おじいさんが野道を歩いていると、若い蛇口が一匹罠にかかっているのを見つけました。
「助けて〜助けて〜」
蛇口は、とても苦しそうな声で助けを呼んでいます。
親切なおじいさんはすぐに駆け寄ると、蛇口を捕らえているトラバサミの解除に取りかかりました。野生の蛇口は国の天然記念物です。それを罠にかけるなんて……。おじいさんは人間の残酷なまでに深い欲望に対して悲しみを覚えました。
「可哀想な蛇口や、すぐに助けてあげるからね」
程なくして蛇口は助け出されました。蛇口は一言礼を言った後、こう付け加えました。
「我々を『蛇口』と呼ぶのはやめていただけませんか?」
「はて、それはどうしてだい?」
「蛇の口という、気味の悪い名前が嫌いなのです。これからは代わりに『カラン』と呼んでいただけませんか」
「カラン」、オランダ語で「鶴」を意味する言葉です。なんとも優雅で、美しい呼び方ではありませんか。おじいさんはにっこり笑うと、蛇口、もといカランに対してこう言いました。
「もちろんだとも。ささ、カランや、もうお行き。今度は罠なんかに捕まるんじゃないよ」
カランは体をグニャリと曲げて嬉しさを表現したあと、何処かへ飛んで行ってしまいました。
次の日から、おじいさんの家の流し台の蛇口、もといカランからオレンジジュースが流れ出すようになりました。おそるおそる飲んでみると、なんと絶品です。それに、飲んだ後にみるみる力がこみ上げてきます。この素晴らしいオレンジジュースを一杯飲むと、おじいさんはこれの商業化に踏み切りました。
おじいさんのカランから出たオレンジジュースは、飛ぶように売れました。勿論、一本の人工カランから生産されているオレンジジュースに過ぎないため、大量生産をすることはできません。しかしおじいさんは、持ち前のプロデュース能力を存分に発揮し、限りあるオレンジジュースを一部の上流階級の人間のみが口にできる「幻のみかんぢゅーす」として売り込み、安定した値段とシェアを確立していったのです。
これを読んでいる皆さんはもうおわかりのこととは思いますが、このオレンジジュースを出しているカラン、これはかつておじいさんが罠から救ってあげたカランなのです。おじいさんに恩返しをするために、こうしてこっそりと流し台のカランにすり替わってオレンジジュースを出してあげているのでした。おじいさんを幸せにできて、カランもとても誇らしく思っていました。しかし、この幸せな日々も永くは続きませんでした……。
おじいさんがいつものようにカランからオレンジジュースを汲んでいると、黒い背広を着た集団が家を訪ねてきました。
「滋賀県警の南雲です。少しお宅を拝見させていただいてよろしいでしょうか?」
「えぇ、まぁ、はい。しかし……」
おじいさんが用件を訊ねる前に、警官たちはどっと家の中に押し寄せ、流し台のカランに目をやりました。
「これだ! 見つけたぞ!」
警官たちは慣れた手つきでカランを外しにかかります。
そうです、あまりにも素晴らしい効能を持つあのオレンジジュース、これに違和感を覚えた他の食品会社が独自に調査してしまった結果、野生のカランから流れ出たものであるということを突き止められてしまったのです。人工のカランを生活の中で使うのはなんの問題もありません。しかし、それが野生のカランとなると話は別です。天然記念物、それもカランを無許可で使っているとなると、おじいさんの厳罰は免れません。
カランが見つかるや否や、警官たちはすぐさまおじいさんを取り押さえます。
「はなしてください! 私は自分の意思でここでオレンジジュースを出し続けていたのです! おじいさんはなんの関係もありません!」
いくら言っても警官たちは聞く耳を持ちません。なんともいえない悲しそうな目でおじいさんはカランを一瞥すると、しぶしぶと連行されていきました。
カランは涙を流しました。自分の恩返しが叶わなかった苦しみを、所詮生きたカランと人間が共に過ごすことなんてできないのだという絶望を、心から洗い流さんとばかりに泣きました。しかしなぜでしょう、泣いても泣いても心は晴れないのです。とめどなく体から流れる涙こそが、彼をカランたらしめているからです。泣けば泣くほど、自分は力のないカランでしかないということをまざまざと思い知らされるのです。
カランの金属でできら体が朽ちて、もう涙も流せなくなった頃、彼の周りには流した涙によって大きな湖ができていました。彼は事切れるその瞬間まで自分の無力さを嘆いていたのでしょう。しかしその後何千年もの間、その湖は人々と水源として多くの命を育むことになるのでした。彼の涙は、無駄ではなかったのでます。
その湖こそが、今の琵琶湖なのです。