余罪

気がつくと,僕の目の前には広大な草原が広がっていた.

「ああ!やった,成功だ!きみ,見たまえよ,この景色を!豊潤たる大地を!はははは,やった.大成功だ!」

隣で男がおおはしゃぎしている.私はこの男について何も知らないし,そもそも自分が何処にいるのかすらわかっていない.
「どうしたんだ君.もっと喜びたまえよ」
話しかけられても,いま,この状況を把握するのに精一杯で何も答えられない.
自我が混在して,境界がゆらぎを増していく.大切な何かが欠落しているというよりも,はじめからそこに何もなかったかのように.
「ふふん…….そうか.きみはおそらく記憶をなくしているようだ」
記憶,と言われてはっとする.もしかしたら,ぼくは記憶をなくしているのかもしれない.
「まあ,決して珍しいことではない.超光速の空間では我々の直感に反するような出来事が起こるものだ.いいかい,僕達は脱走したんだ.あの護送宇宙船から」
脱走,という不穏なことばが突き刺さる.
「監視員の目を盗んで,非常用の脱出ポットで抜け出してきたんだ.いいかい,この脱走が成功した理由は三つある.一つは人員の少なさだ.ただでさえ金のかかる宇宙船なのに,囚人のためにそこまでのリソースは割けない.そこに我々の付け入る隙があったというものだ.二つ目には非常用ポッドというその性質に大きく依存する.宇宙空間のような不確定要素の多い場所において,唯一の生命線とも言えるポッドは誰でも簡単に使えるような仕組みになっている.なんの許可もなくともね.そして第三に……」
そういって男は顔をぐっとこちらに寄せ,にたりと顔を歪める.
「……私が,スペースシップのギークであるということだ」
男は得意げにそう言い切った.こちらはまだ何も喋っていないのにべらべらと解説し,相当に興奮しているようだ.
「……すると,僕達はもともと罪人だったということか」
「そんなことは些細な事柄に過ぎない.見給えこの光景を!適した気温に肥沃な大地,草木が生い茂るまるで理想の星じゃないか.私の生まれた星よりもポテンシャルがある.いいかい,私と君はこの星の生態系のトップに立っている,アダムとイブだ.私も君も男というのが少し残念だが……うむ,宇宙船から女の一人でも引っ張ってこればよかったかな」
振り返るとそこには,たしかに非常用ポッドらしきオブジェクトが草原の上に構えていた.

「今日からここで一緒に暮らすのだ.仲良くしよう」
そう言うと彼は非常用ポッドを開けた.中は大人二人が横になれる程度の広さがある.壁には顆粒性の栄養剤とライター,ナイフなどの最低限のサバイバルキットに,外部との連絡用であろう通信機器が備わっていた.
「まずは生態系を知らないといけない.私はその当りを探索してくるが,君もついてくるか」
ここでぼうっと待っていても仕様がないので,男についていくことにする.装備を整えるとまるでトレジャー・ハンターのようであった.
「この機械は非常用ポッドの場所を示す.つまり,我々はもといた場所に確実に戻れるということだ.どうだい,あの無限にも思える草原がどこまで続いているか,確かめたくないか」


僕達は太陽のほうに向かって歩き始めた.草はそこまで高さのあるものではないから特に苦もなく進むことができたのだが,どこまで歩いても,何時間歩いても,ずっと同じ景色のままであった.男がしきりに草と土を念入りに調べても,それらが虫に食われていたり,何らかの動物の足跡を見つけることはできなかった.はじめは意気揚々と歩いていた男も,次第にテンションが下がっていき,ついに何言も発しなくなった.

僕達は無限とも思えるような草むらを歩き続け,太陽は沈み,辺りは暗闇に包まれた.
「うん,野生動物の気配はないし,ここで野宿したって襲われる心配はないだろう」
男はケロリとそう言うと,草むらにごろりと寝転がんだ.
私ももう歩き続けてへとへとで,立っているのすら辛い.男だってその実,相当無理しているに違いない.



僕は覚えていなくとも知っている.この世界がどうしようもなく空虚で,ただ漠然とした情報のみを持つ存在であるということに.これは罪であり,罰であることに.ただ認識という知体そのものによって支配されていることに.
僕は覚えていなくとも知っている.分かっているんだ.


「……君は,この世界のこと,どう思う?」
僕は男に聞いてみた.
「……うーむ,わからない.わからないけど,素敵な世界だと思う」
それ以上何も聞くまい.僕も草むらに寝転がった.寝転がると,空には二つの月が淡い光を放ちながら浮かんでいた.