システマチック・ラブ・メソドロジー

「あのね、アドバイスが欲しいんじゃないの」
「ちょっと…頼り甲斐がないかな」
「私あの人の前では泣けたの。だからユウト君よりあの人の方が、甘えられるのかなって」
「あはは…大学の授業にも出なくって、単位も落として、そんなんで大丈夫なの?」
「今日はしないって言ったらしない。なんでわかってくれないの」
「…あんた、思ったよりおもんないな。ちょっと優しすぎるんとちゃうか」
「なーんかね、最近おうちばっかじゃん?たまにはさ、遊び行こうよ。ほら、今度クリスマスだし」
「もういいから!今はそんな話聞きたくない!」

「もう、好きじゃなくなっちゃった。さよなら」

「どうしたの?ぼーっとして」
目の前の彼女を見る。少し緩めの真っ白なニットに、桜を思わせるようなパステルピンクのスカート、首元にはシルバーのネックレスが輝いていた。彼女の華奢な体躯が春らしい色味を纏って、ひょっとすると名前のせいもあるのかもしれない、来る暖かさに花が香り咲くようだった。
カフェには他の客もちらほらいた。各々の話の断続的な交響が僕の耳に喧騒となって届いた。会話が途切れた拍子に、図らずも今この状況に似通った過去に思いを馳せて、意識が遠のいてしまっていた。ふと壁にかかった時計に視線を向けると、ちょうど午後3時を過ぎた頃合いだった。

今日は葉那との3回目のデートということになっていた。祇園四条で待ち合わせて(といっても僕は30分前に待ち合わせ場所に着いていた)、彼女が来たら「ううん、今来たとこ」だ。それからランチに割と手頃なフレンチの肉料理を食べた。当然営業時間や日時、混み具合は調べてあった。他にも2つほど店の候補はあったが、「お肉が食べたい」(葉那, 2028/3/28 a.m.11:28)とのことでそこに来た。ドアを開けて店内に入ると店員がすぐに案内してくれた。次は「席そっちで良い?」「荷物こっちに置こうか?」だ。2人でメニューを見ながらあれこれ話すのは楽しい。優しくはっきりとした口調で丁寧にオーダーし、またとりとめのない会話をして料理を待った。料理を運んできた店員は大きな皿を一気にいくつも持つものだから仕出ししにくそうだった。大丈夫ですよ、と言って代わりに受け取った。ほんと、大丈夫だ、抜かりはない。そう言い聞かせ、もう一度彼女を見た。
「んーでも、このままでいいのかなあって思っちゃったりして。周りの子で私よりもっと将来に向けてがんばってる子とかいるし。みんなすごいなあ…」
「そんなことないよ。葉那だって英語の勉強コツコツやったり、インターンだってがんばってるし、いい経験だよ」
実際そんなのがいいと僕は思わなかった。けれどそれは僕が思わないというだけのことであって、彼女には彼女なりの努力の仕方と、それによって多少なりとも肯定できる自己があるのだ。であるならば僕はこう言おう。
「葉那は今のままでも十分がんばってると思うし、無理しすぎることないよ」
すると表情にわずかに安堵と喜びが見え、
「うん。ありがと。そっか…なんかそう言ってもらえるとまたがんばれそう。ほんと、ありがとね」
と続いた。当たりだ。
「でもさ、ユウトは勉強できるじゃん、すごいや」
「ありがと。でも僕だって言うほどじゃないよ。それに世の中勉強だけじゃない、って言ったらまあ陳腐に聞こえるかもしれないけど…勉強ができるっていうのは、少なくとも僕にとっては、価値のうちの1つでしかないんだ。最近は学歴重視の世界になってきたけれど、測り方は『勉強ができるかどうか』じゃなくて『何ができるか』だと思うんだ。僕は勉強ができるとしても、葉那みたいにダンスやお菓子作りだってできやしないよ。他の人にとって興味を持ったり、努力したりしていることが、僕にとってはたまたま勉強だったというだけのことだよ。世の中いろんな人がいて成り立ってるんだから」
「そうやって考えられるのもすごいなあ」
料理は美味しかったし残さず食べた。「いただきます」「ごちそうさでした」。
店を出てからは八坂神社にお参りをしにいった。縁結びだとか何とかで、恋みくじを一緒に引いた。もちろん僕はそんなものは当てにしていないが。
「えぇ~私小吉だった…。しかもここ見て、『良縁 未だ遠し』だって」
「いいんじゃない、気長に待てば。焦って掴もうとしても逃げられちゃったりするし。葉那はいい子だからいい友達ができるよ」
「ユウトっていつもポジティブだよね。すごいなあ」
「その方が色々と生きやすいと思うからね。すーぱーぽじてぃぶしんきんぐ」
「ふふっ。でも確かにちょっと楽かも」
もちろんこれだって大事な「項目」の1つだ。僕と彼女は神社をぐるっと1周回ってから街でウィンドウショッピングをした。ペースは合わせるし、途中、「大丈夫?歩き疲れてない?」と聞くし、危なかったら手で引き寄せた。そういう「求め」があるからだ。いよいよゲームじみてきたな、と思う人もいるかもしれない。でもそれでもいいのだ。僕はただ、欲しいものとそれに相当する努力を秤にかけているだけだ。
僕は以前、次のようなことを友人に話したことがある。「打算」とか「駆け引き」とか、はたまた「建前」とかいった言葉で表されるような事態は、ややもすれば意図的に人を悪い方向へと欺くことになるということで、無批判に非難する人々がいる。確かに、ある行為をするに際しても、行為者が相手の心理や状況を狡猾に利用しようという性悪的な意図からその行為に至った場合は、他の諸条件を考えに含めないならば、それ単体としては糾弾されるべきものもあるだろう。しかし無批判な非難をする人々は文字通り、あるいは定義的に、そういった思考過程は経ていないことがほとんどだ。彼らは単に全開なのが美徳だと信じて疑わないのである。考えてもみて欲しい。例えば君が友人と何を食べるかを決めるとき、友人は3人とも近くの洋食屋にいきたいという。そこで君は思うわけだ。いやいや、今日は断然和食の気分だ、洋食なら昨日も一昨日も食べたのだ、と。君は和を乱して(洋を乱して?)、3人の友人と颯爽と離別し、1人で和食を食べに行くだろうか。ほとんどの人の回答はノーだ。「あーいいじゃん洋食、行こうよ」とでも言うだろうか。今君は、本当は和食が食べたいのに、洋食屋にみんなと行きたいという嘘をついた。あれれ? そう、気遣いだって嘘でできてるんだ。でも決して悪いことじゃないだろう。
あるいは見返りを求めることを非難する人々もいる。なるほど確かに僕よりもはるかに成熟し達観した人間ならば、意識から無意識への移行を、すでにその理論と実践によって済ませているのかもしれない。だが現実にそんなふるまいを見せる人間は果たしてどれくらいいるだろうか。それに彼らだって最初からすべてを完璧にこなしたわけではあるまい。まずは意識して声を発していたはずだ。そうして贈与と贈与の繰り返しの中で、無意識に声を発するようになり、見返りを求めることもあっても良いのだと感じたはずだ。誤解を招かぬよう補足しておけば、僕は物事のすべてを見返りで考えてよいというのではない。世の中聖人ばかりではないのだから、うまくいかない部分は機械に頼ろうというのである。

神社を後にした僕らは、祇園の街並みを眺め、高台寺を拝観し、河原町通りを歩いてカフェで休憩することになり今に至る。僕は温かいストレートの紅茶を、彼女はカプチーノを、それぞれ注文した。注文の際の手順は先と同様である。
「どうしたの?ぼーっとして」
「うん?ああ、なんでもないよ、結構歩いたなあと思って」
それからは彼女の大学のサークルや勉強の話をうんうん聞いていた。相槌は単調にならず、褒めて、受け入れて、肯定した。時には知らないような話も、ショーのような価値観も提示した。僕が今まさに傾倒している文学の話だって、学問の話だって、置いてけぼりにせず話した。そのたびに彼女は世界中のどこか見知らぬ土地に心を送ったように、感心した素振りを見せた。1日中猛暑と闘っている地域の人々がアイルランドで空から舞い落ちる結晶を見たらきっとこんな顔をするだろう。
「そういえばさ、今日の服結構好みなんだよね」
「ほんと?この間買ったばかりなの」
「うん。とてもよく似合ってるし、髪型も変わって少し大人っぽく見える」
「そうなの、前髪少しだけ。よくわかったね」
「こうして対面してたら、気づかないわけにはいかないよ」
「ありがとう。ユウトってさりげなく嬉しいこと言ってくれるよね」
「そう?特に意識したことはないけど」
カフェを出て、彼女の行きたがっていた雑貨屋と本屋に行った。途中、僕がピアノの楽譜を片手に、幼い頃にピアノを習っておきたかったという話をすると、それでピアノも出来たら完璧だね、と今日一番の褒め言葉をいただいた。安牌だ。
夜はあらかじめ予約しておいた韓国料理系の雰囲気の良い店でディナーにした。店の料理や今日1日のこともあり、思ったよりも会話が弾んだ。楽しい空気のまま、僕は彼女をお気に入りのバーに連れて行った。彼女曰く、こういうところに来るのは初めてだそうだ。僕はお酒の知識なんて完璧でないけれど、それがむしろいいのだ。知ってることよりも知ってることを上手く使うことに価値があるのだ。お酒に酔って、場に酔って。帰り際には「気をつけて」。帰った後には「ありがとね」。

思えば今日も僕にとっては1つの舞台だった。舞台の上では演じることが求められるし、僕もそれで観客が喜び、また観にきたいと思ってくれるならそれをするまでだ。あるいは数学や英語の勉強かもしれない。まず問題を解く。初めて解く場合は完璧にできることはほとんどない。次に何ができて、何ができていないのかという至極当たり前のことを確認する。そしてできていないことをできるようにするにはどうしたらよいかを考える。公式や単語・文法の知識が足りていないなら覚えるし、解答を作る能力が不足しているなら何度だって練習しよう。それからは訓練だ。わかっていることを実際にできることに変えていくための訓練だ。するとそのうちできるようになっていく。問題は、自分がそれをできるようになりたいという気持ちと、そのために必要な負担や労力といったものと、どちらが優位に来るかということに尽きる。それでも欲しいなら努力しよう。そうまでして欲しくないなら頑張る必要なんてない。そんなふうに学んできたから、過去に思いを馳せてしまったし、脳裏に浮かぶ失敗も糧にしていくくらいじゃないと生きていけない。もしも僕がフィッツジェラルドならこんな書き出しで小説を書いたかもしれない。

彼女の心を動かせるなら、「向上心があって努力できて」、「尊敬する部分があって」、「話を聞いてくれて」、「肯定してくれて」、「えらい、がんばってるって褒めてくれて」、「ちょっとした変化に気づいてくれて」、「甘えられて、頼り甲斐がある」、そんな人になればいい。
「愛情表現はしてくれて、でも特別扱いしてくれて」、「話していて楽しくて」、「悩みや相談にも乗ってくれて」、「寛容でちょっとしたわがままも聞いてくれて」、「気遣いができて」、「未知の世界を教えてくれもする」、「一緒にいてポジティブになれる」、そんな人になれるのなら、彼女のためになればいい。
「そういう人でないとだめ」と、彼女に叫ばせるまで。

不器用ながらも生きていこう。今日も頭に機械を乗せて。

コメント

  1. nininga より:

    ぶんしょうがぎこうてきですごいとおもいました(小並感)

    私は文を読み慣れていないので
    この文章がどれほどのものかは分かりませんが

    • オイラー より:

      ありがとーござーいーます!(小並感)
      僕も小説はそんなに読んでこなかったのですが最近小説熱が出てきたので、何となくで書いてみました。よかったら次回以降も読んでみてください。

  2. nininga より:

    私活字アレルギーが発動すると読めないので
    アレルギーましな日に読みます

  3. mocc より:

    現時点でのオイラー氏の考え方の枠がよく表れた作品やと思いました(色々見かける普段の言動と繋がった気がしますね)
    文学どうこうは僕には分かりませんが、自分の思考を明文化するのは難しいことなのでこれからもやってくれると参考になります

    • オイラー より:

      そうですね〜、僕もフィクションとしていろいろ脚色はしましたが、基本は考え方としては合ってます。
      言語化は難しいです。勉強でもそれは言えると思うので、これから書いていくことが良い訓練になればなあと思います。読んでくれてありがとうございました!