この投稿は「カオスの坩堝 Advent Calender 2017」の17日目の記事です。
リオデジャネイロのはずれにある森の中をぶらぶら散策していると、妙な光景が視界に飛び込んできた。
崖から突き出すようにして設置された建物だ。古びており、今にも熱帯地方の力強い植物たちに飲み込まれんという有様であるのに、どこか荘厳で揺るぎのない美しさを湛えている。
中に入ってみると、それが礼拝堂であるということはすぐにわかった。長椅子はきれいに並べられ、前には木でできた大きな十字架が掲げられていた。十字架越しには真っ青な海が見え、自分が吸い込まれるような錯覚に陥る。
なるほど、美しい場所だ。
私は適当な椅子に腰かけ、ゆっくりと深呼吸をする。ここが熱帯であることを忘れてしまうほどに涼しげで爽やかな空気が、肺を充満していく。
ブラジルに渡ってもう四年になるが、現地でこんなにも落ち着いた気分になることができたのは初めてかもしれない。この礼拝堂も、宿からはそう遠くはない。気分転換に毎日来てみるのもいいかもしれないな。
自然と目を閉じ瞑想にふけっていると、不意に背後から声をかけられた。
「おとなり、よろしいですか?」
堅いポルトガル語、生真面目そうな男の声だ。
「ええ、どうぞ」
私は反射的にそう言って振り返る。が、そこには誰もいなかった。
「おや?」
不思議に思ってあたりを見渡すも、どこにも人影は存在しない。声ははっきりと聞こえたはずなのだが……。
嫌な想像がいくつか頭をよぎりゾッとしていると、さっきと同じ声がまた聞こえた。
「いやはや、これは失礼しました。大丈夫です、ストレスで幻聴が聞こえているわけでも、誰かに変な薬を盛られたわけでもありません。まあ広義的には、それらと同じようなものなのかもしれませんが……。ともかく、もう少し視線を落としてください」
私は言われたように目線を下へとやる。と、長椅子に一匹の小さな昆虫がのっかっているのを見つけた。頭に四つに分かれたこぶのある、何とも珍妙な姿をしている。
「私が、声の主です」
「あなたが、声の主なんですね。ヨツコブツノゼミ、ですよね?」
私がそう返すと、その昆虫は少し驚いた後にっこりと笑った……ように見えた。
「よくご存じですね。それに、虫が喋っているというのに少しも驚く気配がない」
「昆虫の分類と進化について研究しているもので。かれこれ二十年、虫たちを求めて世界各地を渡り歩いています。その中でいろんな目に遭ってきましたから、今更虫が喋ったぐらいでは取り乱したりしませんよ。いや、驚いていないと言うと嘘になるんですがね」
そして、しばし沈黙が流れる。なにせ、相手は昆虫なのだ。会話が無くなってしまっても無理はないだろう。
「……昆虫の研究をしている、とおっしゃっていましたよね?」
沈黙が気まずくなったのか、ヨツコブツノゼミの方から口を開いた。昆虫に気を使われてしまうなんて、私もまだまだのようだ。
「ええ、そうです。もっとも、研究対象はカメムシが主なんですけどね。カメムシ、ご存知ですか?」
ヨツコブツノゼミはゆっくりと頷いた……ように見えた。
「はい、知っていますよ。そこらじゅうにいらっしゃいますから。ですが彼らはなかなかに気難しくて、あんまり深い交流は持っておりません」
「そうなんですか。そっちはそっちで大変なんですねぇ」
昆虫たちの交流に関してあまり深いところまで想像が及ばなかったものだから(昆虫博士だというのに恥ずかしい話だ)、つい社交的な返しをしてしまい会話が途切れる。これではいけないと思い、今度は私から話を振った。
「この礼拝堂へは、よくいらっしゃるんですか? ここら辺に住んでいらっしゃるヨツコブツノゼミとお見受けしましたが……」
「ええ、毎日通ってるんですよ。こんなちっぽけな虫が偉そうにとお思いになるかもしれなせんが、結構信心深いんですよ、私」
偉そうだなんてとんでもない、と私は首を横に振る。むしろ毎日礼拝堂に通うという彼には、つくづく頭が下がってしまう。何かを信じぬくことの難しさと崇高さは、たとえ種族が違っても変わることはないということぐらい、私にもわかることだ。
「そうなんですね。きっと神は、あなたに救いの手を差し伸べてくれますよ」
「いえ、私は救いが欲しくて毎日祈りをささげているわけではないんですよ。ただ、感謝の意を表しているんですよ。……進化についてよく知ってらしゃるあなたなら、ちょっとは想像がつくんじゃありませんか? ヨツコブツノゼミである私が、神を愛し、神に感謝し、ただただ祈りをささげている理由について」
そう言うと、ヨツコブツノゼミは少し寂しげに笑った……ように見えた。彼の言う通り、ヨツコブツノゼミの信仰心の理由について、私も大体の見当はついていた。だが、それを私の口から言うのはまた違うような気がしたのだ。
ヨツコブツノゼミの同じことを思っていたのか、改まったような口調で自分の身の上を話し始めた。
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あなたは進化論を信じてらっしゃいますか? ええ、もちろんそうでしょうね。科学者なら当然です。
でもね、私は信じないんですよ。なぜかはわかりますよね。そうです、進化論では私が持つ奇怪な姿を説明することができないんです。
この頭に生えた大きな角。先が四つに分かれてはいますが、何の役にも立ちません。あまりにも大きいため重心がぶれにぶれますから飛びにくいですし、形がいびつすぎて擬態にもなっていません。この角があってよかったと思ったことなど私はついぞありませんでしたし、事実、生存には何の意味も持っていないのでしょう。これは、生き残るべき生物だけが生き残るという進化論の法則にまっこうから背くわけです。
ですから、私は神を信じるのです。すべての生物は神のご意志によって形作られ、この世のものとして命を授かる。そう思わないと、我々は自身の存在に意味を持つことができないのですよ。
いや、そう私を気高い生き物だと思わないでください。神にすがり続けるしかない、矮小な虫なんですよ。
でもね、私は誇らしいんですよ。少なくとも神様は、この矮小な私にも目を向けて下さっているんですから。そう思うと、感謝とともに、少し自信が湧いてくるのです。
神の存在を信じるようになる前は、とても苦しい毎日が続いていました。生きているだけでこの世界に申し訳なかった。
いつも「声」が私を責め立てるのです。はやくこっちに来い、とね。その「声」の主の正体も、私はなぜかはっきりとわかるのです。それは、「摘み取られたすべての可能性」そのものでした。この世界から不必要なものとして淘汰されつくされた様々な生物と、その先の進化の形。恐竜、妖精、流産によって命を落とした赤子……ありとあらゆる可能性が、怨念が、私に憎しみを向けるのです。なぜお前はそうやってのうのうと生きているんだ、ってね。
そんな声も、今は聞こえなくなりました。神に作られたものである以上、自身の存在に罪悪感を持つのは、最大の背信ですから。
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一通り話し終えると、彼は疲れて黙ってしまった。こんなにも長く人間に話をしたのは初めてだろうから、無理もないだろう。
彼が息を整えている間、私は今聞いた興味深くも偉大な信仰に思いを馳せた。
彼は神に救いは求めていないと言っていたが、それは全くの嘘なのだ。彼は神の存在を信じるまで、「摘み取られた可能性」の呪縛にさいなまれ続けていた。彼は確かに、そういった怨念から救われるために礼拝堂に通っているのだ。
じゃあ彼は救われていないのか、というとそうでもない。彼は存在に意味を与えてくれた神に対し感謝することで、すでに根源的な悩みから解き放たれている。
彼が祈りをささげる意味は、その場で生まれ、そしてその場で完結しているのだ。
「……少し、落ち着きました。すみません、話し慣れていなもので」
申し訳なさそうにするヨツコブツノゼミに対して、私は微笑む。
「いえ、お気になさらず。あなたの信仰心のすばらしさを、しっかりと噛みしめていたところですよ」
「ハハハ、ヒトという種族はお世辞もご上手なようですね」
しばらくはにかみ笑いを浮かべていた(ように見えた)ヨツコブツノゼミだったが、突然はっとした顔になった。
「ああ、そういえば、もうすぐクリスマスなる催しが近いのではありませんか? 主なるキリストが生誕なさった日であるとか」
「そういえば、確かにそうですね。ここに来てからはあまりそういったイベントには参加していませんが……」
年を越すのもブラジルでいいだろうと適当に思っていた手前、いざクリスマスが近いと言われるとびっくりしてしまう。季節感が完全に飛んでしまっている。キリスト像のあるリオでクリスマスを意識していないなんて、まったく恥ずかしい話だ。
「ツノゼミのあなたは、もうプレゼントは用意したのですか?」
「プレゼント……? ああ、プレゼントを渡しあう文化もあるとは聞いています。でも、所詮はこのちっぽけな体で、満足な贈り物を用意できるわけありません。ただ、私は神の生誕日たるクリスマスに向けて、やっておきたいことがあるんです。神と、そして私自身の信仰に報いるために」
「と、いいますと?」
「私の信仰を、いえ、生きる意志を、苦しんでいる誰かに伝えてほしいんです。それは、進化論を信じるなということじゃありません。神を信じろということでもありません。ただ、『私たちは生きていいんだ』、それだけが伝われば十分です。自分に意味がないと思っていても、自分を罪深い存在だと思っていても、見方が変われば世界は全然違って見えるようになるんです。世の中、それだけいい加減なものなんです。だから、いい加減な考えでいい加減に生きたっていいんです」
いい加減に生きたっていい。投げやりになっているわけでもなくふざけているわけでもなく、彼は本心からそう思っているのだろう。直向きな信仰心をその胸に宿しながらなお、それをいい加減と断言することが、彼にはできるのだ。
「『生きたくない』と考えているすべての人に、この私のちっぽけな意志が届けばいいと思っています。それで救われる人がいるなら、そこで初めて私はイエスに報いることができるのでしょうね」
そう言ってヨツコブツノゼミは微笑んだ。なぜだか、今度ははっきりと微笑んでいるのがわかった。
その三日後に、このヨツコブツノゼミは死んだ。崖に建ったあの礼拝堂の、いつもの長椅子に座りながら、静かに逝った。
不思議と涙は出なかった。むしろ、やはりツノゼミが長生きするわけはなかったのだなぁ、という妙な納得感すらあった。といういうか、出会って数日のヨツコブツノゼミが死んで泣いてしまう昆虫博士の方が、この場合は不自然だろうか。どちらにしろ私には、彼が全く悔いのない虫生を送ったという確証があった。だから、泣く理由はどこにもないのだ。
私にできることは、彼の意志を、遺志を別の誰かに伝えることだ。だから、この手記を書いている。うまく書けているかはわからないが、こう見えても全力で書いたつもりだ。
きっと彼なら許してくれると信じて、私は筆を置こう。ここまで読んでくれて、本当にありがとう。
この記事は「カオスの坩堝 Advent Calendar 2017」の17日目の記事でした。タクシャカが担当しました。18日目はあまみるきー担当の予定です。
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