輩である高井戸さんからサポートを受けながら、出来ることを丁寧にやっていった。商談はスムーズに進んでいった。そのぶん、俺はチームに貢献している、俺はチームの一員として働けているという気持ちが強くなったのは言うまでもない。

そのとき、事故は起きたーーいや、これは事件かもしれない。商談成立まであとわずかとなった合同会議に、俺は高井戸さんに同席させてもらえることになった。会議はどんどん発展していく。いつになく高井戸さんの目が鋭い。これが最後の山だ、そのときは俺はそう思っていた。江本、あれを出してくれ。高井戸さんが俺に向かって目で合図する。準備万端。俺は自分の鞄からファイルを出しーー

無い…………無いっ…!

俺の頭の中は焦りにすべて埋めつくされた。昨日徹夜までして作った大事な資料が、ここに無いのである。必死で思い出そうとした。資料を仕上げて…いつもの青いファイルにしまってから…鞄に入れた! 絶対に! あり得るとしたら…そのあと仮眠をとって…その間に誰かが…誰かが…
「おい、どうしたんだ江本!」
高井戸さんの声で我に返った。瞬く間に、俺の身体は膝から崩れ落ちた。途端に涙まで溢れ出てきた。声を押し殺すも、静寂の部屋に響くには十分だった。

それからというもの、積み上がりかけていたドミノ倒しは、1つが倒れたがために総崩れとなった。「御社との取引が本当に利益か、再度考えさせて欲しい。」これが決裂の言葉だった。若いんだからこんなミスだってあるさ、と高井戸さんは声をかけてくれるが、その目はやはり笑っていなかった。それほど規模の大きい会社ではないので、俺の周りどころか社内全体で重たい雰囲気が立ち込めていた。ひそひそと噂をする人も多くて、到底居心地のいい場所ではなくなった。俺はすぐに会社を辞めた。事件以来俺はうつ状態を抜け出せなくなり、遂には睡眠薬無しでは眠れないほど精神を蝕まれていた。

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湯船に浸かると、温かさに包まれて不意に身体が軽くなった。俺はあの日のことを鮮明に思い出した。と言うか、思い出してしまった。何度も何度もあの光景と感覚が蘇っては俺を苦しめてきた。しかし、なぜだろう、今日は違う。頭の中のもやだったものが今、塊になろうとしている。

俺は、はめられたんだ。まだ未熟な2年目のはずなのにチームに参加した俺を蹴落とそうとする輩がいたということか。そして俺に失敗の責任を擦りつけた。ファイルを隠すという悪質な手段で。妬みーー俺の頭をその2文字がよぎる。嘆かわしい気持ちになった。俺に対してじゃない。犯人に対して、もっというと、こうなってしまった現実に対してだ。どうして他人を蹴落とすことしかできない?どうして自分がのし上がる努力をしない?どうして俺が悪に負かされねばならない?苛立ちしか湧いてこない。のぼせてきたのかもしれない。

身体が勝手に反応したのか、頭の先まで湯船に浸かった。自然と心が安らいできた。小さな泡がのぼっていく。肌に触れて心地よい。

ーー…2017年もあと1分になりました…ーー

つけっぱなしのテレビの音が風呂に入ってくる。もうこんな厄年とはお別れだ。2018年はきっといい年になるだろう。湯の中で目を開けてみた。光が揺れる。今この時みたいに、温かさに包まれたなら。泡の数だけ、希望に包まれたなら……さぁ、年越しのビールでも開けようか。早く風呂を出よう……っっっ!?!?

いきなり心臓に激しい痛みが突き刺さる。これはいったい何だ…もしかして…心臓麻痺!し、心臓麻痺!てことは俺死ぬのか…!?痛みに串刺しにされながら意識が薄れていく。口に湯がどんどん入ってくる。嗚呼苦しい!もがけどもがけど地獄から抜け出せない。どうしてだよ!明るくなったら負けなのかよ!俺は所詮こんな生き方しかできないまま終わるのかよ!

生きる希望なんて何だよ。

いっそ怨霊になってやる。

コメント

  1. nininga より:

    音の描写が多くて良いと思いました。(小並感)